名前
「ほんとに、知らないの」
いつになく、まじめな顔をして問いただす姉にセオドアは頷くしかない。何度聞かれても、彼の名前は知らない。知らないものは知らないのだと頭をふると少女は怪訝そうに眉をひそめた。
「じゃあ今までなんて呼んでいたのよ」
不満そうに言う少女に、セオドアはいよいよ困った。
男と長い間行動を共にしているわけでもなく、名前を呼ぶ機会がたくさんあるわけでもなかった。なにか伝えたいことがあるときは、男が察して耳を傾けてくれていた。「あ、あの」なんていう微妙な呼びかけで十分伝わっていたのだから、今更名前などどうこういうことでもない。
「おじさんて呼ぶわよ」
という言葉が本気かどうかなどセオドアには知るよしもないが、彼女が「おじさん」などと呼ぶことはこれまで一度もなかった。
彼をおじさんと呼称するのには抵抗がある。だからといってお兄さんは違うような気がする。セオドアがそう思うように、彼女もまた困っているのある。
バロンを後にしてからも、男のあとをひっついているが――ついでに、連れがもう一人増えたのだが――この先彼の名前を知ることが果たしてできるだろうか。
無事に父や母に会うことができたら――いや、それよりも前に別れのときがきてしまうかもしれないと考えるとセオドアは無性に不安になった。
名前の知らない恩人のままはいやだった。男の捨てたという名前はとても重要なものなのである。
「……大切だからじゃないかしら」
「え?」と聞き返す。
「名前」という言葉に二人は数歩先を行く男を見た。
彼女が言うには、男の名は彼にとってとても大切なもので、よく知らない者に軽々しく教えるようなものではないという。「あたしだって、どこの誰かも分からない謎の男に名前を教えなくなんかないわ」と笑うようすに、セオドアは表情を曇らせる。
「それって、信用されてないってこと……?」
「ああ、そうかもしんないけど……ええと、きっと大事すぎて隠しておきたいのよ。ほんとに信用されてないなら、偽名でもなんでも使えばいいのよ。そのほうがお互い怪しまずに済むでしょ?そうしないってことは、きっと自分の名前が大切だから。そんな人が名前を捨てるかしら」
なるほど、とおもったが詭弁のようにも聞こえる。自分たちの名前が大切なように彼にも大切な名があってほしいと、そうおもいたいだけなのかもしれない。彼の心情は子どもたちにはとても測りがたいものだった。それが二人にはどうにもむずかゆい。
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「怪我を、しているわ」
男が振り返ると、深刻な顔をした少女が彼の腕を見つめていた。
たいしたことではない、といなしたものの、彼女は頑なに引き下がろうとしない。歩きはじめる男の前に立ちはだかる。先ほど受けた傷がどうしても気になるらしい。
「たいしたことないわけないわ。……あたしじゃ、なおせない」
少女の呼ぶ声にセオドアが飛んで来る。すかさず詠唱を始める王子を止めることはしなかった。こうなってしまっては、頑固な二人は決して引き下がらない。行動を共にした短い間で男がわかったことだった。
――まったく、変なところであの二人の血を受け継ぐのだ。
傷のふさがれた腕に触れる。癒された傷痕はまだ温かい。
「……おい」
男の声に振り返る顔は、不満いっぱいにしかめられている。
「――シルビア、よ」
一瞬、なんのことだか分からずにいた。
男が理解するのと同時に、彼女――シルビアは続けた。
「名前。わたしは、おい、なんて名前じゃあないわ。シルビア。名乗らない無礼者に教えてなんてやらないって思っていたけど、仕方ないから呼ばせてあげる。あなたの名前は――聞いても教えてくれないだろうけど」
そう言って、シルビアは先を歩く。振り向きもしなかった。
「姉さん、きっと照れてるんです」
「……そうか」
どこか嬉しそうに話すセオドアに、男は無愛想に答える。それでも少年の頬は綻んだままだった。
少女の後を追う足取りは、先程よりもほんの少し軽く感じるのだった。