小説

温かい伏黒くんの大きな手に、失いかけていた戦闘意欲がメキメキとやる気を出す音が聞こえる。少し前まで自信を喪失し、もうダメだと諦めかけていたのに、伏黒くんと合流できた途端に私の心は鬼に金棒状態。散々弄んでくれた呪霊をコテンパに祓ってしまわないと気が済まない。もちろん、伏黒くんが。
「足、大丈夫ですか?」
「ん?あぁ、これね。転んで擦りむいただけ」

『俺と合流する前に、なにかあったんですか』
傷どころか、服の乱れひとつない彼からすれば、不思議でたまらないのだろう。スーツは所々破れ、黒のパンツストッキングは伝線している。さすがにみっともないから、チャンスがあればどこかで脱ぎ捨てたいくらいだ。
「無理に、とは言いませんが。話してくれませんか」
現れたばかりの扉の前で、急に足を止めた伏黒くん。どうしてここまでこだわるのだろうか。確かに互いの乗り換えてきた試練を共有すれば、呪霊の傾向や今後の対策になるかもしれない。加えて、彼はあの五条くんの弟子だ。私と合流するまでのミッションも、余裕でこなしてきたのだろう。そんな彼に、合流前の話をするとは、なにかの罰ゲームだろうか。情報を共有するにしても全てを話す必要はない。さて、どこから話そうか。ゆっくりと記憶を整理し始める脳内を、止めることはしなかった。




* * *




虎杖くんを追って扉を開けた先には、真っ白な部屋があった。あまりにも殺風景な部屋に驚き、立ち尽くしたのも一瞬。すぐ我に返り後ろを振り向いたが、そこにはなにもなかった。見渡す限りの真っ白な壁と天井に、私だけの動揺した声が響き、それぞれ別々の扉を選んでしまったことを後悔する。
いつぶりだろうか、こんなに緊張するのは。恐らく敵の領域内に入り込んでしまったのだろう。こうしている今も、いつどんな攻撃があってもおかしくない、私の命は敵に握られているも同然だ。
「とにかく進まなきゃ」
誰でも良かった。とにかく誰かと合流したかった。開いた扉の先で、まさか一人になるとは思わなかった。見通しの甘さを責めつつ、一歩、また一歩と奥へと足を進めるが、一向に壁にたどり着かない。
「まさか、部屋が変形してる・・・?」
振り返ると、たしかに離れたはずの壁がそのままの位置にある。試しに全力で走ってみたが、部屋の奥行きが変わることはなかった。
「はぁっ、はぁっ・・・・・・」
ごくりと唾を飲み、額を伝う汗を手の甲で拭う。落ち着け、闇雲に行動しても意味がない。考えなきゃ、この部屋から出る方法を。ハァーっと大きく息を吐いて、髪をかきあげようとして気づいた異変。手のひらに、なにか書いてある。

『三回まわってワンと鳴く』

何度瞬きしても文字は消えなかった。試しに擦ってみたが、にじむこともなくそこに文字があった。どこかに監視カメラがあって、五条くんが見ているんだと思った。そうじゃなかったら誰がこんなふざけた事を・・・。ふと、手の甲を確認すれば三十の文字。徐々に数字を減らしていくそれを不気味に思いながらも、再度部屋の中を探索した。絶対に近くで五条くんが見ている。指示に従った途端、ドッキリのプレートを持って現れるはずだ。
「五条くんいるんでしょ!?ほんっと性格悪いんだから。こんなのやるわけないでしょ!」
ちょうど、手の甲がゼロを示した。何事もなかったかのように再び三十からカウントを減らす様に、背筋がゾッとした。また数字がゼロになったらどうなるの?もしこれが五条くんのイタズラじゃなくて、敵の術式だとしたら?慌てて手のひらを確認し、自らの目を疑う。

『四回まわってワンと鳴く』

「嘘でしょ!?増えてるんだけど!」
半ばパニック状態に近かった。迫りくるカウントダウンに増えた要求。周囲を見渡すが扉もなければ窓もない。慌ててポケットからスマホを取り出すが、予想通り圏外。逃げることは疎か、誰かに助けを求めることもできない。ここにいるのは私一人。現状を受け入れ、目を瞑って覚悟を決める。
「・・・ワンッ!」
死ぬほど恥ずかしい。私なにしてるんだろう。
羞恥心から顔に熱が集まり、暑くてたまらない。急いでまわった分、ふらついて倒れそうになるのを意地だけで踏ん張る。
もし目を開けて、目の前に虎杖くんたちがいたらどうしよう。恐る恐る片目だけを開けてぼやけた視界で周囲を探るが、ドッキリプレートを持った五条くんもいなければ、彼らとははぐれたまま。ただ、目の前にはさっきまではなかった扉と、手の甲に残された真っ赤な「一」の文字だけが、私を嘲笑っているかのようだった。直感で悟った、この数字が増えるとマズイ。
そこからはとにかく、死ぬ物狂いでミッションに挑み続けた。腕や肩、脇腹と、常に場所を変えて現れる指示に従い、いくつもの扉を開けた。次第に現れる扉は出口ではなく、次のミッションへ誘う入り口だと気づいた。こんなの絶対におかしい、これ以上言いなりになってたまるかとミッションを拒否すれば、赤い数字は二に増えた。
伏黒くんと合流する直前のミッションは、「時間内に次の部屋へ到達する」。一見、一番簡単そうに思えたこの指示は一番最悪だった。扉を開けて、長すぎる白い廊下へ足を踏み入れると、背後から巨大な石が転がってきた。迫り来る死の恐怖に足がもつれながらも、死ぬ物狂いで走り切った。結果、無情にも時間切れで赤い数字は三に増えた。
再スタートの扉の先は、文字通り茨の道だった。スーツのあちこちが棘に引っかかってうまく前に進めず、至る所に痛みが走った。なんとか通り抜けた先に待つのは、やはり同じ扉。赤い数字は四になっていた。
もうこれ以上は無理だと、心が叫んでいた。最初のミッションが可愛く思えるほど、徐々に難易度は上がり攻略困難になっていた。
この空間は、私を少しずつ痛めつけて、ボロボロにしてからトドメを刺したいのだろう。じわっと滲む視界に、このまま死ぬんだと惨めさが襲いかかる。この扉を開けるのが怖い、この先に待っているなにかが恐ろしい。人間として当然の感情を否定する補助監督としての私と、このままここで助けを待とうよと引き止める弱い私が、ドアノブにかけた手を止めた。

「仲間が困ってるんだから、助けに行くのは当たり前だろ?」

どうして、新田ちゃんに嘘をついてまで単独行動した伏黒くんを追ったのか。私の問いに、あっけからんと答えた虎杖くんの姿が脳裏を過ぎる。ささいなきっかけで命を落とすこともあるこの残酷な世界で、彼はさも当然のようにそう言った。
「行かなきゃ、私が助けを待ってどうするの」
戦闘が禁止されている補助監督が、術師の身を案じて呪霊の領域に入ったなんて、間違いなく罰を受ける。それでも私は、彼らだけを戦いに行かせることはできなかった。虎杖くんも伏黒くんも、釘崎さんも。私を含めて全員で帰るんだ。改めて決意を固めるが、開いた扉の先に続く長い部屋は変わることなく。背後から岩が転がってくることもなければ、茨の蔓が張り巡らされてもいない。ただただ、長い長い廊下のような部屋が続いていた。
「今度は制限時間、ね・・・」
これまでの中で一番短い数字だった。障害物がないとはいえ、ゴールは遥か向かう。私が生徒を救ってみせる、その立派な決意は、風に吹かれれば簡単に散ってしまいそうだった。なかなか始まらないカウントをいいことに、一人絶望に打ちひしがれていると、突然真っ白な壁に扉が現れた。そして眩しい光と共にそこから現れた、伏黒くんの姿に自分の目を疑った。
「・・・どういうこと?」
伏黒くんが部屋の中へ足を踏み入れた瞬間、手のひらのカウントダウンが始まった。現れた伏黒くんが偽物だったら?これまでと同様に、ミッションを邪魔するための仕掛けだったら?疑心暗鬼に陥る私を他所に、伏黒くんの頬に現れた文字に悩んでいる暇はないと察した。
「良かった、俺たちだけでもバラけなくて・・・って!なんですか、いきなり」
「いいから急いで!走るよ!」
そこからはあっという間だった。瞬時に状況を察してくれた伏黒くんが私を抱えて走り、ゴール直前で追加ミッションである「手を繋ぐ」を思い返して、なんとかクリア。慌てて確認したら赤い数字は四のまま。泣きそうになるのをなんとか堪えられたのは、伏黒くんが私のお尻を鷲掴みしていたおかげ。わざととではないと分かっていても、いい気持ちはしない。
そのことを指摘すると思ったより反応がウブで可愛くて、少しだけときめいたこと、窮地から救い出してくれたことで好感度が急上昇したことは、彼には言わないでおこう。

赤い数字の謎

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