小説

やばい、やばい、やばい!とにかく逃げなきゃ、いや、あの最強の男から逃げるなんて不可能に近い。目の前には使われていない備品室、ここに隠れとく!?どうする、私!





* * *





「ふぁー、疲れた」
報告書の提出を終え、解放感に満たされた身体で大きく伸びをする。明日は久しぶりの休みだが、止まらぬあくびに早く寝ることを決意する。自室へ戻り、ベッドへダイブすればふかふかの布団が疲れた全身を優しく包み込む。短い通知音が沈みゆく意識を浮上させ、眩しさに目を細めつつロックを解除する。
『明日、観に行こう』
短い吹き出しと共に送られてきた、最近公開されたばかりの人気映画の公式URLをタップすれば、脳が覚醒するのを感じる。すぐに了承のスタンプと、起きたら連絡することを返信し、再度公式サイトを開く。隅から隅までチェックすれば、映画公開記念の特設ページが目に入り、画面を動かす指が止まらない。公式サイトだけでは飽き足らず、原作から口コミサイトまで見漁れば時間はあっという間に過ぎ去り、気づけば意識は途切れていた。

「ん・・・、もう朝?」
寝不足で重い瞼をなんとかこじ開け、スマホで時刻を確認すればまだ早朝。日々の習慣でこの時間に目が覚めてしまうが、今日は休みなのだ。もう少し眠ろう。再びまどろみ出した世界で、なにか忘れている気もするが、瞼は重力に逆らえなかった。
夢の中に現れた、愛おしい人。広げられた大きな胸に飛び込めば、優しく抱き止められる。高い位置にある顔は見上げると首が痛くて、キスをするには背伸びしても足りない。もっと、もっと近くに感じたくて、必死に腕を伸ばすが咎める声が耳をかすめる。
『あれが五条悟の女?ただの一級術師じゃないか』
『あの女を狙えば、五条悟の弱みになる』
『女を守れなかった五条悟は、どんな顔をするかな』

悪意に満ちた笑い声に苛まれ、思わず腕から抜け出して後ずさる。耳を塞いでその場にうずくまれば、大きな手が私の頭を撫でる。あまりにも優しい手つきに涙が出そうになり、顔を上げるが彼がなにを言っているのか、何一つ聞こえない。
「なにも聞こえないよ、さとるっ・・・」

口にした言葉は静かな部屋に響き、全て夢であったことを私に告げる。二度寝しなきゃ良かった、わずかな後悔を胸にスマホを見れば、一時間しか経っていない。冷たい水で顔を洗い、歯を磨きながら考える。今日、なにか予定あったっけ?自分で言うのも何だが、呪術師としての私とプライベートの私は別人だ。自分の中にスイッチがあって、休みになると完全にスイッチが切れてしまい、普段は絶対しないようなミスも平気で犯してしまう。
「なーんか忘れてる気がするんだけど。忘れるくらいだし、大したことないのかな?」
こういう時は、無理に思いだそうとしても思い出せないものだ。ラフな服に着替え、高専内をあてもなく歩けば、補助監督室から出てきた伊地知くんと目が合う。短く言葉を交わす中で掛けられた、"話せば記憶が整理される"。その一言に妙に納得して、ポツポツと二度寝する前の記憶を振り返る。あれ、なんで映画のネットサーフィンしてたんだっけ。ふと浮かんだ疑問に足を止めれば、目の前には伊地知くんの目的地。既にコーヒーを手にした彼に声を掛けられるが、あいにく財布がない。小銭くらい持ち歩けば良かった。いつものうっかりだが恥ずかしくて、誤魔化すようにへへっと笑えば、突然現れた男に場の空気が一変する。

「ナマエちゃんはコレでしょ。こんなとこでなにしてるの?」
手渡された冷たいミルクティーに小さくお礼を呟けば、目の前には夢で会ったばかりの愛おしい彼。胸の奥がキュッと掴まれて、ほんの少し苦しい。
「なにしてるって・・・おしゃべり?ねっ、伊地知くん!」
夢の内容がフラッシュバックし、沈みだした心を誤魔化すようにわざと明るく振る舞えば、なぜか伊地知くんは焦っている。そういえば、さっきなにか思い出せそうな気がしたんだけど・・・。顎に手を当てて考えるが、あと少しの所で引っかかって思い出せない。
「なに、また今日の予定忘れちゃったの?」
「そうなんです。休みになるとついついスイッチが切れちゃって。ところで、五条さんはどうしたんですか?」

私たちが恋仲であることは誰も知らない。私が隠すよう、お願いしているからだ。伊地知くんを探していた、そう答える彼に疑問符が沸いたのは私だけではなかった。妙な空気を察した伊地知くんに詰め寄る姿は、見ている立場としても恐ろしい。私じゃなくて良かった、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。大きな手に握られた映画のペアチケットに、全身の血が引くのを感じる。そうだった、映画を観に行く約束をしていたんだった。"起きたら連絡する"、忘れていたのは悟への連絡だ。
「あっ、わ、私、急用を思い出しちゃった!ごめんね、伊地知くん!また今度!」
三十六計逃げるに如かず、困ったらあれこれ考え迷うよりは、逃げ出して身の安全に保つのが最善だ!脱兎の如くその場から逃げ去った私は、視界に入った備品室へと身を隠した。机や椅子に、全身鏡。備品室とは名ばかりの、使われなくなった物を詰め込んだ部屋だ。

廊下を歩く足音が聞こえ、慌てて近くの机の下に身を隠す。まるで、イタズラが見つかった子どもの気分だ。部屋の前でピタッと止まった足音に、心臓が口から飛び出しそうになる。ムダな抵抗とは分かりつつも口元を押さえて声を殺し、目をギュッと瞑って耳だけで情報を拾う。小さくなっていく足音に、危機は去ったと胸を撫で下ろし、そっと目を開ける。
「はぁー、良かった」
「なにが良かったの?」
「・・・へ?」

目を開けたら恐ろしく綺麗に微笑む悪魔がいました

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