見えないしるし


「暑い!」
 メルトは暑いと言うためだけに地下室に来たのかしら。「ヴァレちゃん、暑いね」などと話しかけられたわけではないので、暑い暑いと連呼している彼女のことは放っておいていた。けれどさすがにわたしがこの本のページを3回めくるまでの時間ずっと連呼しているのには、思わず眉の間を細めたくなって、わたしは一旦、本を閉じる。ばふんとそれなりの音こそたったものの、本を閉じたことによって起きた風はわたしの鬱陶しい長い髪を撫でて申し訳程度に揺らすぐらいの微風だった。
 地下の書架はは館の北側にあって、本来はどの部屋よりもそこそこ涼しいはずなのだが、何にせよエアコンがおんぼろでうまく効いてくれないし、換気もうまくできたものではない。それゆえ夏には館で蒸し暑さ一、二を争う部屋である(ちなみに書架と優勝争いをしているのは台所。調理に火を使うことで必然的に暑くなるのだが、窓を開けると虫が入ってきてしまうので開けられない)。わざわざその暑い部屋に来て暑いと言わなくてもいいでしょう。わたしは軽く溜息をついた。溜息の方が、さっきの本を閉じたときの微風より強く髪を揺らした。
「もう暑いって言わなくてもわかったわよ、暑いって」
 思わず溜息をついてしまったわたしとは対照的に、メルトは暑いとは言いながらもなぜか口の端を上げている。いや、なぜか、というほどでもないかもしれない。彼女の取り柄は笑顔だし。思い返せば、メルトがそのロッキングチェアに座っているときはだいたいわらっている。しかし今日の彼女の笑みはなんだかいやな感じがした。いつもよりにっとしているからかしら?
「ね!ヴァレちゃんも暑いって思うよね!」
 案の定、メルトはわたしの発言に食いついてきた。わたしの向かいのロッキングチェアに座ったまま、前のめりになって。
「ということでヴァレちゃん、かき氷を食べたいとは思わない?」
 メルトのくりりとした茶色の瞳がきらめいた。書架の明かりはぼんやりとしているのに。わたしはははん、と目を細める。こうやってメルトを見つめるとメルトの意図が見えるようになる、というのは嘘だけれど、わたしはなんとなく彼女の思惑がわかった。
「そう、それで、わたしに魔法を使ってほしいと」
「さすがヴァレちゃん話が早いわね!一を聞いて十を知るとはまさにヴァレちゃんのこと――」
「おだてても駄目よ」
「ぐえ」
 うえ、とあかい舌を出しながらメルトはロッキングチェアをがくんと後ろに揺らした。ぎいと木の少し軋むような音が鳴る。近いうちにこのロッキングチェア、壊れちゃうんじゃないかしら?とちらりと頭の右上らへんで思った。そう考えながら、依然、眉の間をかたくしながら見ていた彼女の顔の頬は、心なしかいつもより赤かった。やっぱりこの部屋暑いのよ。わたしの首の後ろが髪のせいでじっとりしている。
 と、彼女は不服そうに腕を組んで頬を膨らまして言った。
「ヴァレちゃんはかき氷食べ放題でしょう?それってずるいわ」
 ずるい、ってどういうことかしら?メルトは奇抜なことを言うのが得意よね、とつくづく思う。「メルトはフォンダンショコラ食べ放題じゃない」
「そうだけどさあ、今は食べたくないから、ヴァレちゃんの力を借りるときが来たのよ」
「暑さで話が通じなくなっちゃたみたいね、あなた」
「いつものことでしょう?」
「自分で言わないで頂戴な」
 部屋がむんむんしているせいか、かわいい論争をする気力もあまりない。それはメルトも同じようで、ロッキングチェアでぷらぷらせる足の振りがだんだん大きく多くなっていく。
「かき氷を食べさしてさえくれれば、もう少し話の通じるあたしが脱皮して出てくるわ」ふんと得意げにメルトがわらう。
「メルトは虫か爬虫類か何かだったなんて初耳」わたしは目をまわした。「だいたいねえ、わたしの氷、食べれるものなの?」
「え!自分で食べたことないの?」
 彼女はぴたりと足のぷらぷらをやめた。ぱちりとした目をもっと丸くさせている。ぽんぽんフォンダンショコラを食べているメルトにとっては信じられないことだったのかも。
「なんか……いやでしょう」
 わたしはあまり言葉が見つからなくて、口を少しもごもごさせる。なんか、いや。なんで?と言われてもよくわからないけれど。わたしの魔法は端的に言えば「氷を生み出す」で終わってしまうけれど、その原理はまわりの水蒸気を凍らせているのか、わたしの体内の水分を氷として出しているのかはわたしはよく知らない。もし後者だったらなんとなくいやじゃない。自分からでてきた氷、とか。
「なんで!おいしいかもしれないじゃない!それこそ食べてみるべきよ」彼女はぱちんと手を打った。「もしかしたらチョコ味かも」
 わたしは眉の間をぴくとさせて、首を傾げた。「なぜ?」透明な氷がチョコ味だなんて、そんな。
 メルトはにやあとあかい唇を開けた。ひひ、という声が聞こえてきそう。
「だって、ヴァレちゃんの氷からあたしの味したら、おもしろくない?」
 それを聞いて、わたしは首が凍った、気がした。さっきまであんなに蒸し暑かったのに。氷からメルトの味?なんでそんなばかげた――と、思ったけれど、なんだか笑い飛ばせなかった。もしかしたらするかもしれない、なんて、わたし、心のどこで思ったの?
 さっきまでのじわじわとした額の汗は吹き飛んで、冷や汗がでた。なるべく声色を変えないように、わたしは膝元の本を開きながら言う。
「――おもしろくないわね」
「そうかなあ」
 メルトはちぇ、と肩を竦めた。わたしは活字を目で追いなおそうと、先ほどまで読んでいたページを探した。が、中々見つからない。栞を挟み忘れたのは完全なる失態。なぜか指がページをうまくめくれない。
「でもさ」
 彼女が口を開いたので、わたしは皿にしていた目をあげた。「……でも?」
 メルトはぎい、とロッキングチェアの重心を前に移動させた。小さな丸いテーブルを挟んで、わたしたち、少しだけ距離が近くなる。あでやかな彼女の唇が、動いた。
「いいじゃない、ヴァレちゃんはメルトの!ってしるしみたいで」
 ふふふ!メルトは不適な笑みを浮かべた。その笑顔に、わたしは溜息をついた。呆れたのもあったけれど、そう彼女が考えていたのはなんだかかわいく思えてしまったのだ、不覚にも。わたしのその息は、チョコレートみたいな色をしたわたしの髪を揺らした。

※このおはなしは、2020年5月に8p本ネップリにしたものです。ふと思い出したのでWeb再録という形でこちらに掲示しました。印刷してくださった方、ありがとうございました!飴玉より。

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