もう無き海



 花が歩道に散乱していた。花をくるんでいたであろうセロファンが昼の雨に濡れて、路上にぴたりと貼りついている。ここで誰かが事故にあい、誰かが献花したのは明白だった。その花束が、強風でばらばらになったのだろう。
 首の折れた白いガーベラが、死人のようにひっそりとコンクリートの地面に横たわっていた。俺はそれにつと立ち止まったが、ぎゅっと口を結んで、すぐにまた歩き出した。強い風が吹いて、俺は肩にかけているエコバッグをぎゅっと持ち直す。
 花がきらい。そういう花が、複数人でしめしあわせた悪質ないたずらみたいに、一斉に咲きはじめる春もきらい。しかし、それはおれが一方的にきらってるだけで、この折れたガーベラにも、献花を向けられている人にも、花すべてにも、春にも、なんの罪もない。それが一番、いやだ。
 たとえて言うなら俺は、イエスがああ言ったとき、絶対に石を投げられない人間だ。もう、十分すぎるほど罪を犯している、と、思う。そんな俺が罪のない花を、春をきらうなど、とても馬鹿な話だった。それでもきらってしまうほどに、俺は、馬鹿。
「蒼」
 ぎゅっと奥歯を噛んでいるうちに、いつのまにか館の門の前まで来ていた。館のレンガの塀にもたれて、幼馴染のキリネが立っていて、俺は瞬きをする。
「どうしたんだよ」
「いや、今日の買い出し、すげえ重いだろうなって」
「ああ……まあ、別に」
 俺は強がって(別に、今ここまで持って帰れているのだから、強がってと表現するのは気に食わないが)、ふい、と斜め下を向いた。すると、左手に持っていた花束が視界に入った。花束の存在を隠すように花をくるんでいる新聞紙から、カスミソウがちろちろとのぞいて揺れる。キリネもそれに気づいたらしく、俺の左手を指さしながら言った。
「なんで花買ったんだよ」
「……なんとなく、飾ろっかな?的な」
 俺が苦笑いしてごまかすと、そ、とキリネは肩を竦めた。
「まあ、貸しな」
 ひょい、と、キリネにエコバッグを取られた。俺はなんだか不服だったが、肩がそこそこつらかったのは事実だったので、何も言わずに両腕で花束を抱えた。
「あ、今、クララは何してる?」
 クララというのは、キリネと俺の共通の幼馴染である。昔からよく三人で遊んでいたし、今も色々あって同じこの館に住んでいるのだ。
「あー……、わかんない」
 ごめん、と眉を下げるキリネに、そっか、と俺は返事しながら、玄関のドアを開けた。
 俺が買い出しに行く前よりも、廊下の窓枠の影はずいぶん長く伸びていた。買い出しのすべてをキリネに引き渡してしまった俺は、ひとり、花束を抱えながら、花を飾ることのできるスペースを探しはじめた。
 日暮れの迫る館は、外出していたひとも戻ってきていて、幾分か賑やかだった。しかし、花束を持っているのをなんとなくあまり見られたくない俺は、ひっそりした館の西側階段を上った。階段を上って右手に、大きな出窓のある談話スペースがある。あの出窓の部分に飾ろう。一段一段、上る度に、黄色いバラの花びらの重なりがさわ、と静かに音を立てる。ああ、花束を飾るというのに、花瓶を忘れた。置いておいて、後で取りに行けばいいか。
 上りきってすぐ右を向くと、その出窓のところで、クララが外を眺めているのを見つけた。組んだ腕を出窓の手前のスペースにもたげ、山々の向こうに落ちる日に顔を照らされてながら、ただただ遠くを見ていた。いよいよ、というかなんというか、日が落ちたらもうそこにはクララがいなくなるような気がなぜかした。俺は花束を持つ左手をきゅ、と強くして、クララの真横に立つ。
「何してんの」
「うーんと、物思い」
 俺の声にぱち、と瞬きをして、クララはゆるりと振り向いた。クララが物思いにふけることは大して珍しいことではなかった。むしろ、ぼーっとしているクララに「何してんの」と声をかけたら、「なんでもないよ」か「物思いしてただけ」以外の返答はそう返ってこない。クララはいつも何か考えているらしかった。でも、何か考えたことを本当に実行したかまでは、俺らはわからなかった。知る由もない。そういうときのクララは、何を考えているのかをほとんど明かさないから。――まあでも、それは俺も、キリネも、同じか。でも、昔のクララは、あんな風にセンチメンタルな横顔を見せることがなかったのは事実だ。
「クララってさ、いつから大人びたっけ」
「蒼も、いつからツンデレこじらせちゃっけ?」
 くすくす、とクララは笑った。俺はというと、質問をはぐらかされたようで、ちょっと嫌だった。「忘れた」
「僕は、いつからこんなんなっちゃったか、思い出せるよ」
 俺ははっと息を飲んだ。「こんなん、って?」
「うーん、こんなんはこんなん」
 こんなん、とクララは自身の細い肩を叩いた。
「どうしてそんなんなった」
「えー、まあ、僕のせいなんだけどね」
 はは、と、明るいようで、ぺらぺらなクララの笑い声が、ふたりしか人のいない談話スペースに響く。うまく笑えないひと、みたいな笑い声だった。俺は、なんとなく、“そんなん”になったのがクララのせいには思えなかった。百歩譲ってクララのせいだとして、幼い頃からクララと関わってきた俺、それからキリネも、現在のクララの一部を作っていることになる。だから、――。
「それで、花、どうしたの」
 クララの声に、俺は考えるのをやめた。ああ、と俺は出窓にふわりと花束を置いた。
「ここに飾ろうと思って」
 そうなんだあ、とクララはバラの花びらの先にそっと触れた。窓からの夕日が、黄色いバラにうまく溶け込んで、深い陰影を作っている。そういう風に、太陽とこのバラは一体となっていた。俺みたいな馬鹿が、いつからクララの人生に入り込んでしまったんだろう。どうして、クララはさっき、うまく笑ってくれなかったんだろう。
 「そういえばさ」クララは明るい声で切り出した。明るい声、というか、猫なで声、みたいだった。というか、クララの本当の明るい声は、もう何年も聞いたことがなかったような気がする。「僕が死んだら、お墓はなくていいから、海に散骨してほしいんだよね。お墓に毎年お花持ってきてくれなくてもいいし」
 肺が凍る心地がした。眉が歪んだまま固まった。へら、とごまかすように笑うクララの顔を見ながら、俺は口を薄く開けたり閉じたりした後、やっとのことで、小さな声で尋ねた。
「――それ、本気?」
「さあ、どうでしょ、――」
 へらり、曖昧にクララが片手を振った。その瞬間、ぺちん!と乾いた音が部屋に響いた。俺の手にさあっと痛みが広がる。俺は、クララの頬を叩いていた。
「ねぼけたこと言ってんじゃねえよ」
 クララははっと目を見開いた、ようだった。俺の目は知らずのうちに潤んでいて、どういう表情だったか、はっきりとはわからなかった。
 いつのまにか、殴り合い、つかみ合い、みたいになってた。といっても、俺はへろへろで、ろくに拳は当たらなかった。当たってもへなへなのパンチだった。殴ってやる、と思っても、クララに当たる直前に、当てようという意識がどっかに行ってしまう。そんなパンチなのに、クララはあまり避けようとしなかった。払いのけることはなく、前腕でただただ受けている。
 一発だけ、クララの右肩に入った。クララは倒れた。クララの顔は歪んでいた。痛そうだった。俺はクララに馬乗りになって、胸ぐらを掴んで、歯を食いしばりながら叫んだ。
「馬鹿野郎」
 俺の息は荒くて、頬は紅潮していたと思う。でも、クララの顔は、いつものように、青白い。
「――ごめん」
 はは、とクララは笑った。なんで笑うんだよ。なんでそんなふうに、ちょっと口の端を歪めて笑って、なんでごめんとか言っちゃうんだよ。なんもお前、悪くないだろ、俺が、俺らがそんなんにしちゃったのに――。
「ばかやろう」
 ううう、と、喉の奥から唸りがこみ上げてくる。だんだんと俺の手から力が抜けて、クララの服が手のひらからするする滑り落ちた。
「僕は、馬鹿だよ」
 ゆっくりと、クララは言葉を噛みしめて、微笑んだ。知ってるでしょ、って、言うみたいに。その微笑みは、俺の視界によく滲んで、溶け込んで、俺はそのままべちょべちょに泣いた。

 その後、たまたま通りかかったキリネが俺をクララから引きはがした。「何やってんだよ」とめずらしく怒りのこもった声で言われたが、俺もクララも、「別に」と目をそらすだけだった。
 俺に顔を平手打ちされ、(へっぽこの)右ストレートをくらったクララだが、いつものようにすっくり立って、「ちょっと、夕方の手紙見てくるね」なんて言って去ってしまった。今度は、俺とキリネが談話スペースにふたりになった。
「なあ、覚えてるか」
 話を切り出したのは、キリネだった。キリネの太陽みたいな色の瞳は、まっすぐ山々を見つめていた。俺は俯く。
「……何を」
「クララがピアノ習ってた頃、発表会で、俺らで花束渡したときのこと」
「……覚えてるけど」
 ああ、そんなことが、あった。春休みに、クララの通っていたピアノ教室が、近所のホールで発表会を開いたんだ。演奏が終わって、舞台裏から出てきたクララに、俺たちがお年玉をかき集めて買った花束をふたりで渡した。音楽なんか全然わかんない俺が、もう、すごく良かった、と言うと、クララははにかんで笑った。その頃のクララの笑顔は、俺も見てて嬉しかった、ような気がする。
「あんなふうにさ、笑ってほしいよな」
 俺は何も言わなかった。いや、言えなかった。キリネの言ったことは、たしかにそうだと思った。でも、クララが“あんなふう”に笑うために俺らができることは、もう、とっくの昔に終わっていたような気が、強く、する。
「キリネ」
 俺はキリネの顔を見てみた。神に願うように。
「何」
「俺らって、馬鹿だよな」
 キリネは押し黙ったが、馬鹿な俺は勝手にこの沈黙を肯定と捉えることにして、窓の向こうへと目線をそらした。クララの骨を、俺ら三人の純粋な友愛を投げ入れることのできるような海は、もうこの世には存在しない。その事実が、オレンジの雲と一緒にこの空に横たわっていた。

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texture: Suiren様 // 水魚の葬列
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Anthology - April 2021
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