「・・・・・・ッ!はぁっ・・・、はぁっ・・・」
静かな部屋のシングルベッドに一人きり、激しい動悸に飛び起き、額を伝う汗を拭う。何度も繰り返し夢に見る、恋人の夢。元、と言葉をつけた方が正しいのだろうが、ごめんねもありがとうも、サヨナラさえも伝えられていないのだ。過去形にすることができぬまま、過去を引きずって生きてきた。
目覚ましが鳴るまで程遠い時間、再び横になる気にもなれず、頭を掻きむしりながら浴室へと向かう。叩きつけるように降り注ぐお湯が、汗で貼り付いた髪を流して気持ちがいい。
私たちが恋仲だった頃。彼が徐々に憔悴していく様子に気づいていた。割り当てられる任務の多さから互いに単独行動が増え、たまに顔を合わせては互いに作った笑顔を見せ合う日々だった。私たちの世界の均衡が崩れた日、叶うのならば私も後を追いたかった。今となってはきっかけも思い出せない、些細なことで喧嘩したまま、彼は高専を去ってしまった。
「会いたいよ・・・傑・・・」
夢の中に度々現れる彼は、年を重ねるごとに輪郭がぼやけていった。このまま、思い出せなくなる日がくるのだろうか。髪の毛を絡め取った排水溝が、ゴボッと大きな音を立ててお湯を吸い込んでいく。どれだけシャワーの勢いを強めても、必死に絡まり流されまいと漂うそれらを一瞥し、タオルで髪を乱雑に拭く。
「まだ木曜日・・・か」
幾分かすっきりした頭で、週末までの算段をつける。
恋人である私には、傑から接触があるかもしれない。同じこと考えたのは、上も同じだった。携帯を取り上げられ、友人達との接触も禁じられた。後輩の死に追い討ちをかけた恋人の離反。受け入れ難い現実と軟禁生活に、心が壊れるのは必然だった。何度か最悪の道も浮かびはしたが、心に灯した灯火がそれを許さなかった。
暗闇を煌々と照らすスマホ画面に、久しぶりに彼のフルネームを打ち込んで応答を待つ。姓名判断や、似通った名前の他人の情報が並ぶ画面に、素早く親指を動かして別れを告げる。
離れた場所にいる人と人を簡単に繋ぐ、ネットワークが発達したこの社会。消息を断った傑を見つけることは、そう難しいことではない。そう信じて迷走した時期もあった。呪術師たちが見つけられない相手なのだ、一般人となった私に掴める情報など、露ほどもなかった。
「決めた、今日で最後にする」
シワの寄ったベッドへスマホを放り投げ、ドライヤーで髪を乾かす。傑と初めて、口付けを交わした思い出の場所。夢の中に現れる彼は、現実のものではない。私の記憶が創り出した幻想で、会いたいと思いを募らせているのも私だけ。分かっていても、夢を見た日にあの場所へ行くことをやめられなかった。時には多くの人が憩う中、時には誰一人いない、その場所で、ひたすらあなたの視線を待ち続けた。
時間と共に肩を落とす私に、背中から声を掛ける彼を、一体何度想像しただろう。遅いよ、ずっと待ってたんだよ、会いたかったって、胸を叩くつもりだった。自分のことで精一杯で、余裕がなかったの。あなたに支えられて、救われることばかりを考えて、あなたの気持ちに寄り添うことを忘れていたの。ごめんなさいも、ありがとうも、伝えたいことは山ほどあった。
もし、今日一度会えたのなら。サヨナラを伝えるつもりだ。二度と戻れぬ日々に背を向けるためには、あまりにも残したものが多すぎた。硝子ちゃんと五条くんが接触したと話を聞いてからは、通い詰めるように新宿へ繰り出した。たくさんの人で溢れる街中で、一人立ち尽くしたまま動けなくても誰も気に留めなかった。
いつか迎えに来てくれる、あの大きな手に私の手を重ねる日はそう遠くない。そんな幻想を抱き続けるには、歳をとりすぎた。今日で最後、未練も後悔も全て綺麗さっぱり捨て去ろう。あえてなにも持たずに部屋を後にした。なんとなく、もう戻らない気がしていたから。
流れるまでのお話
Twitterのワンライ企画参加分
お題:ネットワーク、灯火、あなたの視線を待っている