「命令がないとなにもできないなら、私がしてあげようか」
鼻の上には少し熱いくらいの蒸しタオル、目の上にはキンキンに冷えた氷水。泣くに泣いて、自分の奥底にしまっていた弱い私を全て吐き出して、残ったのは激しい頭痛と虚無感。
「十年前、見知らぬ男の元へ嫁いだんだろ?その時点でもう、ナマエは五条家の使用人じゃない」
悟様は、どこまでお話しになったんだろう。彼が知る私の十年間と、私の過ごした十年間には相当な誤解と乖離がありそうだが、わざわざ話すことでもないと口にしたことはなかったのに。
「お前たちの今の関係は、ただの雇用主と労働者。働く環境に不満があるなら、労働者側から契約を解除することができる」
もし、私があの人の言う通りにしていたら。しがらみも過去もかなぐり捨て、外の世界で生きていく術を身につけていたら。
「見ての通り、コキ使われていてね。身の回りの世話を焼いてくれる友人が、側にいてくれたらいいんだけど」
命令してあげる、なんて強い言葉を使っておきながらも、選択肢も拒否権もちゃんと用意されている。当たり前のようで当たり前ではない優しさに、枯れ果てたと思っていた涙が氷水の入ったビニール袋を伝う。
「辛くなったらいつでもおいで。五条が高専へ連れてきたってことは、もう隠しておく気はないんだろう。これからはいつでも会える、ナマエの意思で」
一人で立って歩けと、強く背中を押された気分だった。この世に生を受けてから、自分の役割は決まっていた。使用人として、ただただ主に支える。そこに私の意思は必要なくて、この命が尽きる日まで与えられた配役をこなせばいいだけだった。
「ずっと・・・、布をかけられていたのに」
暗い暗い、鳥籠の中にいた。大きな布で覆われた世界は、壁も天井も見えず、少し飛ぶだけで壁にぶち当たってしまって。外は危険だ、これ以上傷つくのならじっとしていた方がいい、そう思って受け入れてきたのに。
「空の青さなんて知りたくなかった。いっそずっとこのまま・・・閉じ込めていてほしかった」
「場所を変えないと見えない世界もあるだろ。アイツにもなにか考えがあるんだよ」
悟様に暇を出されたら、私は行く宛がない。その不安を伊地知さんへ打ち明け、日雇いでも使ってくれるアテがないか尋ねた。結果、硝子ちゃんとの再会を果たせ、都合のいい展開になっているはずなのに。
「悟様が分からない・・・。私はどうしたらいいの」
もし、使用人としての終わりを言い渡されなければ、何事もなかったかのように振る舞えばいい。求められているは私ではなく、この身体であったとしても、そういうものだと受け入れてしまえばいい。
吐き出したことで空っぽになった心なら、どんな現実だって受け入れてやり過ごせる。そんな気さえしていたのに。
* * *
今後どうするのか答えは出ないまま、硝子ちゃんに仕事の依頼が入ったことで私たちの密会は強制終了。ここにいればいいと引き止める言葉を振り切って、広い高専内をあてもなく歩きまわった。
靴擦れしたのだろう、足先に走る痛みに足を止め、吸い込まれるように自動販売機が並ぶ建物へと入った。
「あれ、お姉さんどっかで会ったことある?」
ベンチに腰掛けてコーラを飲んでいる、派手な髪色の男の子。キズ、もしくはアザだろうか。特徴的な目の下の模様は、すれ違うだけでも相当印象に残りそうだが、あいにく私の記憶には存在しない。
「さぁ・・・。どうでしょう」
「つーか、お姉さん何者?」
自分が何者であるのか、私が一番知りたい問いを直球でぶつけられ、思わずたじろいでしまう。眉を寄せながら「見たことないけど補助監督?」と言葉を続ける彼に、どう切り返すか必死に考える。
ここで悟様の名前を出すのは、なんとなく良くない気がして、伊地知さんに高専内を見て回る許可をもらっていることだけを伝える。
「へぇー。見学とかできるんだ」
「ちゃんと許可はもらってるの。ほら」
首から下げた許可証を印籠のように掲げ、決して怪しい人間ではないことをアピールすると、ようやく警戒を解いてもらえた。
「俺、虎杖悠仁!お姉さんは?」
「ナマエ」
「名字は?」
ニカッと人のいい笑みを浮かべて自己紹介をしてくれる少年。分かっている、初対面の年上女性をいきなり名前呼びするには失礼だと考えたのだろう。互いにフルネームで自己紹介するのはごく普通のこと。頭では分かっているのだけれど。
「・・・・・・ミョウジ、ナマエ」
「ミョウジさんね!あ、ここ座る?」
「虎杖くんは、呪術師?」
勧められるがままに、彼の隣へ腰を落ち着け、大して興味はないが無難な質問をしてみる。規則正しい生活をおくるよう躾けられていた鳥が、突然、鳥籠から追い出されたのだ。籠へ帰る方法どころか、時間の使い方さえも分からない。
「おうっ!まだまだ修行が足んないし、わけわかんねー事だらけだけど。五条先生みたいに強くなるのが、今の目標」
「五条、せんせい・・・?」
五条って、悟様のことだよね?五条家の人間が東京校に出入りしているなんて話、聞いたことがない。でも悟様が先生って、どういうこと?あの悟様が教鞭をとっているなんて、信じられない。
「ミョウジさん、五条先生のこと知らないの?」
「あっ、いや、そういうわけじゃ・・・。あのっ・・・!虎杖くんからみた五条先生って、どう?」
「俺からみた先生?うーん、とにかく最強。なんつーか、生き物としての格が違う!」
それから、と私の知らない悟様のことを話してくれる虎杖くんに、湧き立つ好奇心と興奮が止まらない。もっと知りたい、私の知らない悟様を、私といない時の悟様のことを。
他には?もっと聞きたい、暇つぶしになればと話しかけた少年が、まさか悟様の教え子だったなんて。そんなことを思いながら話の続きを急かそうとした私に、虎杖くんの顔に現れた目と口があざ笑う。
「なるほど、お前、アイツの女か」
「おい、勝手に出てくんな。びっくりさせるだろ」
バチンッと頬を叩く音が余りにも痛そうで、思わず目をつぶってしまった。見間違いであってほしい、そんな願いを込めながらゆっくり視界を開くが、手の甲に移動した口は変わらず私をあざ笑っている。
「あの男が熱心に見ていた女だろ、記憶力のない小僧め」
「五条先生が・・・?」
「ねぇ、五条先生は「僕がなに?」
バケツに入った冷水を、頭の上からぶっかけられた気分だった。焦がれに焦がれた相手の低い声は、一瞬で全身の血をサーッと引かせた。
「おっ、五条先生!」
「やぁ、悠二。なにしてんの?」
「なにって、なんとなく成り行きで話してた」
あれほど会いたいと涙を流し、どんな現実でも受け入れる覚悟を決めていたはずなのに。なんの前触れもなく現れた悟様に、私の心臓はきちんと動いていることが不思議なくらいだ。
「ミョウジさん、大丈夫?すげー顔色悪いけど」
「へぇ・・・。ミョウジさん、ねぇ」
マズイ、なにか言い訳を、でもなにを?私はこの場をどう繕えばいいの?悟様は私のことを虎杖くんにどう説明する気なのだろう、悟様の出方が分からぬ以上、下手に口を滑らせるわけにはいかない。
「あっ、思い出した!先生の待ち受けだ!」
「僕の待ち受けがなに」
「たまにすげー優しい顔でスマホ見てると思ったら、美人の寝顔写真でさ!あれ、ミョウジさんでしょ?」
どういうこと?悟様の待ち受けが、私の寝顔・・・?そんな写真を撮られた覚えもなければ、心当たりさえ一切浮かばない。もしかして、私と似た他の・・・
「なんの話?僕の待ち受けコレだけど」
「あれ?おかしいな・・・。宿儺も見ただろ?」
私の位置からは、悟様の手元は死角になって見えない。見たいようで、見たくない。知りたいようで、知りたくない。相反する感情に葛藤しつつも、全身金縛りにあったように動けない。
「なんか言えよ、宿儺!」
「あっ、あの、私はこれで失礼します」
虎杖くんの一際大きな声に、弾かれたように言葉を発する。いざ悟様を目の前にしてしまうと、どう振る舞うのが正解なのか分からない。頭の中は完全にパニック状態だった。とりあえず硝子ちゃんの部屋へ逃げよう、私の意思で行動していいと言ってもらったのだから。
「どこ行くの、ナマエ」
「・・・!」
私の身体には指一本も触れていなければ、視線さえも合わせていない。なのに、どうしてだろう。あなたの言葉一つで、首に巻き付いた鎖がジャラッと不気味な音を立て、身動き一つ取れなくなってしまう。
「ミョウジさん?」
なんと愚かなことを考えていたんだろう、私は。私の居場所なんて、どんなに探してもハナから一つしかないのに。
「ナマエ、こっちにおいで」
なんて優しい音色だろう。男性のものとは思えない艶めかしい、色気を含んだそれに、振り返ってゆっくりと間を詰める。
「いい子だね、ナマエ」
薄く開いた唇からのぞく赤い舌が、ゆっくりと下唇を舐めた。その艶かしい動作に背中がゾクゾクして、忘れかけていた欲情が刺激される。あの舌が、私の身体を這うの。頬から首筋、胸の頂きからへそへ、さらに下へと。
ほぼ無意識のうちに、手を伸ばしていた。悟様の頬へ手を添えることで、震えは止まった。ひと月ぶりに感じる悟様の体温は、不安と孤独で凍てついた心を一瞬で溶かし、なにもかもをどうでもよくさせた。
「行こうか」
いつもとは違う、真っ黒なアイマスクで隠された目元からは、感情を読み取ることはできない。私の出過ぎた今の行動を、どう受け止められたのか。
ただならぬ雰囲気を醸し出す私たちに、虎杖くんが立ち去る機会を見失っていることに気づいてはいたが、私の世界には悟様しか存在していなかった。