左手


状況を甘く見ていたわけではない。城の異変を重々承知していたはずだが、自らの国に追われているという現実は幼い二人には過酷な現実だった。
ミストの洞窟。その最深部から戻ってきた一行が目にしたのは、脱走した王子と王女――と、二人を匿う謎の男――を追ってきたバロン兵だった。一個小隊はあろうかという兵士に二人は辟易とする。背後にまだ兵士が潜んでいるかもしれない。三人がそれぞれ見回すが、逃げ場は見当たらなかった。

「先回りされたか……!」

男は顔をしかめる。 男一人ならまだしも、子ども二人を連れて無事に突破することは不可能だ。
シルビアが振り返ると、セオドアが不安げな表情を浮かべている。

「どうしましょう!?このままでは……!」

このままでは。
捕まってしまえばそれまでだ。王女と王子であろうと、ただでは済まされないだろうということは容易に想像ができてしまう。
王女は固く拳を握りしめた。こんなところで、足を止めるわけにはいかない。父と母と、自分の国を救わなければならない。たとえ、ここで犠牲を出そうとも、未来へ繋ぐためには仕方がないではないか。そう、自分自身に言い聞かせた。
静かに目を閉じた。そっと口を開き、詠唱を始める――その時だった。
ひんやりとした空気が身体を包み込み、はっと息を飲んだ。あたりは忽ち白く染まり、自らの身体さえ不明瞭にしていく。
霧だ。
霧が、こんなに。どうして。
シルビアが声を上げようとした瞬間、何者かの手が口を覆った。驚きは声にならず、息が詰まる。
こんなことをするのは、「あの男」以外に考えられないのだった。

「しゃべるな……」

彼女の予想通り、背後から男が呟く。身を屈める横で、セオドアも息を潜めいる。
話さないという意思を込めて男の手を引くが、男は離そうとはせず、むしろ一層力がこめられた。シルビアの眉間に皺が深く刻まれる。

「この霧が……僕たちを……」

兵士たちが撤退していくのを見届けたセオドアが呟く。男は黙ったままだった。
黙ったままの男に、シルビアはいよいよ痺れを切らし、肘に渾身の力を込めた。
セオドアは、男から声にならない叫びが上がるのを聞いたような気がした。

「……ッいつまで塞いでるのよ!息ができないじゃない!」

怒りを顕にするシルビアを、男は無言のまま見つめる。
「姉さん、大声だしそうだったからじゃないか」とか「鼻呼吸をすればいいじゃないか」とか、セオドアの頭には男を庇う正当な言葉がいくつも浮かんだが、あくまで口には出さなかった。それらの言葉はどうしても姉の反感を買うのである。
姉の激情は治まるのを待つしかない。少なくとも、セオドアはそう考えていたが――。

「……なにか言いなさいよ」
「兵士たちを手にかけなくて良かっただろう」
「は」

ぽかんと開いた口から間の抜けた声が出た。シルビアの二の句を待たずに、男は「行くぞ」と歩きはじめる。
真っ直ぐ進んだ先に、日の光が射し込んでいた。




20150218
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