はしがき ニ首の現代短歌に寄せて

 ---

 彼女はとても無口だ。とてもとても無口だ。喋らないわけではない。好きなことの話にになると比較的よく喋る、と思う。だがやはりぼそぼそと喋る。無口であまり何かを口に出すことがない割には、その表情はいつも何か言いたげで、どこか哀愁を帯びていた。
 おれは最初そのことが煩わしかった。言いたい事があればはっきり言えばいいだろう。だから彼女からは勿論、おれもこちらから話しかけることはないに等しかった。そのため初めてまともに口を聞いたのはたしか、皿洗い当番に一緒になったときだ。
「わたし、皿洗いをしますのでウェルさんはそれを拭いて、棚にお戻しください」
 それだけ星のように小さな声で言って、彼女はてきぱきと皿洗いに取り掛かった。おれはてっきり、彼女は自分から何か言うタイプではないと思っていたので驚いた。
「おい」
 おれは思わずその背中に話しかけた。が、彼女はそれに答えることはなく、皿の洗剤を流す手を止めずにちょっと振り返って首を傾げただけだった。すみれ色の髪が揺れた。「なんでもない」と、おれも星のように呟いた。それきりその日は彼女とは喋らなかった。
 たぶんこれを会話と呼ぶ者はいないだろうが、黙々と皿洗いをこなす彼女の後姿と声色はまだ記憶に残っている。
 この館の皿洗い当番というのは週代わりで、その日のあとも六日、彼女と食後の流しに立った。最初は前述の通り会話らしい会話は全くなかった。
 確か三日目であったか。おれはそのとき経理のことで頭がいっぱいで、皿を拭くことにあまり意識を向けられていなかった。何枚目かわからぬ皿をぼうっと拭いていると、ふとじっとした視線を感じてきょろりと辺りを見回した。視線の主は彼女であった。おれは少し喉を強張らせたが、唾を飲み込む。
「何か」
「いえ……その、恐縮ですが、そちらのお皿、表を拭くのを忘れておられるようで……」
 ピンクのゴム手袋をつけた手で、彼女はゆるりとおれの重ねた拭き終わった皿たちの一番上を指差した。あ、とおれは口を半開きにする。失念。
「すまない、集中を欠いていたせいで」
「考え事に耽っておられたのですか」
「……まあそうだな」
 彼女はふふと笑みを零した。なぜ笑うのかはわからなかったが、とても優しい目をしていた。ぼんやりしていることの多い彼女もこんな風に笑うのかと思った。憂いを帯びたような雰囲気はなく、年相応に無邪気に笑うように見えた。おれは、つられて微笑みそうになるのを、これこそ注意散漫であると思って、慌てて今持つ皿の裏を拭いて抑えた。
 思えばその皿洗い当番が銀河の微熱の始まりであった。週代わりのその当番が終わっても何度か会話を交わし、主の好きなピアノ曲の話で完全に意気投合し、色々あっておれはロゼにピアノを習うような間柄までになっていた。
 天体は距離が近くなればなるほど、重ければ重いほど引き合う力は強まる、ということが提唱されたのは300年程前のことだが、提唱されるずっと前からそうやって宇宙は成り立っていた。
 現代においてもそれはまごうことなき事実。それゆえに、おれはピアノ部屋の棚の上の洒落た地球儀を見下ろした。
 プレートが動いて、かつてはかみ合っていた地と地が離れ、遠く離れていた地と地が引きずり込まれるように引き合う。
 地球儀の表面の微量のほこりを指でなぞる。こうしても、現実の地球のプレート同士がずれたりはしない。
「ウェルさん」
 ドアが開く音と共に、その声がした。おれは振り向く。ロゼが少し驚いたように目をぱっちりさせながらドアを閉めた。
「お早いですね」
「ロゼだって、まだ今は5分前だが」
「まあ……まあ、そうですね」
 はは、とふふ、の中間のような笑みを浮かべて彼女はやや頬を赤らめる。そのとき、地球の裏側の夜空の星が瞬いた。
「早いけど、始めましょうか」
 おれはああ、と返事して、ハノンの練習曲の本を取り出した。
 そうしてハノンと練習曲をもうひとつやって、ショパンのマズルカを一曲途中まで弾いた。まだ譜読みし終わったのは半分ほどだが、似たようなメロディがまた繰り返して出てくるので、ここまで来れば後は楽だろう。
「続きでわからなさそうなところ、ありませんか?」
「……パッと見は、ない」
「わからないことがありましたら追々でも聞いてくださいね」
 それで今日のレッスンは終わった。おれは一礼してピアノ部屋を後にする。ふと立ち止まって廊下でよく耳を澄ますと、彼女の弾くピアノの音が微かに聞こえた。
 数日経った日の夜、おれは玄関前の階段に座っていた。騒がしい居間の周辺とは違って、ここは時折虫の音が聞こえてくるくらいに静かだった。騒がしいのが大嫌いではないのだが、やはりこのような場所の方が心が落ち着いた。
 その日は夏の例外に漏れず暑い日だったのだが、それは夜も同じだった。日中ほどではないが、ぬるい風が頬を撫でた。頬にはりつきそうな髪をのけながら、空の遠くを見つめた。今日は新月で星がよく見えた。星空は星座がわからないと見ても楽しくないという人がいるが、おれはそれなら作ってしまえばいい、と、思う。古の人々がしたように。
 と、背後で玄関のドアの開く音がした。少し開いたドアから、すみれ色の髪を揺らしてロゼが顔を覗かせていた。
「こんばんは」ぬるりと風が動く。草木がそよいだ。「ご一緒してもいいですか?」「どうしてここを」「部屋のベランダから、見えたもので」
 階段は砂っぽくざらりとしていたが、それを厭わず彼女はおれの隣に腰掛けた。
 何か話すべきなのか、話さないべきなのかわからないまま、おれは星空を眺めていた。ベガ、デネブ、アルタイル。主たる星と星座しかわからないのはいつものことなのに、おれは焦ったように空から目線を落とす。それから「あの、」と呟いた。何です?とロゼはこっちを見た。
「今、ロゼは何の曲を練習しているのかと思って」「……わたしが、ですか」「ああ」「あー……『亡き王女のためのパヴァーヌ』です」「それって管弦楽では……主が書斎で聞いていたような」「ピアノ版もあるんです。作曲したのはラヴェルなんですけど、音楽院にいるときにピアノ版を作って、後で自分でオーケストラに編曲したんです」「なるほど」「ピアノ版はお聞きになったことはないのですか?」「まだないな――今度聞いてみたい」「たしかCDが離れにあったかと思いますよ、ピアノ版も管弦楽版も」「あ――そうではなくて」
 ポーチライトがあるだけの暗がりで、ロゼが首を傾げた気配がした。おれは東の空に目線を投げた。息を吸う。
「ロゼが弾いているのを聞きたいと思って」
 頭上、真上、星が瞬いた。
「あ!ああ……わたしのでよければ、いずれ……勘違いして、すみません」
 全然、とおれは言った。なんとなく互いにだんまりして、沈黙に虫の音が入り込んできた。何十秒かして、次に口を開いたのはロゼの方だった。
「ウェルさんはどうです、マズルカは」「……まずまずというか」「妙に長かったりしますものね」「さっぱりした譜面のように見えて、わりと煩わしい運指の箇所が多い気がする」
 ふふ、と彼女が笑った。「煩わしい、ですか」
「……どうした?」
「いえ、なんだか面白いなあと思って」
 おれは無性に恥ずかしいような、照れるような、そんな感じになって、奥歯をあまく噛み合わせた。くす、と控えめな笑みを彼女は零した。いつか昔は随分遠くで瞬く星のようだったその声は、時が経つにつれて、引力に身を委ねるにつれて、何か、もっと近くで輝いているような気がしてしまう。「……シリウス」おれは思わず呟いた。
「シリウス……?」
「『あなたは』……いや、」『あなたはシリウスみたいだ』なんて台詞、恥ずかしくてどんな色男のイタリア人でも失神してしまうだろう。おれは髪をかいて俯いた。「なんでもない」
「なんでもないなんて」星の声がした。「『ウェルさんはおばかな人ですね』」
 おれは俯き加減のまま、ちらり、横のロゼを見た。彼女は膝とで頬杖をつくみたいにして、両手で顔を覆っていた。その指の隙間からロゼの目が覗いた。視線がぶつかる。ポーチライトに彼女の耳の赤みの帯びているのが見えた。
「わたしはかなり、ばかですけれど」
 ああ、そうだ、この世界は例外なく、銀河の微熱にうなされているのだった。おれは赤面した。うだる暑さに、結末に、始まりに。言うまでもなく、銀河の体温の上昇は、加速した。

 ---

 星のように彼女がある日ささやいた「あなたはかなりばかな人だわ」/俵万智
 このうだる暑さも明日の結末もみんな銀河の微熱のせいさ /植松大雄



TOP

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -