小説

新聞配達だろうか、バイクの走り去る音で意識が浮上する。カーテンの隙間から覗いた外はまだ薄暗くて、布団に戻るか一瞬悩んだが、音を立てぬように抜け出して部屋を後にする。
早朝の空気は澄んで冷たい。肺いっぱいに吸い込んだ空気は寝ぼけた身体を覚醒させ、つま先をトントンと地面にぶつけて、これから帰るんだと気合いを入れる。

昨日は最悪な一日だった。
片手には通学カバン、もう片方の手にはさっきまで身につけていた恵のスウェット。昨夜、感情を爆発させた私は恵の胸を借りて泣き続けた。ようやく落ち着いて冷静になった頃には、日付が変わっていて。勧められるがままに涙と鼻水でめちゃくちゃな顔だけを洗い、準備されていた服に着替えて部屋へ戻った。そこに恵の姿はなくて、代わりにリビングのソファに大きな塊を見つけた。
他人の部屋で眠れるわけがないと思っていたが、布団に入ってからの記憶はほとんと残っていない。昨日は不可抗力だったとはいえ、恵と伊地知さんの声を聞きすぎた。術式に振り回されて取り乱すなんて、何年ぶりだっけ。なんてみっともないんだろう。
長めに吐いたため息は誰の耳に届くこともなく、明けゆく空の白さにかき消された。





* * *





追試お疲れ様会と称して連れ出された、五条さんお気に入りのスイーツショップ。運ばれてきたばかりのコーヒーにボチャボチャと角砂糖を落とす五条さんに目もくれず、適当に注文して運ばれてきたケーキにフォークを突き刺す。甘い匂いが充満した店内で、制服を着た少女を連れている五条さんは相当怪しく見えているだろう。
「いやー、さすがに僕も焦ったよ。あれだけ超非常事態以外は実家に連絡しないようにって学校に釘さしといたのにね。まさか担任がおじいちゃんに電話かけるなんて、ねぇ?」
「そうですね」
「ん?思ったより冷静だね」
「私になんのアクションもないってことは、問題はなかった。そうですよね?」
「そりゃあ、追試で70点も取ればね!誰も文句言えないでしょ」
「何度もカンニングを疑われましたけど」
「ははっ!そりゃあ16点が一週間で70点に化ければ、誰だって疑う」
恵の予想通り、追試では問題が一新されていた。
あの日、なにも告げずに家を出たというのに、翌朝教室の入り口に現れた恵はいつもと変わらない態度だった。普段なら呼び出された時点で睨みつけるところだが、ソファで寝させた罪悪感が拭えなくて、素直に呼び出しに応じた。

『分からないとこあったら、連絡しろ』
差し出されたノートを受け取り、無言でパラパラとめくった先にある数式と解説たち。綺麗な文字が並ぶそれは、授業中にまとめたものだろう。式の途中計算も丁寧に残されていて、他にも几帳面な性格が所々に現れている。
お礼を言おうと顔を上げた先に、恵の姿はなくなっていて、代わりに「伏黒くんと、どういう関係?」と好奇心に満ちた女子に囲まれた。進学先が同じだから、と貼り付けた笑顔で答えて、それ以上追求されないようにトイレへと逃げ込んだ。

「恵には・・・。どこまで話したんですか」
「なにが?」
少しずれたサングラスから覗く青い瞳は、私の心も見透かしているようで。身内にも隠し通していた術式のことも、この人の目だけは誤魔化せなかった。
「とぼけないでください。実家のこと、話してますよね?」
「あぁ、連れ戻されるって話ね」
「他に、どこまで話したんですか」
「他に・・・?例えば、許嫁のこととか?」
ダンッと大きな音が響いて、一瞬で店内が静寂に包まれる。音を発した握り拳は怒りで震え、砂糖漬けのコーヒーカップは茶色の液体を撒き散らした。
「おっ、お客様!すぐに拭くものをお持ちしますね」
「ごめんねー、コイツ反抗期みたいで」
近くを通った店員が、慌てて布巾を取りにバックヤードへと消えた。わなわなと震える拳は、目の前であっけからんとしている男を掴もうとするが、机を殴った痛みでなんとか理性を繋ぎ止める。無限を常時発動しているこの男には、溢れたコーヒーで服を汚すことさえ叶わないのだから。
「恵は関係ない。その話は絶対にしないで」
「・・・・・・関係ない、ねぇ」
テーブルを汚した茶色の液体、元のざわつきを取り戻した店内、意味深に口角を上げる五条さん。追求したところでこの人はなにも答えないし、一切ボロも出さない。あの地獄から救い出し、実家から逃げおおせる手伝いをするこの男は、私になにを望んでいるのだろう。感情の波さえも読めない完璧なこの男の感情を、心の声を、いつか聞ける日がくるのだろうか。

「お待たせしました」
「ありがとう、僕が拭くから。そこ、置いといて」
「かしこまりました。なにかございましたらベルでお呼びください」
そうだ、どこにいたって世界は変わらない。
あの日イヤというほど思い知ったじゃないか。

「ケーキ食べないの?」
「もしかして、口に合わなかった?」
「ここのケーキ、美味いのに」
あの家に産まれた時点で、私に選択肢なんてないのだ。男は呪術師として生き、その一生を家のためだけに捧げる。女は力のある家へ嫁がせ、結納金と称して多額の金銭を受け取る。その金で細々と命を繋ぎ、また次の代へと望みを託す。

「春には晴れて、二人も高専生か」
「あ、そうそう。入学前に学長と顔合わせしないといけないんたけど」
「恵はそつなくこなすとして、ナマエは心配だなぁ。入学断られたりして」
どうでもいい。
どんなに足掻いたって、最後に行き着く場所は決められているのだから。早ければ十八歳の誕生日を迎えるその日に、私は決められた相手の元へ嫁ぐのだ。

「そう焦るなよ、最短でもあと三年ある。禪院のジジイもピンピンしてるし、そう簡単に当主の座は明け渡さないでしょ」
私が幼い頃に、祖父である当主が禪院家と結んだという、縛り。その場に居合わせていない私には、互いがどんな恩恵を受けて、どんな制約を受けているのか知る術がない。ただ、「禪院家の次期当主と婚姻関係を結ぶ」それだけを告げられた。結婚が許される十八歳の誕生日、その日までに禪院家の当主が代われば、私は逃げる術を完全に失う。

「親の心、子知らず、だねぇ。まっ、環境が変われば見える世界も変わるでしょ」
「どこにいたって世界は変わらないし、私も変わりません。それよりも、あと三年しかないんです。縛りの内容を早く調べてください」
「そう焦るなよ。このグットルッキングガイ五条先生に任せなさい!」
この一見ふざけた男が私の恩人で、地獄への片道切符を握った恵を救った。真っ直ぐに、ただただ純粋にこの男を信じられれば、どんなに楽だろうか。口から発する言葉と心で思っていることは正反対、大人たちの汚い欲望と執着に辟易した心では、到底受け入れることはできなかった。

わだかまりが消えてくれない

Chapter1. 中学生編 End

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