ちがういろ


 いつからだろうか。ピアノの音色を聞くと思わず足を止めてしまう。住宅街の一角から微かに漏れて聞こえるモーツアルト、リビングのテレビでアイススケーターのジャンプが決まった拍手と共に流れたリスト、主がよく好み書斎でもかかっているドビュッシー、館の廊下を歩くとどこからか聞こえるショパン。いつもは気にかけなかったただの音が、いつしか音楽となる。言葉はその意味する概念が話者の中になければ言葉としての役割を果たさないのと似ている。
 今、彼女――ロゼは駅前の自由に解放されたグランドピアノの椅子に座り、鍵盤に手を乗せた。彼女が指で叩いた鍵盤は、その奥にあるハンマーを動かし弦を下から打つ。弦の振動は弦を支えている駒を介して響板に伝わり、響板の震えが空気を振動させる。その響きをピアニストは操り、自分の頭で思い描いた音を再現しようとする。
 軒を滴る雫の軽やかさ。どよんとした薄黒い雲の、のろのろ進んだり急に早くなったりする流れ。雲の隙間から差すきらきらした一筋の日光。彼女の弾く音はそう聞こえる。おれは黙って彼女の横で演奏を聞いている。駅の改札を忙しそうに通る人、誰かを待っているのか壁に背もたれている人、手を繋いで一階への階段を降りる家族、ちらりとこちらを見やりながら携帯電話機を耳に当てて歩いていく人。その人達にこの演奏はどう聞こえているのか、そもそも耳に届いているのか。それはおれにはわからない。ただ、なんとなく、この演奏をおれの他にも聞いている人がいればいいなと思った。
 和音がふたつほど駅前に響いて、演奏は終わった。彼女は満足そうな笑みを浮かべている。おれはぱちぱち、と拍手をした。
「急に弾きたいだなんて言い出してすみません。でも、弾いたことのないピアノを弾くのはいいですね、新鮮で」
 いつもは無口な彼女だが、ピアノのことになると多弁になる。すみれ色のふわりとした髪を耳にかけると、彼女はピアノの椅子から腰をあげた。
「ウェルさんも弾かないんですか?ピアニストはピアノを選べませんから、いつもと違うピアノを弾いてみるのはいいことだと思いますよ」
 おれは彼女からピアノを習う身である。習い始めたのはほんの1年前だが、ピアノが館の一室という身近なところにありいつでも練習できたのと、もっともっと小さい頃に初歩の初歩は習わされていたこともあり、習って1年とはいえ自分でもそこそこは弾けるようになってきた、と思う。口数少ない彼女から上達を褒められるのが嬉しくて、いや、お世辞だとわかっているけど、練習するのが好きになった。しかし、こんな駅前の公共の場で演奏できるほどの代物ではない。おれはきゅ、と口を結んだ。
「いや、――おれはいい」
 おれがそう言うと、ロゼは口角を少し下げて曖昧に笑い、え、というような顔をした。でもすぐに彼女は口を噤んで、また笑った。
「……じゃあ、またここに来たら今度はウェルさんが弾いてくださいね」
 おれは目を伏せた。返事はしなかった。いつ、こういうところで弾けるようになれるかなと思った。いつ、彼女みたいに弾けるようになれるかなと思った。
「早く帰るぞ、牛乳や野菜が心配だ」
 今日、電車に乗って一駅となりのこの辺りまで来たのは今日の夕飯の買い物をするためだ。おれは床に置いていたエコバックを肩にかけると、なるべくロゼとは目を合わせないようにして改札の方へ歩き出した。
「そうです、ね」
 彼女の小さい返事が背後から聞こえた。

 最近、日が沈むのがだんだん早くなってきている。電車の窓から見える空にはもうオレンジ色の膜がかかりだしていた。座席に座っているおれの足の間にあるエコバックも、偶然にもオレンジ色。とはいえまだ車内に帰り途中の学生や会社員の姿はなく、席はがらがら。がたんごとん、とゆったりと列車は進む。住宅が、畑が、遠くの山が車窓から見えた。おれは自分の手元に目線を落とした。
「ピアノ、弾かないんですか――誰かの前で」
 ふと、そんなことを隣に座っていたロゼが言ったので、おれは顔を上げた。口を開きかけて、やめた。無意識に指をぎゅっと組んで俯く。
「……うまく弾けない」
 気づくとそう零していた。弾けない。思い通りに弾けない。頭の中で流れている理想のメロディと、自分で弾いたときの音の違い。彼女の弾く音と自分の弾く音の違い。弾けないのだ。人に見せられるようには弾けない。
「わたしだって、完璧に弾けませんよ」
 おれは思わず彼女の横顔を見た。ヴァイオレットの瞳はまっすぐ前を見ている。うすい唇の端が上がった。
「でも、弾いてて楽しいならいいじゃないですか。人が聞いてくれて、聞いてくれた人も楽しくなったら」
 背後の窓からの光でできるロゼと自分の影はひどく長く見えた。おれはそっと目を閉じた。
「いつか館で発表会、しましょうね」
 おれは目を瞑ったままだったが、彼女が屈託なく微笑んでいる姿がありありと瞼の裏に見えた。おれもそんな風になれたらいいなと思った。車内にアナウンスが流れ、電車はだんだんと速度を落とし、がたんごとんという音もがったん、ごっとん、ともったいぶった感じになる。おれはエコバックの持ち手を掴んで立ち上がった。
「発表会をするなら、ドヴォルザークの夜の道がいい」
「いいですね」
 おれは電車を右足から降りた。ロゼは左足から、降りた。ぴいいっと笛がなると、電車はホームに風を残して去っていった。おれは肩にかけたかばんの持ち手をきゅ、と握った。

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