恭弥さんはなにやら学校に用事があったらしいので、ギリギリまで乗せてもらって、私は学校のすぐそばで降ろしてもらう。
「帰り、何時になるの?」
「…えぇと…すこし、遅くなるかもしれません。」
「そう。必要なら電話して。迎えにくるから。」
ありがとうございます、と、笑ったら、彼は目を細めてから優しく微笑った。
(やっぱり、すこし、沢田くんに似ている。)
きっと恭弥さんは知っていた。
遅くなるかもしれない、なんて言ったから気付いたのかもしれないけれど。
部活が終わっても、私は最後まで残って仕事などをしてから帰る。
それに夏ならば夜でも暖かいし、コートに明かりがつくから「好都合」だ。
いろいろやっていれば、たとえ獄寺くんが帰るぞと誘ってくれたとしても、もしかしたら断ってしまうかもしれない。
つまりは、帰り道に一人きりということだ。
(恭弥さんは優しい人だな。)
ちらりと後ろを振り返ると、バイクを何のためらいもなく自転車置き場にとめて歩き出す恭弥さんが見えた。
ある意味で感心しながら、私はバッグを抱えなおし、スポーツ店で購入してきた箱を両手に持つ。
中身はスポーツドリンクの粉である。
そろそろ切れてしまいそうだったのを思い出して買ってきたのはいいが、ちょっとこれは重すぎる。
調子に乗って何箱も買うべきではなかったのだ。
そっとテニスコートの裏のほうへと足を運び、洗濯機の上に箱を置く。
「…はぁ…。重かった………」
一息ついて、やっとの思いで声に出してみると、なんだか腕に疲れが押し寄せてきたような気がしてすこしだけ気分がだるくなった。
今日という日は部員達は少しばかりそわそわとしているようで、その原因が彼だということは言うまでもないから、私はなんとも言えない気分に陥る。拍車をかけたようだ。
彼は意外とみんなに好かれていたようだった。
いや、意外と、なんていう物言いは失礼かもしれない。
確かに彼は私とよく一緒にいてくれて、部員全員から白い目で見られてもおかしくないようなポジションに着いていた。
しかしはそれさえなければ人柄はいい。
先輩達にはあまり話しかけたりはしなかったようだけれど、獄寺くんと一緒に素晴らしいプレーを見せてくれたこともあったし、後輩にはとことん優しいから、好評だった。
私といる時は、不評だったけれども。
しかし、彼がいてくれた時は、あまり私に手を出してこなかった。
不二先輩も、越前君も、桃城君だって、そういう人だ。
彼は好評だったと同時に、恐れられていたのだと、思う。
だからかはわからないけれど、今現在の部員たちは、両極端な反応を示しているの。
後輩はとことん落ち込み、先輩はなんとなく安堵の表情を見せている。
「…私、どうなるのかな。」
あぁ、また始まってしまうかもしれない。
再発してしまったら、成す術はないのだろうか。
(でもみなさんに心配をかけてはいけない。)
私は強くならなくてはならない。
守ってもらうだけの防御なんて、所詮ただの盾にしかならないのだ。
矛を持たなければ、最大の防御なんてものは、効果を示してはくれないのだから。
「強く、なりたい。」
ひとりごちて、私は顔を上げた。
空には飛行機雲が走った。
大きな深呼吸を何度か繰り返して、私はコートに向かった。
ナンセンスな日常が、また蘇る。
「おはよう、ございます。」
控えめに声に出してはみたものの、気が付く人間はそれほど多くなくて、私はどこかしら安堵しつつ部室へと向かう。
もちろん、スポーツドリンクの粉を抱えて。
そっと部室のドアをノックしてみたが、何の返答もないので私はそのままドアを開いた。
その先には、いつ来たのかわからないが、獄寺くんの姿があって。
「…失礼しました。」
「ちょっとまて。」
その場を立ちのこうとしたが、制止の声は厳しい。
鋭い眼光がこちらを見据える。
「入れ。」
「………失礼します。」
どことなくぎこちないけれど、私は何とか獄寺くんの瞳を覗き、部室へと入った。
まさに男子テニス部的な部室の中。
私は定期的に整理はするが、何を捨てていいのかわからないので、大掛かりな掃除は、したことがない。
多少散らかっていたので、いつもの癖で少しずつ片付けながら歩みを進める。
もちろん、まだドリンクの粉の入った箱を抱えて。
我ながらなんと器用な事をするのだろうと思った。
「…それ、重くねぇか?」
「……少し重いです。」
「なら置きな。」
「…はい。」
なんとなく居心地が悪そうに話をする。
それはそうだ。
私は獄寺くんと一対一で話しをした事がない。
私はドリンクの粉の入った箱を定位置の棚の中にそっと置き、そのすぐ横の引き出しからまだ余っていた粉と、ハチミツを取り出す。
そして、今日冷蔵庫から失敬して来たレモンと一緒に小さい籠の中に詰め、ボトルを大きな籠ごと引き寄せた。
私にとってはいつもの出来事だ。
慣れてしまって、この作業を忘れろといったらば、それはもう膨大な年月を要するだろうと思う。
「…あの、………失礼しますね。」
「待ちやがれ。
お前それひとりでもってくのかよ?」
「はい。…いつものことなんで。」
私がさらりといったらば、獄寺くんは軽く口元をゆがめ、私の手から大きな籠をひったくった。
「…あの。
私、それがないと、すこし困ってしまうんですけれど…」
「うっせぇ。」
彼はそう言って、ドアのほうへと歩きだした。
どことなく、唇が歪んでいる。
それはもう、ちょっと恥ずかしそうに、ちょっと困ったように。
「獄寺くん、」
「話しがあんだよ。
水道んトコで話すから黙って案内しろ。」
「…はい…………ありがとう、ございます。」
話しがあるってだけでこうして手伝ってくれる獄寺くんは、本当はとても優しい人なのだとわかる。
ただ、表現がよくないと、彼は…、沢田くんは、言っていた。
笑いながら、獄寺くんの事を私に聞かせる彼の姿。
ほんの一瞬だけ、
彼にあんな顔をさせる事ができる、獄寺くんを、
うらやましいと、思ってしまったことが、あった。
(まだ立ち入ることの出来ない距離感、)
流れる水の音が妙に心地良い。
じわりと熱く、アスファルトが熱を放つ。
「…話しとは、何でしょう。」
特性のドリンクだ。ハチミツとレモン。
粉は少量で良い。
今日はなんとなく、彼がいなくなってしまったから、
本当になんとなく、みんなに、これを飲んでもらいたいと思った。
大きくマジックで名前が書いてある。
部員達は通常2本のボトルをもっていて、ひとつはもってくるもの。
もうひとつは補給用、つまりは部室用である。
「えいじ」と記されたボトルは、もしかしなくとも菊丸先輩のものだ。
先ほどは、本当に控えめに「大石」と記されたボトルにドリンクを注いだ。
ドリンクは大きめの補給ポットに作り、それをボトルに注ぐのが私としては一番やりやすい。
ポット、つまりは給水器からボトルへとドリンクを注ぐのだ。
ボタンをおすと中身が出てくる仕組みになっている。
テニス部には、この給水器が3つある。
レモンは足りるかな。
ハチミツはもうそろそろなくなるから、手塚部長に外出許可を貰って、買ってこないといけない。
後ろでそわそわと気配がする。
私はレモンを絞る。
後ろで砂利を踏む音がする。
私はドリンクを注ぐ。
後ろから声がする。
私はボトルを取り落とす。
後ろから砂利を踏む音がする。
私はゆっくりと振り返る。
「『守ってやれ』と、そう、言われたんですね。」
髪がなびいた。
聞こえた言葉を責めるつもりはない。
獄寺くんに対しても、彼に対しても、憎しみなんて何もない。
それなのに、
心の奥が、ずきりと痛んだ。
これは、きっと、
「……嬉しいんだと、思います、獄寺くん。」
だから、そんな顔をしないでください。
今のあなたはなんだか泣きそうですよ。
目の錯覚でしょうか?
だって、私の知っている獄寺くんにはもっと覇気があったはずです。
微笑むと、獄寺くんは、目を丸くした。
(きっと獄寺くん、彼にいろいろと頼まれたんだ。)
(それは信頼していて、信頼されていないとできないことで)
(いろいろ、悩んだんだろうな。)
(頼まれごとにはたぶん、戸惑うことが多かったんだと思う。)
(私の、こと、も。)
獄寺くんは表現が下手だからって、素直じゃないんだって、沢田くんが言っていたから。
「私は、強くなります。
だから、いいんです。
ありがとう、ございます。」
獄寺くんに、こうして情けなさそうに
「俺がお前を守ってやる」
なんて、言わせてしまった私が恥ずかしい。
きっと奈々さんも、ビアンキさんも、恭弥さんも、みんな、みんな、
沢田くんにいろいろと頼まれて、そう、ことづてをされたのだと思う。
「守ってやれ」なんていう、なんともナンセンスで、
それでも膨大な優しさの溢れることづてを。
(今日お話しをしたみんなは、どことなく寂しげに、でも、あたたかい口調でお話しをしてくれたと、心の中で反復してみた。)
残りわずか、スプーン一杯分の粉。
限りない優しい気持ちをたっぷりと含めた
やわらかい味になっていると、良いと思う。
このやさしい気持ち。
この悪魔のように優しい部活の中で
一体誰が、これを体に伝わせるのかな。
(テニスを愛す人に。優しい人に。
獄寺くんに。
手塚部長に。
乾先輩に。
もしここが神奈川のあのテニスコートだとしたら、赤い髪の天才に。
そして、エンペラーの率いた眠り羊に。
飲んでもらいたいなと、そう思った。)
*4.はぐれた仔猫