小説

『いつも通り、部屋を綺麗にしておいてほしいそうです。隅々まで掃除が行き届いている部屋へ帰るのは、気持ちが良いと仰っておられましたよ』

悟様の使用人として引き取られてから、求められるのは身体の関係ばかりで自信を失っていた。私は使用人として、悟様のお役に立てているのか。果たして、側にいる権利があるのだろうか。悩み続けたこの一ヶ月と少し。第三者を通して褒められた破壊力は、冷静になりかけた思考を再び鈍らせるには十分だった。気を抜けばスキップしてしまいそうな足をなんとか地につけ、エレベーターで最上階を目指す。通い慣れた部屋の入り口をカードキーで解除し、深夜ということも忘れて勢いよく扉を開け、部屋の空気を肺いっぱいに吸い込む。

「・・・はぁっ」
ダメだ。会いたくて仕方がない。あの大きな胸に、硬い胸板に飛び込んで逞しい両腕で抱き止めてほしい。叶うのならば目を細めて髪をなで、優しく名前を呼んでほしい。
久しぶりに感じる悟様の残り香に、抑え込んでいた感情が溢れ出した。普段は無理矢理押さえつけている分、決壊したダムのように次々と押し寄せる感情の波。
ただ、側にいられるだけで良かったハズなのに。どんどん欲張りになっていく自分が嫌い。ポタポタと服を濡らす水滴に、自分の本当の弱さを思い知らされる。たったの一ヶ月、されど一ヶ月。ここまで悟様の存在が自分の中で大きくなるなんて、想像もしなかった。なんとなく声を上げて泣くのは悔しくて、込み上げる嗚咽は飲み込むことで耐える。
「きっと、もうじきお帰りになる。あと数日の我慢よ」
気持ちを切り替えて、掃除をしよう。どこから取り掛かろうか、まずはいつも通り洗濯をして掃除機をかけて。やけに冴えた目で各部屋を見てまわるが、人が生活した痕跡が見つからない。私が最後に部屋を訪れてから、悟様はお戻りになっていないのかもしれない。
やっぱり帰ろうか、一人でこの部屋に居続けるには理由が足りない。ジェットコースターのように急降下した感情は、終わりのみえない長い夜のせいだ。

ピンッと短い通知音が知らせたのは、ショートメッセージ、つまり本家からの連絡。弱目に祟り目、とはまさにこのことだ。大きく吸い込んだ息を時間をかけて吐き切って、ロックを解除した先の用件に目を見開く。

『悟様が明日、本家で昼食を召し上がります。あなたも戻るように』

短いメッセージと共に添付されているのは、飛行機の時間を記したスクリーンショット。恐らく悟様の予定を把握するようにと、送られてきたのだろう。定刻通りに飛んでいれば今頃、飛行機の中。到着時間から察するに、関西空港から直接本家へ向かわれるのだろう。
悟様が本家でお食事だなんて、にわかに信じがたい。が、一番の側近からの連絡なのだ、嘘であるはずがない。意気込んだ分拍子抜けしたが、これはこれで問題だ。
どうしようか、今からでも家に帰ろうか。連日の寝不足で酷いクマができている。明日に備えて今から睡眠をとって、少しでもいい状態で悟様にお会いしたい。
メールを見るまでは心はドン底に沈んでいたのに。途端にソワソワし始めるのだから、自分の単純さに呆れてしまう。それでもよかった、明日にはお帰りになるんだ。

「決めた。ベッドメイキングだけして、帰って寝る」
使われた形跡のない浴室やキッチン、リビング。唯一、悟様の痕跡を感じたのは、皺の寄ったシーツと投げ出された布団があった寝室のみ。眠っていたところを飛び出したのだろうか。
しんっと静まり返った冷たい部屋に、片足を踏み入れる。思い起こすのは、最後に途中までシたあの日。本家の呼び出しに逆らってあのまま抱かれていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
過ぎたことを悔やんでも、落ち込むだけで前には進めない。浮かんだ考えを振り払うように頭を振って、足の裏からヒンヤリと伝わる床を受け入れる。
広いベッドの上でくしゃくしゃに波打つシーツは、かき乱された自分の心のようで。あるべき位置へ戻るよう、端を持って引っ張ろうとした時、シーツに擬態したそれの存在に気づいた。

悟様のシャツだ。
そう、いつもの服の下にお召しになっている高級ブランドの白いYシャツ。ただの抜け殻なのに、触ってはいけないもののように感じるのはなぜだろう。
ドクンッ、ドクンッと大きく波打つ心臓。ただ、確かめるだけ。着替えようとして手にしたけど、そのまま放り投げたのかもしれない。もしそうならば、軽くアイロンをかけてハンガーに掛けておけばいい。
でも、もし。もしそうではなかったら?震える手でそっと手にしたそれは、当然だが人の温もりは残っていなくて。柔らかな手触り、力を込めて掴んでも簡単にはつかない皺。
ゆっくりと胸元まで持ち上げたシャツに、すんっと鼻が鳴った。たった今しがた、脱ぎ捨てたような香りをまとったシャツに、押さえ込もうとした感情が再びせめぎ合う。いけないって分かってる、このまま回収して明日朝イチでクリーニングへ出すべきだって分かってる。でも・・・。ほんの少しだけなら許されないだろうか。
「失礼、します」
ぽっかりと空いた大きな穴に、恐る恐る右腕を通す。当然のように袖口から手は出てこなくて、悟様との体格差を実感させられ身体が熱を持つ。同じように左腕も通した後に、ボタンを一つ、また一つと合わせる。
ふわりと香る悟様の匂いは、まるで背後から抱きしめられているような錯覚を起こさせた。自分が変態になったような、なんともいたたまれない気持ちに襲われるが、身体は言うことを聞いてくれない。
自分で自分を抱きしめるように肩へ両手をまわせば、聞こえるはずのない悟様の声が聞こえてくるようで。

『ナマエ、いつも僕がするみたいに自分でシてみせてよ』

あぁ、ダメだ。逆らえない。
たしかに私は部屋に一人のはずなのに。後ろから抱きしめられながら、耳元で囁くように私へ命令する悟様がいる。ぶるりと震える身体、肩から離れてゆっくりと下へ向かう右手。
こんなところを誰かに見られたら。恐ろしい結末にゾクリと背筋が粟立つが、知られるとしても相手は悟様しかいないのだ。そして悟様は今ごろ飛行機の中、バレる理由がない。
徐々に溶かされてゆく思考とは裏腹に、生々しく動く右手は本当に私のものかと疑いたくなる。すぐ後ろに悟様がいて、悟様の大きな手がズボンのホックを外して。わざとゆっくりファスナーを下ろして、無遠慮に下着の中へ手を突っ込んで。
「ッ・・・!」
大丈夫、これは私だけの、一夜限りの悪い行い。
左手で口を覆ってなんとか声を抑えるが、耳元で囁く悟様の幻聴は止まってくれない。あまりにもの寂しさに気がふれてしまったのだろうか。そんなことさえもどうでもいいと思ってしまうのは、残り香にあてられて欲情してしまったから?
浮かされた頭は快楽を求めるばかりで、"万が一"が起きることなど想定もしていなかった。

長い夜に終止符を打つ、あなたの声

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