小説

あの人を初めて見たのは、小学校に上がる少し前だったと思う。祖父に連れられ、初めて東京を訪れた。空港から電車を乗り継いでやってきた街中。京都とは異なる景色に心を奪われ、大人になったら東京に住みたいと漠然と思った。ショーウィンドウに映るのは、孫の手を引いて歩く優しいおじいちゃん。道行く人たちとは誰一人、視線が交わることもなく淡々とすれ違って行く。まるで異世界に来たような、不思議な感覚。この手を放せば私を知る人は誰もいない、迷子になっても誰にも気づいてもらえない。漠然とした不安を誤魔化すように繋がれた手に力を込めれば、祖父の大きな手が頭をなでる。
「お前にミョウジ家の全てがかかっているんだ、愛想良くしなさい」
「はい、当主様」
とある店の前で止まった足に、ここが目的地なんだと察する。カランカランと軽快なベルが鳴るのと同時に、白黒の服を纏った女がお席を、と駆け寄ってくる。
「待ち合わせしている」
「かしこまりました、お席へどうぞ」
丁寧なお辞儀と軽く下げられた頭。塀の中も外も、大して変わらないのかもしれない。スッと諦めに似た気持ちを抱えながら店の奥へ足を進める祖父の背中を追う。眉間に皺を寄せて煙草をふかすスーツの青年、クスクスと口元に手を当てて笑うおばさん達、新聞を広げてしかめっ面をしているおじいちゃん。いくつもの席を通り過ぎた、店の最奥にその人はいた。
「おせぇよ、じじい」
テーブルの上に広がった空の食器の山。今しがた食事を終えたばかりなのか、手には箸が握られたままだ。大きな咳払いをした後に対面に腰を下ろした祖父に、慌てて頭を下げて視線だけで男を伺う。服の上からでも分かる筋肉質な体に、射抜くような鋭い視線。好戦的な態度に緩んでいた気が一気に引き締まるが、彼は私を一瞥しただけで興味ないと言いたげに視線を戻した。座りなさい、と軽く叩かれた位置に腰を落ち着け、店員さんが持ってきたお冷のグラスを無心で眺める。
「禪院家とは話がついたのか?」
「相伝なら10、出すんだとよ」
一体、何の話をしているんだろう。ニヤリと上がった口角には古傷だろうか、目立つ傷跡がある。そして、初めて見た時から感じていた違和感。誰もが持っているものを持っていない、そこにいるのにまるでいないような、不思議な人。淡々と話す二人の声を聞き流しグラスを伝う水滴を眺めていたが、聞き捨てならない一言に耳を疑った。
「よかろう。金の支払いは禪院への引き渡しが終わってからだ」
「半分は前金で寄越しな。それでも落ちぶれた名家に払える額じゃねぇだろ」
「一月以内に金は準備する。忘れるな、禪院甚爾。これは「今は伏黒だ、クソジジイ」
殺伐とした空気の中、私だけが呼吸することを許されなかった。相伝の術式、一人息子、そして許嫁。散りばめられたワードに、自分がどこかへ売られる運命だということだけが、ハッキリとしていた。カランッと音を立てたグラスに映る歪な私だけは、この世界に逃げ場などないことを知っていた。

私に価値がついた日の話

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