Silver spoon wars
ふしぎなお茶会、きらめく銀の匙

TOP




 ___あの時の感触を、まだ忘れられないでいる。

 目覚ましもかけないで、自然に目が覚めた。午前2時30分。自分の手のひらを眺めると、微かに指先が震えている。涙が一筋頬を伝って、自分が泣いていたことに気づいた。またあの夢を見たのだ。
 なんだか気分が悪かった。別に珍しいことではない。何か水でも飲もうと、冷蔵庫にあったミネラルウォーターをコップに注ぐ。注がれた衝撃で水面が揺れた。そこに映っていたのは____、
「 雛伊ッ!!?! 」
 慌てて天井を見上げる。そこには暗闇があるだけで、どこを探しても彼女の姿はない。もう一度コップを見つめる。また、手が震えていた。そこに映っていたのは、たしかに彼女だった。


 一ヶ月ほど前、オレたちは、二人で崖の上から飛び降りようとしていた。所謂心中というやつだった。崖については、よく火曜サスペンスに出てくるようなアレを想像してもらって差し支えない。下に海とゴツゴツとした黒い岩が並んでいて、周りに人気もなく、まさに絶好の心中スポットで…少し話が逸れたが、まあとにかく、オレと雛伊はあそこから飛ぶ予定だった。

 心中と言ったら、ふたり手を繋いで一緒に__というのがセオリーなような気がするが、彼女はそれを望まなかった。「わたくしを、ここから突き落としてほしいの」確かに、そう言ったのだ。
 そこでどういう会話をしたのかは覚えていないが、結論から言うと、オレは結局彼女を突き落とした。彼女の言う通りにしたのだ。夕日がほぼ落ちかけたとき、そろそろね、と彼女が言った。崖の淵に彼女が立って、その後ろにオレが立った。彼女はオレのピアスを握りしめていたいと言ったから、片方だけ渡した。彼女はそれを大切そうに握りしめると、最期に一度こちらを振り返った。涼しげな目元、赤い唇。その表情は今までみた彼女のどんなものよりも妖艶で、美しいものだった。
 どん、と彼女の背中を押した。彼女は足を踏み外して、崖の下へ落ちていく。暫くして、鈍い音がした。彼女は一言も叫ばなかった。
 本当なら、彼女の後を追ってオレも飛び降りるのだが、いざ飛び降りようとすると、足がすくんで動かない。オレは、結局彼女の後を追うことができなかった。

 彼女を愛していなかったわけではない。ただ、オレにはそれができなかった。彼女を殺すことはできたのに、自分は死ねないだなんておかしな話だ。でも、崖の下、波打ち際、海水に濡れた黒い岩。その上で血を流す雛伊を見下ろした途端、オレの足は自然に引き返していた。どうやって帰ったかは覚えていない。だが、彼女を突き落とした時の手のひらの感触と、微かな潮風の匂いだけは、今もやけに鮮明に覚えている。


 5分くらい経って、ようやくコップの水を全て飲み干した。喉の渇きは治らないである。
 あれから、オレは彼女の幽霊を見るようになった。なにもずっとそこに憑いているわけではい。今のように、本当にふとした時に出てくるのだ。まあでも、たまに水面に映るくらいならまだいい。問題なのは、毎晩のように彼女の夢を見てしまうことだ。行きつけの喫茶店、二人で行った夏祭り、彼女と過ごした何気ない日常が、見せつけるようにオレの前に現れる。だけれど、ラストは決まって崖の上の出来事に繋がるのだ。夢の中で、オレは何回彼女を殺したのだろう。全部夢だったような気さえしてくる。これは、彼女なりのオレに対する復讐なのだろうか。崖の上、彼女を追って飛ぶこともせず、背を向けたオレへの___。
 ふと、ピアスのことを思い出した。片方は彼女に渡したが、もう片方はどこにやっただろうか。

-----
 
 それから三日後、オレはまたあの崖にいた。左手に、棚の中から探し出したもう片方のピアスを握りしめて、あの時と同じ格好で。相変わらずここでは潮風の匂いと波の音がする。彼女はまだこの下にいるのだろうか。確認するような勇気はない。
 オレはまた自分の手のひらを見つめた。震えている。あの時もそうだった。最期に一度振り返った彼女の顔を思い出す。雛伊、と口の中でつぶやいてみる。
 
 オレはふっと息を息を吐くと、全ての力を込めてピアスを海に向かって投げた。一瞬、金属の部分に反射してきらりと光る。ぽちゃん、と落ちた音は波の音にかき消されて聞こえなかった。彼女を押した時よりも、なんだかずっとずっと重い気がした。
 彼女はもう二度と、オレの前に現れることはなかった。




TOP

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -