「泊まるんでしょ?僕の部屋、使っていいよ」
乱れた衣服を手早く整え、一刻も早くこの場を立ち去りたい私の足を、悟様の声が引き止める。一瞬で頭に血が上るのを感じるが、下腹部の鈍い痛みが理性を呼び戻す。
ダメよ、言い返してはダメ。悟様は知らないの、今も昔も。これからだって、知らなくていい。バレないように小さく息を吐き、間を開けて言葉を返す。
「私は使用人です、身の程はわきまえています。失礼します」
なんとなく、顔を見たくなくて後ろ手で静かに襖を閉め、人の気配のない廊下をゆっくり歩く。こんな姿、誰にも見られたくない。乱暴に抱かれた身体は、外見からは分からずともボロボロだ。込み上げる虚しさと惨めさに胸が詰まり、息が苦しい。今すぐに本家から逃げ出したい、家に帰りたい。許されない願いほど、諦めきれずに持ち続けてしまう。
しはらく歩いて月明かりが照らす廊下へ出れば、使用人の控室は目と鼻の先。大広間の一件が伝わったのだろうか。水を打ったような静けさに、待ち受ける戦場が容易に想像できる。
「戻らないと、ダメだよね」
「東京に帰りなよ、僕は明日帰るけど」
「許されるならそうしたいけど・・・って、えっ!?」
慌てふためきつつ振り返れば、胸元をはだけさせたままの悟様。使用人の性なのだろうか、いつから後ろにいたのかよりも、はだけた着物が気になる。襟元を引っ張り乱れを整えれば、短いお礼の言葉と共に、軽い音を立てながらおでこへ触れる唇。
「色々と疲れたでしょ。僕から言っておくから、帰りなよ。駅までは送らせるから、東京に着いたら連絡して?」
優しい微笑みに、甘やかすような優しい声色。心臓を鷲掴みにされたようにギュッと痛む胸と、緩む涙腺。このまま、泣いてしまいたい。子どものように、泣き叫んで縋りつきたい。あなたのことが忘れられなかった、許されないと知りつつも、好きになってしまった。離れていた期間も本当は・・・。
「・・・お言葉に甘えさせて頂きます。悟様もお気をつけて」
言えるわけがない、一度自ら消えた身なのだ。あの時の誓いを、決意を無駄にしてはダメ。悟様には相応しいお相手がいるの。せめてもの抵抗で、精一杯の笑顔で別れを告げれば、引き止められることはなかった。
* * *
「お忙しいのにすみません。ありがとうございました」
「悟様のご命令です。それでは」
手早く降りてドアを閉めれば、すぐに走り出した黒塗りの高級車を見送る。ギリギリになったが、なんとか最終の新幹線に乗れそうだ。日付が変わる前に家に帰ることは叶わなかったが、"あの部屋"で眠ることは免れた。心身共に疲れ果てた身体に鞭を打ちながら早足で改札へ向かえば、短い通知音が耳を掠める。
悟様は私をどうしたいのだろう。手酷く扱ったかと思えば、コロッと態度を変えて甘い声で囁く。口にしてしまえば苦しむと分かっていても求めてしまう、まるで甘い毒だ。悶々と負のスパライラルへ入りかけた思考を、券売機の警告音が引き戻す。発券された切符とおつりを取り、駆け足で改札をくぐれば発射時刻まであとわずか。東京まで二時間と少しかかる、少しでも眠れば気持ちは切り替えられるだろう。
人がまばらな車両を探し、見つけた窓際の空席に腰を下ろす。柔らかなシートが疲れた身体をゆったり包み込み、無意識に小さなため息が零れる。重力に従って瞼を閉じれば、視界は暗転して世界は闇に包まれた。