ヴィーナスの如く


 昨日の始業式は登校時間が遅めだったのに、もう今日から通常通りだ。怠けた体にこの陽気だと授業でうつらうつらしちゃうんだろうな、と車窓の向こうのきらきらと光る春のまちに、なんともいえないため息を投げかける。
「まもなくー、○○町、○○町。お出口は右側です」
 やがて電車はゆるやかに減速し、完全に止まるとぷしぅとドアを開けた。10人ほどが乗り込んできて、車内に散らばる。まだつり革ひとつに立っているひとひとり、くらいで激混みじゃないけど、次の駅くらいで車内のスペースは埋まるだろう。あたしはホームドアのすぐ右に立ちながら車内をちらり、見渡した。
 あたしは今年も去年と同じ時間の電車を使っているから、10 人のうちの数人は去年も電車で見たことのあるひとだった。長身のサラリーマン、口紅をきちっと引いたおねえさん、作業服のおっちゃん。そして、車内アナウンスとともに同時に乗り込んで、わたしの今立っているのと同じホームドアの左に立ったひとりの女の子。スクールバックに深緑色のふんわりとしたリボンのバッグチャームをつけている。
「ドアー、閉まります」
 電車に乗ってきたそのひとは進級に合わせて髪を肩にかかるくらいの長さに切ったみたいだ。名前は知らない。でも、春休み前までのあの背中まで届く、ヴィーナスのように長い黒髪のつややかさはありありと思い出せる。彼女はあたしが毎朝目にしていた、有名なお嬢様女子校の制服に身を包んでいるが、初めて彼女を目にした一年前のこの時期とはリボンの色が変わっていた。赤からサックスブルーに色は変わっても、その細くやわらかで繊細な形状は変わらない。さすが全国屈指の有名私立校の制服、かわいい、とあたしは去年の今頃と同じことを思った。
 あたしはスマホの画面に目線を落とした。LINEが1通きていたけれど、ただの母からの了解スタンプだったので既読だけつけてスマホをスリープさせる。黒々としている画面にはうっすらとだが自分が映っていた。ツインテールがどこか幼げだけど、あたしの身長じゃそこまで違和感はない、はずだ。きゅるり、毛先を指に巻きつけてみる。セットしたはずなのに、ちょっと跳ねているところがあった。あたしも、あの子みたいな綺麗な髪になりたいんだけどな、と顔をあげて女子校のあの子の方を見る。
 と、なぜか目線がその子とかち合った。その子の瞳は深い緑色をしていることに、あたしははじめて気づく。綺麗だな、とちらりと思う。なぜかその途端に、こころの奥でぱちりぱちりと弾けるような音が聞こえた気がした。なぜかあたしたちは数秒、いや、0.5秒くらいかも、見詰め合った。なぜかその子の瞳にはあたしが映っていた。どちらともなく目線を反らすと、ただ車窓には新緑の春のまちが広がっているのが目に入った。
 あの子、とぎゅ、とリュックの肩ひもを握ったあたしを乗せた電車はそのまま走り続け、やがてゆるりと停車する。
「同じく右側のドアが開きます。開くドアにご注意ください」
 この駅は乗車する人が多い駅だ。かつ、あの子が降りる駅でもある。去年度と同じく、ドアが開くとあの黒髪の女の子は電車を降りようと右足を踏み出した。同時にドッとホームにいたひとが押し寄せるように電車に乗り込む。あたしは黒髪の女の子をなぜか目で追ってしまった。人ごみの向こうに、消えていく彼女。
 そのとき、あの子とすれちがったひととあの子のバッグチャームとが接触して、引っかかる。その拍子でぽとりとリボンのバッグチャームがホームの雑踏のすきまに音もなく落ちた。
「あっ」
 ざわざわとした駅の空気に、あたしの声は埋もれてしまう。黒髪の彼女はバッグチャームを落としたことに気づかないで、人ごみをかき分けて改札へと歩を進めていく。
「まもなくドアを閉めます、お近くの空いているドアよりご乗車ください」
「待って!」
 アナウンスに返すようにあたしは呟いて、スマホをポケットに押し込みながらはじかれるように電車を降りた。ぎうと体を車内に押し込もうとしていたスーツのおとうさんがぎょ、とあたしに視線を投げたのを背後に感じながら、人の一気に少なくなったホームの上にさびしそうに横たわっているリボンを拾いあげた。顔をあげて、あの黒髪の女の子を探す。
「ドアー、閉まります!お荷物を体にお引き寄せください」
 後ろでぷしゅんとドアが閉まって初めて、あたしはここで降りて次の電車で学校に間に合うのかという疑問に気づいた。でも、そんなことどうでもいいや。なんでか、このバッグチャームをあの子のところに渡さないといけない気がした。春のヴィーナスのお告げ、とか、そんな感じで!
 首をぐるんと回してミルクティ色の髪を振り回しながら、あたしはあの子の姿を探す。いた!改札ホームへの階段を上っている、あの子だ。
「ちょっと待って!」
 あたしは階段へ走る。が、階段も上る人でいっぱいで、ゆっくりとしか進まない。あの子とあたしの距離は10数段はあるのに、人を抜かせない。でも、ちょっと、ちょっとずつ黒髪のあの子に近づく。
 やっと階段を上りきって、人と人との間隔がゆったりしてきた。あたしは人と人の隙間という隙間をすり抜ける。あたしの身長じゃ、うまく彼女を追うことができないけど、ただひたすら、バッグチャームをにぎりしめて前に前に進む。
「ねえ!」
 改札のゲートに彼女が定期券をかざそうと鞄から出したそのとき、やっとあたしは彼女に追いついた。肩をぽん!とたたくと、びっくりしたようにその子はカード入れを持つ手を引っ込めて後ろを振り返る。黒髪がふわりと孤を描いた。
「貴方、……」
「これ、あなた、落としてたんです」
 あたしはちょっと荒い息をあまり表でに出さないようにしながら、彼女に深緑のリボンのバッグチャームを差し出す。と、彼女は目をぱ、とまるくさせる。
「あ、……ありがとう」
 黒髪のその子がバッグチャームを手にとったとき、後ろからひとがチッと舌打ちしながらあたしのリュックにぶつかって、そのまま改札をすたすたと通っていった。すみません、とあたしは呟く。
「その、それだけです。それじゃあ、呼び止めてごめんなさい」
 なんだか恥ずかしくなって、あたしはぺこ、と素早く礼をするとくるりと踵を返した。
「あ、ちょっと」
 そう言う彼女の声が聞こえたような聞こえなかったような気がした。そもそも声を聞いたのは今日が初めてなので、判別がつかない。さっきかわいらしい声だな、とは思ったけど。逃げるように腕を振りながらこつこつとあたしはローファーを進める。
「あの、すみません、ちょっと」
 と、あたしは手を掴まれて、えっと後ろを振り向いた。そこにはあの黒髪の女の子がいた。
「ごめんなさい、ちゃんとお礼が言いたくて。拾って頂いてありがとうございます、何かお礼とかした方が……」
 きゅっと整った唇がそう動いて、彼女はお辞儀をした。黒髪がはらりと肩から落ちて、その子は髪に耳をかけなおす。その仕草が、本当に、綺麗だった。
「いえ、いや、あたしなんか、……そんな、お礼とか大丈夫です、」
 あたしは慌ててそう返す。それより、とあたしは自分の右手を見つめた。その手は彼女に握られて、あたしと彼女は繋がっていた。
「……手、」
「うわ、すみません、本当に申し訳ない」
 顔を赤くしながら、慌ててぱっと彼女は手をはなした。途端にあたしの手からぬくもりが消えて、やけに自分の手が冷たく感じた。
「でも、今日とは言いませんからいつかお礼がしたいです……あれ、わたくしの大切なものだったので」
「そうは言われても、」
「何かタピオカを飲むとか」
「タピオカ?」あたしは思わず聞き返す。タピオカには目がないの、あたし。
「この駅の下にタピオカ屋があるんですけれど」
「ほんと?」
「今じゃなくても、今日の5時、とか。案内させてください」
「ほんとに?」
 あたしが聞くと、ええ、と彼女は頷いた。
「一緒に飲みません?タピオカ」
 春のヴィーナスは、微笑んだ。

 これが雛伊さまとあたしの初めての会話で、初めての手繋ぎで、初めてのデートの約束だったね!ってふたりで話をするのは、まただいぶさきのお話でありました。おしまいおしまい!

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