小説

『明日の朝五時、正門前』
始まりは寝る前に届いた一通のメール。時間と集合場所のみが記載された、絵文字一つない画面に思わず頬が緩む。時折、こうして五条くんから一方的なお誘いメールが届く。部屋でゲームをしたり、誰かにイタズラを仕掛けたり、街へ出掛けたり。今回の集合場所は珍しく正門前、そしてやけに時間が早い。どこへ行くのか、何をするのか期待に胸が膨らむ。
返事を送ろうと親指を動かすが、送信ボタンを押す前にふと気づく。すぐに返事を送ったら、すごく楽しみにしているみたいだ。ここ数日間、私を悩ませているある疑惑が脳裏を過り、そのまま携帯を閉じる。
もう寝てしまおう、行くか行かないかは、明日起きられたら考えればいい。





* * *





「返事ないから来ねぇと思った。早く乗れよ」
「本気で言ってるの?」
「行かねえなら「行く!」
夜明け前の水を打ったような静けさの中、私たちの声だけが静かに響き渡る。目覚ましもかけていないのに、しっかりと目が覚めてしまった。肌寒さを感じつつも正門へ向かえば、どこで見つけてきたのか、自転車に跨った五条くんと目が合う。ペダルに置かれた足に、寝起きの少し掠れた声。山奥にある高専から自転車でどこまで行く気なのか、寝起きの頭では思考が追いつかず、浮かんだ疑問はもみ消した。

荷台に横向きに座ればゆっくりと動き出す景色。早朝の冷たい風がシャツの裾をはためかせ、半袖で出てきたことを後悔する。
「さむっ・・・」
「これ、着とけ」
キィッと音を立てて止まったかと思えば、背中にかけられた大きな上着。ふわりと香る五条くんの匂いに、一気に意識が覚醒する。
「えっ、いいの?でも五条くんが「ナマエとは鍛え方がちげーだろ」
再び動き出した景色に、ぶっきらぼうな答え。登り始めた朝日が白髪をキラキラと照らし、眩しくて目を逸らしてしまう。私だけが知っている、優しい一面。胸の奥がほんのりと温もり、誤魔化すように上着をギュッと掴み直す。

途中、何度かコンビニに立ち寄って休憩を挟みつつ、目的地も聞かずに他愛のない会話を繰り返した。思わず上着を脱ぎたくなる程の気温になった頃、視界いっぱいに広がる海に心が震える。浜辺近くで止まった自転車から降り、久しぶりの大地に大きく伸びをする。
「ありがとう、さすがに疲れた?」
「お前重すぎ。ちょっとは痩せろ」
「なっ、夏がくるまでには痩せるもん!」
優しい、と思ったらすぐにコレだ。思わず睨めば、冗談だろと大きな手が頭に覆いかぶさる。ついでにわしゃわしゃと撫でられて、頭はボサボサだろう。文句の一つでも言ってやろうと顔を上げれば、目を細めて笑う姿に心臓が大きく跳ねる。そのまま目を合わせ続ける勇気はなく、上着を返して靴を脱ぎ、足早に一人砂浜を歩く。指の隙間を埋める砂がひんやりとして気持ちがいい。

「あっ、見て!貝殻落ちてる!」
波打ち際へ歩きながら見つけた、小さな貝殻。硝子ちゃんへのお土産にしようか、そんなことを考えながら腰を屈めて拾えば、波が運んできた何かが一際目を引く。再び波に攫われそうになっている淡い水色が五条くんの瞳の色と重なり、思わず追いかけるように手を伸ばした瞬間。
「おい、あんまそっち行くな」
「キャッ!つめたっ!」
「ドジ」
「ひどい!五条くんがいきなり引っ張るからだよ!」
どうしても拾いたくて、引き寄せられるように波打ち際へ歩けば突然腕を引かれ、バランスを崩して尻もちをついてしまった。わりぃ、とニヤついた顔で謝られても素直に受け入れられない。差し出された手を借りて立ち上がれば、下着まで染みた海水が足を伝う。拾った貝殻も落として見失ったし、着替えはもちろんない。最悪な気分だ。

「ねぇ、五条くんは・・・。好きな人に好きな人がいたら、どうする?」
「いきなりなに。つーか、それ聞いてどうすんの」
「ただ、なんとなく。どうするのかなって」
「なんだよそれ。俺が諦めるって言えば、ナマエは諦めんの?」
「そ、それは・・・」
そっと覗った表情は固く、どこか責めるような視線を感じる。重くなってしまった空気に思わず唇をギュッと噛み締め、俯き口を閉ざす。濡れたスカートは太ももに張り付き、なんだか惨めだ。
「ここ最近、なに悩んでるのか知らねーけど・・・うわっ!」
「えへへ。さっきの仕返し!」
「覚悟はできてんだろうなぁ」
心のモヤを祓うように足で海水を蹴れば、五条くんのズボンも色を変える。私だけ濡れて帰るなんてごめんだ。青筋を浮かべた五条くんから走って逃げれば、いつもの追いかけっこの始まり。

好きな人に好きな人がいるかもしれない。ここ数日、私を悩ませた疑惑から目を逸らすように振り返れば、楽しそうに笑う五条くん。高専にいる時とは少し違う無邪気な表情に、この想いは伝えないままでいい、一緒にいれる時間を楽しく過ごせれば、それでいい。いっそのこと、この恋はこのまま終わらせてもいいのかもしれない、そんなことまで思い始めてしまう。

どのくらい遊んだのか、濡れた服は水気を失い、沈みゆく太陽は海の色を変えた。どちらからともなく、砂浜に座り込み水平線を眺める。
「ナマエ、好きなヤツいるの?」
「・・・いるよ。絶対教えないけど」
「どうせ傑だろ」
否定しようかと口を開きかけたが、夕日に照らされた横顔があまりにも綺麗で、言葉が喉につかえて出てこない。
「俺は諦めねぇよ」
「え?」
「さっきの話だよ。好きな女に好きな奴がいても、絶対俺のこと好きにさせる」
「すっごい自信・・・」
「逆にお前はその程度なの?簡単に諦めるんだな」
「わ、私だって諦めないもん!」
思わず反射的に言い返せば、なにがおかしいのかフッと笑われ、顔に熱が集まる。同時に行き場のない感情が込み上げ、やっぱり好きだと心が叫ぶ。想い続けても報われない恋なのに。

「ねぇ、好きな人いるんでしょ?砂に書いてよ」
「ナマエが書くなら俺も書く」
「いっ、いいよ。ちゃんと、正直に書いてね」
どうせ流されるだろうと軽い気持ちで発した言葉に、打って変わった真剣な表情。誤魔化すタイミングを完全に逃してしまった。素直に五条くんの名前を書くべきか、それでは告白になってしまう。最悪、失恋したまま高専まで自転車で帰らなくてはならない、そこまで考えて指が止まってしまう。好きなのに、伝えたいのに、臆病な私は関係が変わってしまうことが怖い。微かに震え出した指先は、砂に穴を開けるだけで動かない。
「書いてねぇじゃん」
「うぇっ!?」
振り向けばすぐ後ろにピッタリとくっついた五条くん。思わず変な声が出てしまったが、気にしていられない。
「ちょっ、ま、まだ「帰るぞ」
自転車を停めている方向へ長い足でスタスタと歩いて行ってしまう背中を眺める。五条くんは書いたの?振り向けば、あなたの好きな女の子の名前があるの?痛む胸をギュッと掴み、振り返るべきか悩む。遠ざかる背中に、後を追いたい気持ちと知りたい気持ちがせめぎ合う。
「置いてくぞ」

「・・・ッ!いま行くから!」
跳ねる心臓を誤魔化すように、必死に足を動かしてようやく自転車にまたがった五条くんに追いつく。当然のように荷台が空いているが、帰りは私が漕ぐ番だ。
「早く乗れよ。ナマエが漕いだら朝になるだろ」
「うっ、お願いします」
「飛ばすからちゃんと捕まっとけ」
スカートだから横向きに座りたいが、行きのようにゆっくり漕いでいては日が暮れてしまう。仕方なく足を開いてまたがり、目の前の大きな背中にどこを掴むか頭を悩ませる。悩んだ末に脇腹のシャツを掴めば、そこじゃないだろ、と言いたげに手首を掴まれ引っ張られた。
「振り落とされたいの?」
「でっ、でも・・・わっ!」
「怖かったらしがみついとけ」
急に動き出した上に速度を上げた自転車に、恥ずかしいなんて言っていられない。言葉通り、振り落とされないようお腹に腕を回してしがみつけば、大きな背中から伝わる温もりと胸を満たす香り。
「ねぇ、お腹すいた」
「ラーメンでも食って帰るか」
「うん。・・・ねぇ、ありがとう」
「ナマエが元気ないとこっちが調子狂うんだよ」
返事代わりに背中にピッタリと顔をくっつければ、自転車はより速度を上げて夕暮れの海沿いを駆け抜ける。

欲張りな私は願ってしまう。もう少しだけ、この気持ちを楽しみたい。もう少しだけ、あなたのことを振り回してみたい。この気持ちをあなたに伝えれば、ズルいと笑ってくれるだろうか。疲れた身体を休ませるように瞼を閉じれば、心を覆っていたモヤがスゥッと晴れていく。

砂に書かれた私の名前は、波がかき消してしまっただろうか。ズルをしてしまった罪悪感は残ったが、私の気持ちはもうしばらく胸にしまっておこう。もう少し先の未来まで。

砂に書かれた未来は波がかき消した

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