「あら、お久しぶりですね」

 初春のよく晴れたある日、珍しく蝶屋敷へ立ち寄った杏寿郎を、縁側に腰かけた女が呼び止めた。

「ああ、きみか」

 杏寿郎は足を止め、女の方を見る。何度も任務を共にした隊士だった。いつもは結わえている髪を、今日は下ろしているせいで、声をかけられるまで誰と分からなかった。
 屋敷での用は終えていたから、このあとに急ぎの仕事があるわけでもなく、「座っても?」と聞けば、女はこくりとひとつ頷いたので、彼はその隣にどかっと腰を下ろした。
 彼女は膝の上に黒い陶器を抱え、藁でしゃぼん玉を吹いている。藁の先に液を浸けては、ふうとやわらかく息を吐く。春先の冷たい風が、柔くもろい泡を空高くに攫っていく。それを繰り返していた。

「炎柱様も珍しくお怪我?」

 しゃぼん玉を吹く合間に女が問う。

「腹を斬られた」

 はっはっは、と豪快に笑って杏寿郎が答えた。
 女は訝し気に杏寿郎を見る。一見して彼がそのような重傷を負っているようには到底見えないせいであった。が、すぐに目の前の人物がかの炎柱であることを思い出し、納得したような表情に戻る。

「手ひどくやられましたのね」
「俺など軽いものだ」
「お見舞いですか」
「うむ」

 そこまで話して、ふと沈黙が訪れる。小さな池の水が、風に揺れて波紋を広げている。

「きみは」杏寿郎がゆっくりと問うた。
「見ての通りでございます」女は遮るように答える。

 今度は杏寿郎の方が、女を今一度見る番であった。見た目に悪そうなところは見当たらない。杏寿郎の様子に、女は苦笑いをひとつして、詰襟の釦をひとつふたつと外して見せた。そこには僅かに血のにじむ包帯がきつく巻かれていた。

「きみこそ、手ひどくやられたものだな」
「私など軽いものです」

 女は目を伏せて、かみしめるように言った。そうして少し黙ったあとに、思い出したようにしゃぼんをふうと吹く。

「仲の良い子が、昨日死にました」

 女の声は、まるでこの空間に突き刺さるようだった。
 杏寿郎は何も言えずにただ黙って、彼女の肩を片腕でゆるく抱きしめる。

「いやだわ、誤解されてしまいます」
「誰もいないさ」

 杏寿郎は真っすぐ前を見て、とんとんとあやすように女の肩を叩いてやった。しばらくそうしていると、女は力が抜けたのか、それとも観念したのか、杏寿郎の方に頭を預けて、大きく息を吐いた。まるで何か、零れ落ちるものを押さえているような吐息だと、杏寿郎はそう思った。

「あの子がこれを好きだったの」

 女が杏寿郎の胸の中で言う。そうしてまたふうっと藁を吹いた。「追悼みたいなものです」

「どれ、俺も」

 杏寿郎は彼女の藁を持つ手を掴んで、藁に口をつけた。人肌の温もりは、女の心を弛ませた。

 そうして彼は、普段の豪快さとは打って変わり、繊細な息遣いで藁をふっと吹いた。
 細かなしゃぼんがぶわっと立ち上り、風に掬われて空に昇っていく。

「天まで飛ぶだろうか」

 女が答えるより早く、無垢な願いを乗せたそれらは、すっかり青空に溶けていった。