小説

「いいですか?キミ達はまだ未成年、本来保護者の監視下におかれて「日付変わるまでには送ってもらうので。お疲れ様でした」
「明日の昼までには報告書出します。お疲れ様でした」
「ま、待ちなさい!まだ話は・・・」
恵の住むアパートが近づくに連れ、再びダダ漏れになった声は全て聞こえぬフリをした。バタンッと勢いよく閉めた高級車はなかなか発進しなかったが、階段を登り終わり、玄関の前に着いた頃には諦めたようだった。

「お邪魔します」
お世辞にも広いとはいえない、古いアパート。借りてきた猫のように緊張してしまうのも、初めて男の子の部屋に入ったのだから仕方ないだろう。
真剣にお勉強する気なんてないんだ、場所なんてどうでもいい。私の術式に恵が気づいたか、はたまた気づかれていないか。ただそれだけを知りたくて来ただけなのだから。
あとは探る方法だけ。術式を使って恵の心を覗くのが一番手っ取り早いが、そんなことができたら今まで生きてきてこんなに苦労はしてない。伊地知さんのように分かりやすく取り乱してくれれば、ダダ漏れで扱いやすいんだけど。
「そこ、座って」
「ん」
通された恵の部屋で、シンプルなデザインの勉強机に腰を下ろす。柔らかいクッションがおしりを包んで、少しだけテンションが上がったのは内緒だ。
「なんで50点取らせるなんて、大見え切ったの」
あくまでも追試、赤点ラインである30点以上を取れば放免なのに、自らハードルを上げるなんて。全く理解できない。
「ああでも言わないと、話が終わんなかっただろ」
「そうかもしれないけど・・・。50点も取れるって本気で思ってるの?」
ダンマリを決め込む恵に、だんだんイライラしてきた。そこは俺が取らせてみせる、くらい言いなさいよ。心の中で16点をバカにしてるんじゃないでしょうね。

「時間がないんだ、さっさと始めるぞ」
「待って、なにこれ」
「アイツが作った小テスト。授業で解いただろ」
「ふざけないで!追試となんの関係があるの?問題が全然違うじゃない!」
「追試で同じ問題が出るとは限らないだろ。解き方を覚えろ」
淡々と表情を変えずに話す恵は、真剣そのもので。目の前のプリントを破ってめちゃくちゃにしてやりたい衝動をなんとか堪え、仕方なくシャーペンを走らせる。
恵の勉強机に座っていると少し賢くなった気がするのに、実際はチンプンカンプン。とりあえず解いてみようと向き合うのに、脳内ではバラバラに散らばった数字と、ガミガミ叱る担任、また赤点取ったの?と笑みを浮かべる五条さんの姿が浮かんで集中できない。
「そこ、間違ってる。問題をよく読め、因数分解だろ。お前がやってるのは式の展開で」
「答え貸して!こんなの、やってらんない!」
「答え見ても理解できなきゃ解けないだろ」
「一生解けなくていいわ、数学できなくても生きていけるし。テスト範囲教えてくれたら家でやるから。もう帰る」
どうしよう、感情の乱れが抑えられない。ただの八つ当たりだって分かってる、分かってるけど頭の中のうるさい声が止んでくれない。
シャーペンを机に叩きつけるように置いて、立ち上がった私を引き止めるように恵の手が触れた。

「落ち着け」
『俺がいるだろ』

触れた場所から伝わる微かな熱が、ジクジクと疼く心の傷に沁みて、鼻の奥がツンとする。
本当は薄々気づいていた。赤点常連、進路は呪術高専にほぼ決まり、保護者代理は問題児と同じ五条悟。そんな私のことを、担任が良い目で見るはずがない。できるだけ波風立てぬよう、優等生を演じてきたつもりだったが、担任が受け持つ数学だけはどうにも苦手だった。
「・・・五条さんから聞いてる。これ以上成績落とすと、実家に連れ戻されるんだろ」
あぁ、なんて惨めなんだろう。初めからこの男は知っていたのだ。知った上で、担任に呼び出された私を、五条さんと電話する私を迎えに来たのか。
「アンタの言う通りよ。笑えばいいわ、京都にも呪術高専はあるんだし、実家から通えばいいじゃないかって」

どうして親元を離れて東京でわざわざ一人暮らしを?
三者面談になぜ実の親が来ない?保護者代理さえも遅刻か?
進路が決まっているからって本気で学ぶ気がないんじゃないか?


三者面談のはずが、最後まで担任と二人の二者面談になってしまった。任務で来れなくなったと、五条さんから連絡があったのは、既に面談が終わった後。長さの合わない物差しで測られた心はズタズタで、どうやって家に帰ったのか、あの日の記憶はほとんどない。
「流れに逆らって泳ぐことは、そんなに悪いことなの?」
こんなこと、恵に言っても意味がないのに。一度刺激された劣等感は心のあちこちを刺激し、ずっと押さえ込んでいたものを呼び起こした。器用に生きている恵が、羨ましかった。頭が良くて、術式の扱いにも長けて式神をどんどん手なづけて。同じくらいの時期に五条さんに見つけてもらって、面倒を見てもらったのに。同じ場所からスタートしたはずなのに、いつの間にか追いつけないほど、その背中は遠くなっていた。

「泣くな」
「泣いてっ、ない・・・!」
「お前が泣くと、苦しい」
「うっ・・・、なに、よ、見ないで・・・」
悔しい、泣きたくなんかないのに、決壊した涙腺はボロボロと大粒の涙をこぼす。私と恵は、なにが違うんだろう。もし私に恵のような才能があれば。術式を自分の意思で自由自在に扱うセンスがあったならば。

あの人たちは私を家族として、
迎え入れてくれただろうか

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