小説

『コンビニ行きたい』
決して大きくはないはずの短い通知音が、静かな部屋に響いた。手元からスマホへ視線を移せば、時刻は十一時を過ぎている。普通に考えれば、起きているかを確認するような時間帯だ。
「ハァ・・・」
俺が行かないと言えば、彼女は一人でも行くだろう。ビビりなくせに変なとこで度胸を発揮するヤツだ、チャリに乗って颯爽と坂を下る姿が容易に想像できる。
読みかけの本にしおりを挟み、サイドテーブルへ置いて立ち上がる。部屋着のままだが、深夜のコンビニへ行くだけだ、構わないだろう。隣室からの物音が聞こえなくなって久しい、できるだけ音を立てぬよう注意を払いながら、スマホと財布を掴み、部屋の戸を開いてギョッとする。
「来ちゃった」
唇の前に指を立てながら、イタズラが成功した子供のように笑うナマエ。来ちゃったじゃないだろ、いま何時だと思ってるんだよ。こんな時間に男子寮に忍び込んでいることがバレれば、説教では済まないだろう。それになんだよその格好、今すぐ部屋に引き込んで俺のジャージに着替えさせるべきか?
「既読つかなかったから、もう寝てるかと思った」
嬉しそうに笑う彼女から目が離せなくて、思わず見惚れていたら「行こう!」と手を引かれてしまった。薄手のTシャツから透けている下着のライン、ショートパンツから伸びる細く白い足。今からでも遅くない、俺の部屋に引き返してせめて上着だけでも羽織らせたい。悶々とする俺をよそに、足早に歩くナマエの声は至極楽しそうだ。
「伏黒くんが寝てたら、一人で行こうと思ってたんだ」
「こんな時間になに買いに行くんだよ」
「えっ・・・?」
突然足を止め、俺の顔をマジマジと見つめるナマエ。おかしな質問だろうか、深夜にわざわざコンビニへ出向く用事を、一人で行くことさえ厭わない理由を尋ねることは。みるみるうちに真っ赤に染まる顔は、暑さだけが理由ではないだろう。えっと、その、あれだよあれ!とあたふたし始めたナマエは、俺になにかを隠している。
「あっ、アイスだよ!こうも暑いとさ、食べなきゃってならない?もはや使命というか・・・ね?」
「腹、壊すなよ」
「そんなに食べないよ」
頬を膨らませて反論する彼女の小さな頭に手を乗せ、わしゃわしゃとかき乱せば高い悲鳴が上がる。今度は俺が口元で指を立ててやれば、バツが悪そうに視線を逸らされた。
コンビニへ行きたい理由は他にあるのだろう、男である俺には言いづらい買い物だってある。追求はやめて、学生が共同で使用している自転車を引っ張り出した。サドルについた埃を軽く払っていると、足を大きく広げて荷台へ跨るナマエ。必然的に短くなったショートパンツの裾、落ちないようにとサドルを握る両腕が胸を寄せ、くっきりと谷間のラインが見える。
「どうしたの?あ、私が漕いだほうがいい?」
無自覚とは恐ろしいもので、刺激され続ける俺の下心をよそに、見当違いな思い込みで荷台から降りようとしている。再び大きく上げられた足は、あと少しで下着が見えてしまいそうで。見えそうで見えない、ギリギリのチラリズム。思わず生唾を飲んでなり行きを見守っていたが、突然耳を襲ったつんざくようなセミの鳴き声に、ハッと我に帰る。
「いや、俺が漕ぐ」
「え、いいの?」
「俺を後ろに乗せて動くと思うのか?」
「・・・・・・でも、私が降りるのずっと見てたから」
曇りなきまなこで真っ直ぐに見つめられ、羞恥心と罪悪感が入り混じった妙な気持ちに襲われる。なにも言えず気まずさから視線を逸らすことしかできない俺に、「コイツ足短いなって思ってたんでしょ!」と再び見当違いなことを言い出しては、怒りはじめたナマエ。このままでは埒が明かないと、両脇に手を入れて持ち上げ、再び荷台へ座らせる。
「わわっ!びっくりした・・・」
「とばすからちゃんと掴まっとけよ」
「うん!」
膨らんでいた頬はウソのようにエクボが浮かび、谷間を強調していた腕は俺の腰に抱きつくように回された。必然的に背中に当たる柔らかな感触に再び刺激される、下心。コンビニから帰る頃には日付は変わっているだろう、ナマエはどうする気なのか。こっそり女子寮へ帰るか、瞳を潤ませて「俺の部屋に泊まりたい」ってパターンもありえ・・・ないか。
「星、綺麗だね」
「・・・あぁ」
思い返せば、ナマエと会ってからの俺は下心丸出しじゃないか。最後に彼女へ触れてから約半月、怖がらせぬよう、不安にさせぬよう、意識してきた。言動も徹底して気をつけてきた。ナマエの口からまた、前に進みたいと言葉が聞けるまで、俺はナマエを性的な目で見ないと誓ったのに。
「アイス、なに食べたい?」
「なんでもいい」
「じゃあ、半分こにできるのにしよーっと」
もう少し、我慢できると思っていた。同世代に比べれば性欲は強い方ではない、理性でなんとかできると思っていたのに。遠慮なく当てられる柔らかな感触、暑い暑いと言いながらも、俺の背中に頬までピッタリとくっつけるナマエ。会話の一つ一つ、仕草や動作の一つ一つを愛おしいと思えば思うほど、無自覚な行動の数々がほんの少し憎らしく思えて。頭の中で素数を数えて気持ちを落ち着けながら必死にペダルを漕げば、目と鼻の先には煌々と明かりを放つコンビニが見えた。

「うーん!生き返るー!」
入店を知らせるチャイムと同時に、冷気が全身に降りかかる。歩きながら背伸びをし、脇目もふらずにアイスのショーケースへ歩くナマエを見送る。時間帯もあってか、店内に俺たち以外に客の姿はなく、あくびをしながらレジに立つ男性店員が一人いるだけ。
優柔不断な彼女がアイスを即決できるはずもなく、さっそくあれでもない、これでもないと独り言を漏らしている。そんな様子を見守りつつ、ふらりと店の奥へ足を向ければ、生活用品が並んだ棚の前で思わず足が止まる。

『次に買いに来るときは、自転車で来ようね』

初めてナマエと肌を重ねようと試みた日。まさか最後までできるとは思っていなかった俺は、ゴムを準備していないことを打ち明けた。焦らなくとも日を改めればいいと主張する俺に反して、ひどく吃りながらも「いまからコンビニへ買いに行こう」と俺の手を握ったナマエが忘れられない。
行きは繋いだ手を揺らしながら、夜のお散歩だと楽しそうにしていたのに、コンビニの入り口をくぐってからは貝のように口を閉じて。万引きをするように棚から一箱かっさらってカゴに入れ、底が見えなくなるまでお菓子や飲み物をこれでもかと詰め込んで。なかなかの重さになった袋をナマエに持たせる訳にもいかず。私も一つ持つから手を繋ぎたい、とむくれるナマエを宥めるのに苦労した。
あの日は結局、最後までできなかった。いざその時になると、ガチガチに緊張したナマエは俺を受け入れることができなかったからだ。涙をぼろぼろと溢しながら何度も謝るナマエに、俺はどうすれはいいのか分からなかった。買ったばかりのゴムを箱ごとゴミ箱へ投げ入れ、ただただ、抱きしめた。例えこの先、ナマエとこういう行為ができなくても、俺は変わらずナマエのことが好きだと、分かってほしかった。

「さっきからめっちゃ悩んでるね」
ふと店内に響いた、男の声。レジから身を乗り出し、人のいい笑みを浮かべながらナマエに話しかけている。一瞬、ビクッと跳ねたナマエは、相手が店員だと気づくとすぐに警戒心を緩めると笑顔で「おいしそうなのが多くて、悩んじゃいます」と答えている。
俺がいる場所はレジから死角になっているのだろう、完全にナマエが一人で深夜のコンビニに来ていると勘違いしている店員は、自分のスマホをチラチラと覗かせながら声をかけるタイミングを見計らっている。途端に腹の奥底で黒いなにかが蠢き、棚から四角いパッケージを一つ掴んで足早にレジへと向かう。ちょうどレジを離れようとしていた男は、俺に気づくと慌てて胸元のバーコードを読み取り、下手くそな営業スマイルを浮かべる。
「1,100円になります」
ソワソワとナマエの様子を伺いつつ、俺の出した金をレジに仕舞い込む店員を軽く睨むが、浮かれているコイツはちっとも気付いていない。差し出されたビニール袋を指に引っ掛け後ろを振り返ると、ようやく二つに絞ったのか右手と左手を交互に見ているナマエの姿。
「ねぇ、どっちがいいと思う?」
「どっちも買えばいいだろ」
「えー、半分こにしようって約束したのに」
「どっちも半分にすればいいだろ」
「そっか、そうする!」
嬉しそうにレジへと走ってくるナマエにバレないよう、ビニールごとポケットへ仕舞い込む。ショックを受けている店員には気づいていないのだろう、俺の腕に自分の腕を絡ませ、帰りは食べながら歩いて帰ろうと笑うナマエ。再び金を払って意気消沈したお礼の言葉に背中を押されるように、自動ドアをくぐる。
「あ・・・。ちょっと待ってて」
「なにしに行くんだよ」
「買い忘れ!」
繋いだ手をするりと解き、再び冷気の漏れる自動ドアの先へ吸い込まれた背中を見送る。男の俺には言いにくい買い物があるんだ、そう自分へ言い聞かせつつも、レジであの店員がナンパしてきたらと考えると、気になって仕方がない。
座った拍子にポケットでカザッと鳴った音で、勢いだけでゴムを買ったことを思い出し、ため息を吐きつつ自転車のカゴに投げ入れる。いつ使うかも分からない、出番があるかさえ分からないのに、なに買ってるんだよ俺は。コンビニの灯りに群がる虫たちをぼーっと眺めつつ、妙に情けない気持ちに襲われる。誤魔化すようにアイスのパッケージを乱暴に開けたところでナマエが出てきて、「待てなかった?」と茶化された。
「帰るか」
「うん!」
約束通り、半分にしたアイスを頬張りながら片手で自転車を押す。カラカラと回るタイヤ、アイスをしゃくしゃくと咀嚼する音、サンダルのかかとを軽く引きずる音。静かな夜に、俺たちが立てる音だけが響いていた。
「ねぇ、このあとのこと、なんだけど」
意を決したように沈黙を破ったのは、ナマエの方だった。相変わらずカラカラと回り続けるタイヤは、もう少しで高専に着いてしまうことを察してゆっくりになっていた。
「その・・・、もしイヤじゃなかったら」
思わず強く握ってしまったブレーキは、キィッと高い音を響かせて自転車を止まらせた。とっくに空になったアイスのパッケージをくわえたまま、もじもじと恥ずかしそうに次の言葉を口籠るナマエ。俺から言うべきか?図らずも自転車のカゴの中には買ったばかりの避妊具、例え最後までできなくとも、ただ触れているだけでも幸せなんだと、伝えるべきか?
「自分の部屋に帰りたくない」
言葉と共にナマエの顔を隠すように現れた、ゴムのパッケージ。奇しくも俺が購入したものと全く同じそれは、真っ赤に染まった彼女を覆い隠していて。
俺が我慢することが最善だと思い込んでいたが、この半月、ナマエはどんな気持ちで過ごしていたのだろう。やけにボディタッチが増えたとは思っていたが、あれはナマエなりのアピールだったのだろうか。なにも言えない俺に痺れを切らしたナマエが「なにか言ってよ」と蚊の鳴くような声で呟くから、自転車のカゴから取り出した同じものを見せて返事の代わりとした。

まぶしい夜をキミと二人で

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