鬼が戸より出、空の部屋


「わるいこはいねがー!」
 ばん!という扉の音と、ドスの聞いた声。本の内容が頭から吹っ飛んでしまうくらいの物音。俺は肩を、震わせた。
 
 ここは館の西側のとある空き部屋である。西側は東側に比べれば俺ら館の住人が自室としている部屋が少ないので、幾分かひっそりとしている。その静かな雰囲気が俺はすきなので、あまり使われていないらしい空き部屋で書架から持ち出した本を古びたロッキングチェアに座りながら読む、というのが自分の密かな楽しみであった――の、だが。ぶるりと反射的に震えた肩を縮こませながら、俺は派手な物音のした背後を振り向く。衝撃でかたりと手から愛用の金属製の栞が床に滑り落ちたのは、後で拾うことにして。
 扉のすぐそこに立っていたのは、頭から上向きに角を生やし眉をつりあげ、目玉が飛び出るほどに怒り狂った顔の、青い肌の鬼――いや、鬼のお面を被った都だった。たしかに、よく見ると鬼のお面を被っただけの都なのだが、先ほど本当に鬼の気迫を感じたのはなぜだろうか。こんなことを彼女に言ったらきっと、それこそ鬼のように怒るだろうから言わないけれども。
 俺が困惑しながらもやっとこ床の栞を拾い上げてからやっと、彼女は鬼のお面を顔の中心からずらした。ぬう、と目を細めてから瞬きしてこの部屋を一瞥する。ばち、と一瞬目が合ったが、俺がすぐに床に視線を落としたのですぐにそのかち合いは途切れる。
「……あれ?ここあられちゃんらのおる部屋とちがうん……うわあ、間違えたわ、悠くんごめんな」
 きゅ、と肩を竦めた彼女は、どうやら入ってくる部屋を間違えたようだ。にしても、彼女が鬼のような形相で突撃しなくてはならない、且つあられのいる部屋が存在するとは一体何事であろうか。そう一瞬考えたが、今日が節分の2月3日であったことを俺はすぐに思い出したのでその疑問は自己解消される。きっと、あられたちとする豆まきの鬼役に抜擢でもされたのだろう。先ほどのなまはげのような科白は節分の鬼とは少々、いやかなり違う気はする気がするけど。
 まあでも鬼といえば、と俺は手にしていた新書の表紙に目を落としてぽつりと呟いた。
「まるで『鬼が戸より出、空の部屋』、……」
「現代語文法の本読んではるなんて真面目やねえ――って、誰が鬼やて?」
 ゴムで頭につけるタイプの面を外しながら、彼女は俺の座っている椅子の方に近づいてくる。微笑んで入るが目は笑っていない。がし、とロッキングチェアの背もたれの端を掴まれたが、俺はひょうと肩を竦めてみせる。
「別に誰がとは言っていないし、仮に君だったとしても鬼の格好をしていたので異論は認められない」
 ゆらりと俺は椅子を揺らしたが、眉間に鬼の面に似た皺を都はつくる。
「それ、悪意を感じるんやけど」
「ありのままを描写したまでで」
「そもそも鬼さんが扉から出てきたこの部屋ですけど、すっからかーんな空の部屋やありません!なんや大層な椅子もあるし棚もあるし床もちょっと本置いてあるし、第一、悠くん、あんたがいてる!」
  びし!と人差し指で俺を指しては、彼女はぐわぐわとロッキングチェアを小刻みに揺らした。本が膝の上から落ちそうになったので慌てて抱えた。おいやめろよ、と言おうと思ったが、椅子と一緒に体全体がぐわぐわしているので「ぉおうぃ、やぁめろうょ」という声になる。全く、しょうもないひとだ。人差し指は人を指すためにあるものじゃないというのに。
 ばん!と最後に大きくひと揺らしして都はロッキングチェアを揺らすのをやめた。感覚バカなのは知っているが、彼女はこの椅子を壊す気なのだろうか。ぐんと俺はつんのめったように前のめりになりながらも弁明する。
「喩えだ、喩え」
 何が喩えよう、と彼女は顔を顰める。
「もうええよお!さっさと鬼はかわいいあられちゃんとバンくんとこお相手しに行ってくるわあ」
 自分が鬼だと認めた(らしい)都は、はあと長めの溜息を零して鬼の面を被りなおした。なぜかそのてかてかとした青く厳つい鬼のお面が似合うなとやはり思ってしまうのは気のせいなのだろうか。俺もほうと一息漏らすと、新書の小口に人差し指を入れる。ぱっと出てきたページは読んだ記憶しかない格助詞のページだった。
「かわいげのかの字もない鬼が読書の邪魔してすみませんねえ、ほな」
 面を被りきらず少し正面からずらしたままの都はそう言うと、少々むつりと頬を膨らませてくるりとロッキングチェアから離れる。と、その後ろ姿に俺は気になる点がひとつあって、「ちょっと」と彼女を呼び止め、椅子から立ち上がって側に歩み寄る。ゆらり、背後でロッキングチェアは揺れた。
 なんや、と呼び止められた側の都は訝しげに振り向きざまにこちらをやや睨んだ。その彼女の後ろ髪の一部が、面を頭に固定する紐に巻き込まれたようにふわんと乱れている。
「……髪、乱れてるんだが」
  と、俺は手を伸ばして、10センチ弱ほど自分より背の低い彼女のボブカットのサイドの髪束の、面を被ってしまったからか絡んでもつれあっているところをなぞった。そうするとすぐに毛先はいつもの綺麗な黒髪の乙女のシルエットを象り、彼女の耳横に落ちる。水彩絵の具が水をあらかじめ乗せておいた画面に落ちたときのように、その耳から頬にかけてぶわりと赤みが広がる。都は動揺したのかうあ、と口を歪めた。ちかいよ、と彼女が言葉を零したような気がするが、空耳のような気もした。
 はあと小さく息をついた彼女の顔はやっぱり赤くて、俺は彼女の「ひとに見せる用の顔」を崩せたような気がしてひとり少しにやけてしまう。だからか、俺は要らぬことを口走ってしまった。
「赤鬼の顔……」
「誰が?」
 そう目を細くして鋭く睨まれて、俺は口を噤んだ。すっかりだんまりした俺の頭を、わるいひとやなあ、とぺちり、彼女は叩いた。

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