蛙化
「リディア、いないのね」
そう言って幼い王女が足を踏み入れたミストは、かつての戦乱によって焼かれた村だった。人々が穏やかに暮らすそこかしこに十数年前の傷痕が残り、男は悲痛な思いであたりを見回す。陰謀に加担した男がこの場にいることに気づく村人がいるはずもなく、珍しい訪問者にひとたび目を向けてはまた日常へと帰っていく。
村人たちが三人に無関心なのは、むしろ都合が良かった。村を進んだ先は崩れた山が聳えており、あえてこの地を目指す者はいない。村を抜けて山を越えようとするなどもってのほかなのである。
「この先は山が崩れて通行できないと聞きます」
思わず口を開いたのはセオドアだった。ほんとうに、崩れた山を登るというのだろうか。かつてはダムシアン領へ繋がる山道であったが、今や残るのは崖である。その地を通るという男の言うことが未だに信じられなかった。
「バロンではそう聞いているのか?」
「え……そ、そうですが」
「なら好都合だ。……だが」
男は考え込むように目を伏せ、視線を少女へと移す。突然目が合い、シルビアはぽかんと間の抜けた顔をした。対して男は、普段以上に眉間に皺を寄せ、口を噤んでいる。
「なに」
「……いや」
男は珍しく言葉を躊躇った。常にはっきり偉そうに物を言うくせにと、シルビアは訝しげに眉を寄せる。「はっきり言いなさいよ」と迫ると、観念したようにため息まじりに呟いた。
「この先崖を登ることになる」
「? うん」
「……シルビア、お前はここで身を隠しているか」
「……は」
この男は何を言っているのだろう。思わず素頓狂な声をあげたシルビアだったが、その言葉の意味を理解するやいなや、全身が逆立つかというほどの怒気に満ちていた。見開かれた目の上で、眉がきっちりとつり上がっている。
「なに、それ」
この反応は、男にも容易に想像できたことだった。彼女が一国の王女としての誇りも高ければプライドも高いということは、短期間でも十分に感じ得たことであるし、「王女だから」「女だから」と特別扱いを受けるなどもってのほかであった。
しかし、どうしても、言わねばならないことだったとも思う。男の言葉は「ここで身を隠していろ」という意味を込めたものだった。王女を、少女を、あの二人の娘を危険に晒したくないという思いに間違いはない。たとえ、彼女の逆鱗に触れるようとも――。
「ふっざけんじゃないわよ!誰に向かってそんなこと!」
「しかし――」
「黙りなさい!身を隠すですって!この非常時に、このあたしが!そんなこと許されるはずが――いいえ、あたしが許さないわ!」
「姉さ――」
「なによ、あんたも同じことを言うっていうの!」
姉さん、落ち着いて――弟の言葉は激情した姉に届く前にかき消された。こうなってしまってはもう、どんな言葉も届くまい。セオドアはがっくりと項垂れた。
「二度と同じことを言ってみなさい!そしたら――」
一呼吸おいて、より声を荒らげた。
「カエルにしてやるわ!」
その時、セオドアは思い出した。数年前、理由こそ忘れてしまったが、姉の怒りを買った彼は瞬く間にカエルに変えられてしまったのである。まだ白魔法を覚えたてのころ。拙いケアルが精一杯だったころ。カエルとなった自分を治す術などなく、しばらくの間カエル体験をしたことは今となってはいい思いでだが、歴然とした魔力の差に悔しさを噛み締めたものだった。
結局、彼は事態に気づいた父親の白魔法で元に戻り、対してシルビアは母親の叱咤を受けていた。
叱られて拗ねた姉を見てもなお、決して彼女が悪いのではないとセオドアは思った。無力な自分が悪い。自分が強くならなければならない。強い力をもつ姉を支えられるような強い力を。
セオドアはそういう子どもであったし、今でもそうだった。
対抗する術のある黒魔法など驚異ではないが、圧倒的な力をもつ男に対しても力を振りかざそうとする姉にはやはり驚かされる。
「気をつけてください」
ぽつり、と溢すセオドアに男は視線だけを向けた。両親に似た端正な顔立ちが、まじめな表情を浮かべている。
「やると言った姉さんは本当にやります」
「……そうか」
今さら 【トード】などにかかるつもりは毛頭ないのだが、真剣そのものといった少年に男は頷くしかないのだった。
20150411