ホグワーツ特急に乗って帰る日がやってきた。リンとスイがハンナたちと玄関ホールへ向かうと、たくさんの生徒で混み合っていた。

 適当に列に並んで馬車を待っていると、不意にだれかがリンの名前を呼んだ。視線を向けると、フラー・デラクールが駆け寄ってくるのが見えた。ベティが「げっ」と顔を歪めるのが、リンの視界に入った。

「リン! おわかーれの挨拶をしにきまーした!」

 ぎゅっとリンの手を握りしめて、フラーが言った。今日も笑顔が輝いている。くらっとしたアーニーを、ベティがすかさず殴る。スーザンも彼の足を踏み、ジャスティンも「リンよりあんな女に魅力を感じるとは何事ですか」と彼の肩を掴んで揺すり、ハンナも「ひどいわ、アーニー!」と責める。アーニーが文字通り四面楚歌だと、リンは頭の片隅で思った。

「あなたとおわかーれするのは、とーても寂しいでーす。リン、またお会いましょーうね」

「はい、ぜひ」

 フラーの手を握り返し、リンが微笑む。フラーは花が綻ぶように笑った。瞬間、だれかが鈍器で殴られるような音がしたが、リンは無視した。ベティの怒鳴り声と、スイの尻尾を振る動作だけで、事の全貌が推測できた。

「ジンとアリーにも言いまーしたが、わたーしイギリスであたらくつもりでーす。えーいごが上手になるよーうに。だから、あなたと会える確率、きっとたかーいです」

 にっこり機嫌よく笑うフラーに、リンは目を丸くしたあと「それは楽しみです」と口元を緩めた。

「そろそろ行きまーす。まだジンにも挨拶しなきゃ」

 まだ追っかけてたのか……。スイは内心で思った。あれほど素っ気なくされていたのに、すごい執念だ。もはや感嘆する。

「さようなら、リン。あなたに会えて、おんとによかった!」

 年相応の笑顔を浮かべて、フラーは輝くシルバーブロンドを波打たせ、ジンを探しに行った。そのキラキラした後ろ姿を見送っていたリンの名前を、まただれかが呼ぶ。振り返ると、今度はクラムだった。

「お別れの挨拶でしょうか?」

 くすりと笑ったリンが言うと、クラムはちょっと目を丸くして、頷いた。そして唐突に「ありがとう」と礼から始める。

「君にヴぁ世話になった。ジンと君と話すのヴぁ、ほんとうに楽しかった」

「はい。私も楽しかったです。またお会いすることがあったら、またお話ししましょう」

 リンの言葉に、クラムはなぜか吃驚したようだった。しぱしぱと瞬きを繰り返して、それから、ほんの少しだけ表情を和らげた。スイがポカンと口を開ける。

「ジンと君ヴぁ二人とも、うれしいことを言ってくれる……また仲良くしてくれるって……ヴぉくはカルカロフの生徒なのに」

「バカですね。どこの生徒であろうと、あなたはあなたでしょう」

 苦笑するリンの言葉に身体の力を抜いて、クラムはもう一度礼を述べ、そっと手を差し出してきた。リンは彼と握手した。

「でヴぁ……またいつか」

「お元気で」

 手を離して、クラムはハンナたちにも軽く頭を下げた。そのまま踵を返す彼を、ありったけの勇気を振り絞ったベティとアーニーが呼び止める。

「不躾なのは百も承知ですが、サインをくれませんか!」

 真っ赤な顔で言う二人に、クラムはきょとんとした。何度か瞬いたあと、うれしそうな雰囲気を出して、羊皮紙の切れ端にサインをした。

 最後の最後によくやるなぁと、リンは呆れた。クラムが現れてずっとそわそわしていたから何事かと思っていたら、まさかサインとは。いまさらすぎる。まぁ、クラムがうれしそうだからいいか。ちゃっかりハンナとスーザンもサインをもらっているし。

 狂喜乱舞するベティをジャスティンが「たかがクィディッチ選手のサインごときで」と鼻で笑い、また喧嘩が勃発する。その横で、いつの間にかスーザンの肩へと移動していたスイがクラムにサインを催促しているのを見て、リンは目を丸くしたあと吹き出した。

 笑いが収まったころ、リンはふと視線を巡らせた。だれかに呼ばれた気がしたのだ。あたりを見回して、一対の目と視線をかち合わせ、リンは瞬いた。友人たちから離れ、彼の元へと向かう。彼も、人のいないほうへと歩き出した。


 二人はだれもいなくなった大広間に入った。開け放たれた扉のすぐ横の壁際で立ち止まって、向かい合う。何も言わない彼にリンが首を傾げたとき、手首を掴まれ、引き寄せられた。ふわり、知らない体温に包まれる。

 ぎゅっと抱きしめられたところで、リンは我に返った。頬を染め、慌てて彼の名前を呼ぶ。しかし、それを遮るように、低い声が言った。

「……『あの人』が帰ってきた」

 わたわたしていたリンが動きを止める。その細い身体を抱きすくめて、彼は俯いた。彼がすっと息を吸う動きを、リンは感じた。

「……ずっと、考えてた。この状況のなかで、自分がどう動くべきなのか。自分に……闘う力と、捨てる覚悟があるのか」

 淡々とした、しかし苦しそうな声。リンは口を開きかけたが、何と言うべきか分からず、無言を貫いた。抱きしめてくる力が、つよい。

「……どうしても、捨て切れないんだ」

 絞り出すような声だった。彼の指先に力がこもったのが、感覚的に分かった。相手の背中に腕を回そうか、迷う。答えが出ないうちに、彼が力を緩めた。二人の間に距離ができる。夏であるはずなのに、その隙間に流れた風が冷たく感じた。

「……家に帰ったら、父さんと話し合うつもりだ。父さんに許してもらえれば、君のそばに行く。許してもらえなければ……君から、離れる。少なくとも、僕が“捨てる覚悟”を決めるときまでは。悪くすると……」

 言葉を切って、彼は溜め息混じりに頭〔かぶり〕を振った。それからまた視線をリンへと向ける。リンも見つめ返した。

「……君の目は、とてもきれいだ」

 不意に伸びてきた手のひらが、リンの頬を包む。ふわりと端正な顔が近づいてくるのを見て、リンは反射的に目を瞑った。その瞼に、柔らかいものが触れる。

 目を開ける。切なげな表情が目の前にあった。揺れる瞳が、リンを映している。引き込まれるように、リンはその瞳を見つめた。ともすれば鼻先が触れそうなほどの近距離だったが、緊張や羞恥は感じなかった。そんな雰囲気ではなかった。

 数秒して、彼はリンから離れた。感じていた体温が、一瞬の名残を残したのち静かに消える。困惑するリンを見下ろして、彼は不器用に笑った。

「……よい休暇を、リン」

 最後にリンの名前を呟いて、セオドール・ノットは去った。その背中に声をかけるべく口を開いたが、結局なにも言葉を思いつかず、リンは口を閉じた。ぎゅっと手のひらを握りしめる。

 一言も受け答えをせずに他人との会話が終わってしまうなんてこと、はじめてだ。ぼんやりと、頭の片隅で思う。べつの片隅では、ノットの言葉が再生されていた ――― 許してもらえなければ……君から、離れる。

「………」

 ずくりと胸が痛むのも、目頭が熱いのも、きっと気のせいだ。

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