Silver spoon wars
ふしぎなお茶会、きらめく銀の匙

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 第一幕 / めざめないでいてほしい - りこりく

 昨日も今日も、悪夢を見ている。悪夢の定義は難しいが、夢を見ている本人、つまり僕が悪夢と思えば悪夢なのだ。主観的も客観的も何もない。僕が見ている夢だから。
「リコットちゃん、」
 甘ったるい声でリクさんは僕を呼ぶ。隣り合って長椅子に腰掛けているような至近距離、呼ばれるままに横を向けばすぐそこにリクさんの柔らかい茶髪がある。この夢の世界ではその彼の声だけじゃなくて、周りもほわほわしている。ここに満ちているのは少女漫画でよくある、きらきらしたトーンが切り貼りされたような空気。甘ったるい、少女の夢。
「あのさ、」
 と、彼は僕が長椅子に置いていた右手に自分の左手とを、彼の方を向いていた僕の額と彼の額とを重ねた。目と鼻の先とはまさにこういうこと。自分の瞳と、コバルトブルーの瞳に映る自分の瞳とがものすごく近い。近すぎてピントが合わなくて、本当に彼の瞳に僕が映っているかは確かめられない。わからない。わかりたいのにわからない。自分の意思と自分の夢は、なぜかこういうところで噛み合わない。
 ただ、彼の唇が開くのがピントの合わない中ぼんやりと視界に入る。彼は「あのさ」の続きを言おうとしている。僕はそのサインを逃さなかった。僕はすぐに願った。夢ならば、醒めないで__。

 案の定、目が覚めた。僕は寝る前と同じく、自室のベッドでやさしいオレンジ色の布団にくるまって寝ていた。少し開けておいたカーテンからは朝日がすうと綺麗に差し込んで、ぴち、と微かに鳥のさえずりも絵画の中の世界さながらに聞こえる。悪夢を見たことを除けば素晴らしい朝。__夢は夢であれと願うほどに醒める、というのはどこかで聞いたことがあったし、悪夢を見た昨日も「夢であれ」と願うとすぐに目覚めることができた。昨日も同じような内容の夢だった。もう別れた、自分から別れを告げた元彼の夢なんて悪夢でしかない、の、だ。
「……あく、む、」
 そう呟いて、僕は布団の中で自分の右手に左手の爪をやんわりと食い込ませた。やっぱり痛かった。
 僕は寝返りを打って、枕に顔を埋める。夢から醒めたんだ、と僕はほうと息をついた。これは安堵の溜息である、と自分自身に言いながら。

   ○

「お疲れですか?杏のりーさま」
 いよっ、と竹馬から飛び降りたのはナース姉さん__ミントちゃん。僕は疲れでがくがくする膝を押さえ込むように猫背になって膝に手をつく。肩を上下させながらちらりと横手から歩み近づく彼女に目をやった。白衣をそよ風にはたはたさせながら悠々と午後3時半の館の敷地内を歩けるのは第三陣営の特権である。無論、僕は欲しいとはちらりとも思わないけど。
「うん……まあね」
 はあ、と僕は庭の芝生にへなりとしゃがみ込む。悪夢のせいか、昨日今日、と睡眠の質が悪く頭痛と倦怠感とを感じるようになっている。身体の動きも鈍いし、動くとすぐに息が切れるのを感じる。さっきの戦いだって、リクさんがたまたまいなけりゃ大変な目に合うとこだった。メルトに隙を取られて持っていた銀の匙を奪われそうになったが、いつのまにか近くにいた彼がメルトにウインクを飛ばしてくれたのだ。それより、なぜ僕は相手に隙を作ってしまったのか。なぜ隙を突かれそうになったところを僕は瞬時に反応して対応できなかったのか。
 ぎ、と奥歯を噛み締めて地面に座り込んだが、途端僕の右足首がぴき、と鋭い痛みが走った。後からずきずきと余韻がついてくる。うっと足首を摩ると、肌に切れ目が入っているのを感じた。あれだ、きっと、メルトのフォンダンショコラに足をとられて転んだときに、草むらの草で足を少し切ったんだ――。それに気づくと同時に、ナース姉さんがあれ?という目線を僕に投げているのを感じた。僕は背中がひやり、ぞくりとする。それはきっと、肌寒い風のせいではない。
「……杏のりーさま、もしかして、」
 すぐ後ろで、ナース姉さんの声がした。
「怪我、してますね?」

 みんとの保健室、という札がドアにかかっているこの部屋の診察台__少し硬い合皮の長椅子に僕は腰掛けている。僕は先ほど指示されたとおり、渋々右足を長椅子の上に乗せていた。右足首にはすっと10センチほどの切り傷が入っている。勿論、刃物で切ったわけではないので、傷口は紙で指を切ったときのことのように浅く、まったく大したことはないのだけれど……。そんな思いも空しく、きゅい、と白衣姿のナース姉さんは僕の向かいの丸椅子に腰掛けた。
「いいですか杏のりーさま、切り傷は侮れないのです。雑菌繁殖の温床ですからね〜〜」
 ぴ、と右手の人差し指を立てて彼女はそう説く。僕は苦笑いした。
「いや、それはわかってるんだけど…手当てなら自分で」
「みんとがやれば確実ですよ!すぐ終わりますから〜〜」
 僕の言葉を遮って、彼女はふわりと魔法で例の葉を生み出す。泣く子も黙るミントの葉っぱ。僕は口を噤んだ。脂汗が浮かんでいないといいな、と天を仰ぐ。天井の白いLEDがいやなくらいににっこり微笑んだ。
「じゃあいきますよう〜〜!それ、」
 そう楽しげに彼女はふたつ結びを揺らして、僕の右足の傷にミントの葉を当てた。僕も髪につけている桜色のリボンを楽しげに揺らして「わあ!傷が治った〜!」と歓声をあげられたら、なんと夢のような世界だっただろう。現実は、傷口に塩を塗られているような痺れた痛みに悶えて身をよじり、髪が乱れるくらいに頭を揺らすしかできない。
「はあい、治療、終わりましたよ〜〜」
 その声とともにすうと傷口から葉っぱが離れる。ぴりぴりとした回復痛もすうと引いた。ああ、と僕は脱力して自分の右足にしがみつくように患部を撫でた。切り傷はすっかりなくなっている。はあと長い溜息が漏れたが、彼女はというとにこにことミントの葉を足元のゴミ箱にぽいと捨てていた。特技治療・趣味治療、さらに治療も絶対に失敗しないのだけれど、やっぱりとんでもなく痛いのは勘弁してほしいなあ、と僕は先刻まで痛みで涙目だった瞳で視線を投げたが、それも虚しく彼女は何事もなかったかのように「そういえば」と口を開く。
「杏のりーさま、今日、いつもより戦いにくそうでしたよね〜〜?なんというか……いつも気を張って戦争に参加してらっしゃるのに、どこか注意散漫?といいますか〜〜……」
 ちらり、上目に彼女は僕を見やる。僕はぎくり、と目を逸らした。
「ここのとこ、なんかぼうっとされてるような気がして……何か具合が悪いように見えるのですよう」
「――ただの寝不足だから、普通に」
 頭がきうとしめつけられて、僕は眉間を押さえる。なぜナース姉さんはそんなことを聞いてくるのだろうか。悪夢のことを思い出してしまうから、できれば体調に関することは聞いてほしくなかったんだけれど――。まあそんなことを思っても、仕方がない。
 やや間があって、彼女は口を開いた。
「もしかして――悪夢を毎晩見たりしてないですか」
 僕はえ、と顔を上げる。耳を疑った。目を白黒させた僕を見て、彼女はぱっと顔色を明るくさせる。
「あ、やっぱりそうなんですね〜〜!実は、悪夢を見る風邪というものが最近流行ってるんですよ。
 悪夢を見る風邪、なんてあんまり聞かないですよねえ?しかも悪夢を見るのが症状のひとつなんて本当かな〜〜って感じなんですけど、本当なんです。病名は……『夢喰い』。まあ学名は面倒くさいくらいに長ったらしいので『夢喰い』は俗称なんですけどね。そんなに感染力は強くないけれど、一応、ウイルス性です。
 症状は普通の風邪と大体同じです。というか、風邪の一種です。数日寝ていればけろ〜〜っと治る!ただ、原因は不明ですが、なぜか患者は皆悪夢を見るのです……不思議。ほんとうに、不思議。だから杏のりーさま、もし『夢喰い』にかかっているなら倦怠感とか身体のだるさを感じているはずなのですが、そういう症状もありません〜〜?」
 ある、けど、と僕は困惑気味に眉を寄せながら返答した。どっと情報が押し寄せてきて、処理が追いつかない。「夢喰い」なんて、僕、聞いたことなんてない。そもそも悪夢を見させるのに、俗称が夢を喰う、ってどういうことなんだろう。
「じゃあたぶん杏のりーさま、『夢喰い』にかかっちゃったんですよ〜〜!たぶん安静にしてれば身体のだるさとかは数日で治っちゃいますし、一応咳とかくしゃみとかには気を使ってくださると幸いです〜〜」
 僕の返答を聞いた彼女の声音は嬉々としていた。「『夢喰い』なんて珍しい!」と呟いているので、僕のかかったらしい「夢喰い」に出会えて喜んでいる、というところか。まあ、頭のてっぺんから爪先までナースな頭な子だというのは知っているけど。
 ただ、「夢喰い」について気になる点がひとつある。ねえ、と僕はひとり盛り上がっている彼女をこちらの世界に呼び止める。
「その『夢喰い』、って、早く治る薬とかはないの?」
 そう尋ねると、ナース姉さんはふっと笑顔を緩めた。ええと、と言葉を濁して彼女は答える。
「『特効薬』はありますけど――たぶん、安静にしておくだけで十分ですよ〜〜?」
 口元を袖で押さえながら、彼女はゆっくりと首を傾げた。僕は思わず俯いた。
「でも、僕、あんな夢はもう、見たくないから……なるべく、早く」
「――そう、ですよね。でも、『特効薬』が、その……処方できるかはわからないので」
「副作用が強い、とかってこと?『特効薬』って何か教えてよ」
 彼女は顔を曇らせた。唇を微かに開いたかと思うと、すぐにまた閉じる、を2回ほど彼女は繰り返す。少し、焦れったい。そんなに重い副作用があるなのだろうか。僕の眉間も思わず曇る。が、ついにナース姉さんは口を開く。僕は少しだけ、身構えた。
「その、『特効薬』っていうのはですね――」
 僕はその続きを聞いて、ゆっくりと目を伏せるしかなかった。――趣味の悪い、特効薬だ。
「簡単に信じれるような薬じゃないですけど、でも学会では本当にそう言われてて――」
「うん、わかって、る」
 最後の「る」、が地味に部屋に響きを残して、沈黙が流れる。彼女も僕の元彼を知っているから、「特効薬」についてあまり話したがらなかったし、今は押し黙っているのだろう。僕は診察台から腰を上げて、笑顔をつくる。
「いいよ、僕、明日はずっと寝てるから。明日の戦争前の紅茶派の会議も戦争も、出ないってうぇる兄とかに言ってくれないかな」
「あっ、はい……なんていうか、ごめんなさい――です」
 ナース姉さんの顔色は暗かった。僕はできるかぎり、にっこり、笑う。
「大丈夫」
 大丈夫。大丈夫だ。「夢喰い」に魘されて目を覚ますのは、あと何回かしかないらしいから、大丈夫。大丈夫で、いて。僕は僕自身に願った。

   ○

 僕は「みんとの保健室」の扉を閉めた。廊下は静かだ。いつのまにか太陽がオレンジがかって、だんだんと空を赤っぽくしているのが窓から見える。今日はもう、安静にしてよう。僕はそっと、ゆっくりと自室へと歩き出した。
 ――と。後ろから、お声がかかる。
「リコットちゃん、」
 夢の中も「今日」に数えるなら、彼に名前を呼ばれるのは二度目である。僕は振り向いた。
「――リクさん」
 ゆったり、彼は近づいてくる。夢の中と、記憶と、変わらない足取りで。奇遇だね、と言うようにひらりと彼は右手を挙げた。僕は曖昧に笑い返すしかない。
「大丈夫?戦争で怪我したってミントちゃんが言ってたけど」
 さらり、そんな台詞をリクさんは口にした。別れた女のコの心配なんて、してくれなくていいのに。僕は顔を隠すように俯く。
「大丈夫、ちょっと草で足首切っただけ」
 できるだけ短く、でも要点はおさえて述べる。俯いているから、彼が履いている今日の靴はモカシンだとわかる。そっかあ、と彼は僕のまん前でそのモカシンを履いた足をぴたり、止める。
「軽いならよかったけど、怪我には気をつけてね」
 じゃあ、と一瞬だけ止まっていたモカシンの靴先がくるりと自分から向きを変える。僕はあ、と思った。なんでかわからないけど。確かに、何かが、あ、と言った。僕はその「あ」に弾かれて顔を上げる。
「待って、」
 リクさんは僕から立ち去ろうとしていた足を止めた。何?という目線を投げてくる。「待って」と言った割には、僕は特に何も考えていなかった。口をぱくぱくさせてしまう。が、やっと、僕は言いたかった言葉を見つけた。
「……さっきは、さっきの戦争はありがとう、ピンチだったけど助けてくれて」
「ううん、全然。――大丈夫」
 それじゃ、と、とん、と肩を叩かれた。彼は僕とすれ違うように立ち去った。それから一気に肩が熱くなる。熱があるんだ、僕は思うことにした。「夢喰い」は風邪みたいな症状が出るらしいから、きっとこれは「夢喰い」のせいだ。だからあの夢は悪い夢なんだ。本当はまだすきだとか、そういう気持ちはまだ眠っていてほしい。まだ、目覚めないでいてほしい。そんな気持ちは忘れたいのに、悪夢が掘り起こしてくるんだ。すべては「夢喰い」のせいだ。よくわからないけど、「夢喰い」の、せいだ。廊下の窓から見える地平線に沈む夕日は、また夜が明ければ昇るだろう。僕が、夢から覚める頃に。


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