(部屋は近くないはずだ。)

私はコートから一番遠い部屋。正面玄関からホール、階段をあがって左奥。
彼女の部屋は、階段をあがらずにまっすぐ、一番手前。
女子は個室をもらった。といっても、もとは2人部屋のものを個人で使わせてもらっている、ということだ。基本的に一人部屋は存在しない。1階と2階の部屋数の関係から、女子のどちらかが1階、もう一方が2階を使うことになったのだが、その結果がこれだ。

(手塚部長が配慮してくれたのか、私たちは別々の部屋になった、ということ。)


1階には彼女と青学。2階は私と立海、手伝いをしてくれる野球部の皆さん。3階に遅れてくる氷帝が入る予定で、同日より合宿を始める野球部レギュラーもたしか3階だった。
1階には色々な施設が組み込まれているので、部屋数が少なく、どうしても2階と3階に人員が集中してしまうがこれはきっと仕方のないことだ。

そう、それで、だから。
彼女は1階だから階段を上る必要すらないのに。
(なんとなく、ここに居る理由は、わかるけれど、)


「わたしね、この合宿すごぉく楽しみだったんだぁ。」

にっこりと笑って、そう言いながら唇に指を添える。
きれいにいろどられた唇だ。ピンク色の、女の子らしすぎる。


「みんなと仲良くなれるチャンスでしょぉ?だからね、がんばってちょうだいね!
わたし、仕事なんかしてる時間、惜しいんだぁ。」


ネイルを見つめて、伏し目がちに言った。ミニスカートから足がのぞく。おしげもなく出されたそれは、決して細くはないけれど、ここまで大胆に出されてしまうといっそすがすがしい。


「協力、してくれるでしょ?」


かわいらしく言った。(彼女は、独占欲のかたまりだ。)

私は何も言い返すことができなかった。でも、なんとなく心が痛くない。いたくないのだ。
慣れてしまったということもあるけれど、心に誰かが
居てくれるということは、こんなにも心強い。


スキップをするように階段のほうへと消えていく彼女をぼうっと見送って、私はちいさくため息をついた。
なんとなく、彼女からこういう言葉を投げかけられるのはわかっていた。
忠告のようなものだ。
こんなにも軽いもので、軽いダメージですむと思っていなかったから、すこしだけ拍子抜けしてしまった。

(彼女の言葉は、こんなにも無力だっただろうか。)






たしか、このあと顔合わせがあったはずだ。立海が到着したらホールに集合するようにと、部長が言っていた。そういえば竜崎先生は、学校の仕事があるので遅れるという情報だ。だから手塚部長が変わりに仕切るけれど、まったくもって、違和感がない。

獄寺くんは今、荷物を置きに行っている。
山本くんは、野球部のグランドに顔を出してからこっちに来るらしかった。
またみんながそろうまでには、おそらくすこし時間がある。
その間に調理室に行って、買い物をするリストをあげておかないと夕飯の買出しにいけない。
かごをかかえなおして、1階にさがった。


ホールには誰も居ない。やはり、皆まだ部屋に居るようだ。
調理室は1階の左側、正面玄関からすこし歩いたところにある。
ここなら、ドリンクをつくってもすぐに運べて便利だ。昨年もずいぶん助かった記憶がある。
手前には軽い水場のような、こぢんまりした一室。奥には大きな調理室があって、廊下を挟んで向かい側に食堂がある。
食堂は玄関側なので、大きな窓からは小奇麗な駐車場が見えた。

ここの施設はけっこう広い。
まわりは山のような林が広がっていて、かなり急な坂を下ると海が見える。結構両極端な土地だ。宿舎からは下方すこし遠くに海が見える。けっこう、僻地。
走り込みにもってこいのこの坂を上り下りするのはつらいが、買出しに行くにはこの坂をおりなくてはならないのだ。ここから海に行くまでの道をおりていって、その途中にある業務用スーパーが一番安いから。
ふぅ、とため息をついて、かごを置いた。奥の調理室に向かう。
(今日は最初だし、カレー、かな。)
料理の献立を考えてからメモ用紙に買出しの材料を書き出していく。買出しと料理は野球部の皆さんが手伝ってくれるらしくて、助かる。
なにせ、去年こそ青学だけの合宿だったけれど、今年は人数が居るから。

「葵」

「!」

後ろから声がして、驚いた。聞き覚えのある声にとっさに逆光メガネが浮かんでしまったのは、きっと仕方のないことだ。

「…立海が着いたみたいだよ。」

すこしだけ、口元が微笑んだ。エッジを軽く押し上げる動作。いつの間に来たのだろう、なんて、すこし的の外れたことを考えてから小さくうなずいて、メモ用紙をポケットにつっこんだ。乾先輩はこくりと頭を縦に動かしてさっさと調理室から出て行ってしまう。立海との対面においてなにか準備することでもあるのだろうか、ちょっとだけ歩数が多い。
(なるべくなら目立たないように、したいな。)
そっと目を閉じて、薄く開いてから調理室を出た。






ホールに行くと、青学のメンバーは全員そろっていた。もちろん、野球部もだ。
なんとかして視界に入らないように気をつけながら隅のほうへと移動する。
ざわざわと、響くことなく多くの声に吸い込まれるノイズ。その中で、部長が声を張り上げるのが聞こえた。

「全員、外へ出ろ!立海もじきに集合する!」

立海は荷物を置きに行っているのだとわかった。つまり、今現在は指定されていた2階のフロアに集まっているということだ。
わざわざ荷物を置きに行かせてから対面式を試みようとするあたりが、なんとなく堅苦しい。さすがは青学の部長と、立海の…部長は遅れて来るらしいから、あの鉄面皮の副部長。ここに氷帝の部長が居たならば、もしかしたら対面式なんてものも存在しなかったかもしれないのは、言うまでもない。

とりたててざわつくのは、まだ顔を合わせていない彼らを心待ちにしているからだろうか。そう考えると、彼らに対してもすこしだけ親近感というものが沸きそうになる。同じテニスプレーヤーとして、彼らとの練習が楽しみなのは私だって一緒だ。(私は実際には、練習に参加することができないけれど。)


外に出ると、太陽がまぶしい。
青空が広がる。
くもひとつないというのはこういうものだったか。
夏の思考は昼に活発で、しかし怠慢だ。夜にはさえわたり、だるくも甘い空気が肌にまとわりつく。
そうして思考は際限なく広がり、泣きたくなることもある。それは、夏の夜の短さを体感させるものだ。
昼が長い。そう、空の青さは日ごとに長く。

(そうやって、私の心の中に入り込む大空のような笑顔が、今だって離れなくて。)

日常のような非日常。
ススキ色の非日常に慣れてしまったというのだろうか。
日常が、ひどく懐かしく感じる。久々だと思ってしまう。

でも、その日常だってどこかしらが歪んでしまっているものだから、なんともいえない。
(だから私には非日常がとても居心地よく思えてしまうの。)


適当に整列するようにと言われ、私は一番後ろに並んだ。
となりには、さっきからしゃべらない獄寺くんと山本くんがいる。
今は何も話さずに、ただとなりで前を見る2人に、かなり救われている。
不安に、言葉が意味を持たないときだって、ある。


「集合!」

大きな声がして、少し跳ね上がった。
立海だ。
ぞろぞろと私たちの隣側に整列する。じりじりとアツいコンクリートは、立っているだけでくらくらする。

何人もの選手が玄関から出てくる。そのたびに彼らは、最前列ですこしはかなげに微笑む彼女を見やる。
こいつか、マネージャーは、というような目つきだ。
ただ1人だけとても不機嫌そうな顔で彼女をイチベツする人がいた。
赤い髪で、線の細い、(見覚えのある、すごく懐かしい顔。)
となりで獄寺くんがすこし笑った気がした。

(どくん、)
大きく心がはねあがった。思わず、目が大きくなった。

ちょっとくらくらする。落ち着かないといけないのに、懐かしさに、息が止まった。




部長と副部長がいろいろとこの合宿の主旨などを説明している。
顧問の先生はいないのに、各自でここまでちゃんとできるだなんて、場慣れしているってこともあるんだろう。中学生とは思えない。
手塚部長は、たしか1年のときからこの合宿に参加しているはずだ。うわさでは聞いたことがある、彼が天才ルーキーだったことくらい。
竜崎先生も、部長の慣れを信用してこの場を任せているのだろうと思う。
そうじゃなきゃ、誰が、どんな先生がこんなマネをするだろう。遅れてくる、もしくは来れないかもしれないだなんて、本来ならば言語道断だ。
そしてやはり、部長は先生にしか見えない、つまりは違和感がない。
みじんも感じられない。


「さて、マネージャーを紹介するよ。」


大石先輩の声だった、だろうか。
話しを聞いていないと後悔する、それはきっとこういうことだ。
(聞いてない、)

彼女は少し驚いた顔をして、照れくさそうに笑ってから前へと歩み出た。

「田波果歩ですぅ!みなさんと仲良くなれるように、がんばります!よろしくお願いしますね!」

にこりと笑う顔はカンペキ。
はた目からみても、普通のかわいらしいオンナノコだ。
(…出なくても、いい、よね。)
弱気もここまで来るとびっくりだ。
うつむくと、横から小突かれた。
そろりとみると唇を尖らせる獄寺くん。
山本くんたちはもう前に出ていて、残すは私だけとなったようであった。

あぁー、もう、ちょっとまってください。
大きくため息をついて、下を向きつつ前へと足をすすめた。(鉄の靴をはいているみたいだ。)

心臓が先程とはまったくちがう動きをする。背中に、いやな汗をかいた。
山本くんたちは、野球部のこと、臨時マネージャーの件などについて一通りさっさと紹介して、早々と頭を下げあって退出しようとしている。
なんとなくざわついて、あぁ、わたし、もう、出なくってもいいのかなぁ?
はからずとも出遅れたような状況になって、心底安心してしまったのは、いうまでもない。


「外村。」

「!」

「どこへ行く。」


ざり、と、元いた場所へ戻ろうとしていた足がヘンに横を向く。
手塚部長の静かな声に、あたりがシンと静まった。


「…紹介だ。」

「…すいま、せん。」


なんとなく、間の抜けたやり取りをしてからすこし後悔した。
私は先程、また、逃げようとしていたのか。


「…2年、の、外村、葵です。よろしく、お願いします。」


言うと、なんとなく、ほんとうになんとなく、自分がとてつもなく成長してしまったのではないかという錯覚に陥る。
(わたし、こんなに現実から目をそらしていました。)心の中でつぶやくと、なんだか足元が薄く光った気がした。
せきたてられるように放った言葉。
瞳はどうしても下を向いてしまって、横の髪がぱさりとまつげにかかった。
それでも私は、この光の道を一歩でも踏み出して行くことが、できただろうか。


「…以上だ。マネージャーは俺たちをサポートする存在なので、皆、うまくやるように。」

「その女。」


ふっ、と、暗闇に放り出された。
ひやりとした感覚を足先から吸い上げて、腹に、胸に、そして目を、見開いた。


「お荷物にならないように、ね。ここでも僕たちの邪魔するっていうなら、うまくやれるか、わからないよ。」


田波の言葉より、ずっとずっと重苦しい「忠告」に聞こえた。ひどく、冷たい。
裏側に隠れた薄暗い感情に、思わずぞくりとした。

(もし私が、邪魔になるようなことがあったら、私は、)

死ぬ、なんて、考えたくもないけれど。腕か足か、トられるのも時間の問題だと、思ってしまうことはきっともう異常なんだろう。
嫌な汗が、背を伝う。
立海の不審げな瞳が想像できる。

(こうやって、私から、すべての人を引き剥がそうと言うのか。)


「…よせ、不二。」

「…大変だね、部長って。」

「よせと言っている。」

「はいはい。」


目の前が白くなった。
ずいぶんと冷ややかな会話の中に、いつもの練習中の姿や、微笑みあう雰囲気はみじんも感じられない。
私は、この人たちの間に、亀裂を入れてしまった?
取り返しのつかない状態ではないと思う。しかし、予兆が見える時点でアウトではないだろうか?
(沢田くん、わたし、やっぱりこの場所にいるべき存在じゃないのではないですか?)
わたしは、彼らに居心地の悪い環境を、


(葵、)




「葵。」




バランスが崩れた。
ぐらりとして、あたたかさが肩に触れるのがわかる。


「いこう。」


目を隠されたのがわかる。
すぅっと、足元に血が通った気がする。
さわりと風が吹いて、やけにおなかが痛くなった。

「もう、皆行っちまったぞ。」

「…あ、」


そんなに長い時間が経ってしまっていただろうか?
わたしはその時間、なにをしていただろうか?
(ただ、立ち尽くしていただけだ。)

山本くんが、そっと私の目元から手をどける。
強い外界の光は、暗闇からいきなり戻ってくるには刺激が強すぎていけない。目が痛い。
何度も瞬きして、しばらくしてから慣れてきた目をもう一度瞬きさせると、そこには誰もいない。
視界の端に、優しい声で私を呼んで、意識を戻してくれた山本くんの、白いシャツ。
獄寺くんも、赤い髪の彼もいない。
隣にいるのは山本くんだけだ。

(私はさっき、一瞬だけ沢田くんの声を聞いた気がする。気のせいでなければ、幻聴ということになるだろうか。そんなに私は、意識を飛ばしていただろうか。)
ひろい駐車場にぽつりと2人。
いつの間に解散したのだろう。
頭を横に振り、さっきの不二の声色をかき消そうとしてみた。
しつこく陰湿な声は脳内に貼り付いていて取れないけれど、山本くんの声と、幻聴だろうがなんだろうが、沢田くんの声がかき消してくれていっている気がして、ほんのすこし安らいだ。

気を取り直さなければならない。
私は自らこの合宿に参加して、こんなことは覚悟の上だったはずだ。
なんといわれようが、私は私に出来る最大限の努力を尽くして、選手をサポートするだけ。
(私が一緒にプレイできないぶん、彼らにがんばってほしいだけ。)

到着したときにもらった予定表をポケットから取り出した。
傍らに、山本くんの体温と肩に乗せられた手のひらが、あつい。
確かこの後は2校の親睦会だったはずだ。
場所は、坂をおりて歩いたところのサンビーチ。
もともと水着を持ってきていない私には、その親睦会に参加する権利はない。だからその間に夕食を作ったり、コートや備品をチェックする権利が、与えられる。


「…今から、夕飯の買出しに行こうと思うんです。」

「じゃあ俺らも行くわ、どうせ野球部行っても追い返されるだろうし。」

「荷物持ちになってしまいますよ?」

「いいんだって、そのために来てんだからさ。あいつはともかく、俺は。」


指し示した先に、玄関ホールの屋根のした。
髪をしばって、チュッパチャップスをかしりとかむようなしぐさの彼が座ってた。
(この人も、いかなかったんだ。)


「あいつは料理うまいからよ、けっこーでけー存在だぜ!」

「…山本くん、」

「ん?」

「…ありがとうございます。」

「…ははっ」


ちょっと、嬉しそうに笑ったように見えたのはきっと錯覚じゃない。
そう、思ってから空を仰いだ。
肩に乗せられた体温に、そっと呼吸のリズムを合わせる。
ぽつりと、広い青空の下で、じりじりとあついコンクリートの上で、瞳にうつるおおぞらに、誓った。

私の夢をあの人たちに託すために。
私を救ってくれた人のために。
この人たちのために。
あなたのために。



(負けない。)






*9.醒めない三日月



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