水槽



 昔行った、水族館のことを思い出した。大きな水族館だった。本館も広かったが、別館もあった。そこにはクラゲだらけの水槽がいくつもあった。一番小さい水槽はU字型をしていた。自ら遊泳するのが難しいクラゲが、水の流れに乗りやすいようにその形になっているらしい。高さが床から天井まである大きな水槽では、たくさんの黄色いクラゲがところ狭しと泳いでいて、青と黄色のカーテンが揺れているようだった。ベンチが置いてあって、座りながらクラゲを眺めることができ、看板にどうぞ癒しの空間をお楽しみくださいと書いてあったのを覚えている。その時はしばらく座ってクラゲを眺めていたが、中学生くらいの団体客がやってくると、すぐに別館を出た。その後は、何を見たっけ。
 無意識にしていた拍手で、俺は現実の世界に引き戻される。ぱちぱち、ぺらぺら、熱量のない、拍手。それもそうだ、ふにゃふにゃの演奏だったから、聞き手もふにゃふにゃの拍手しかできないのだ。
「どうだった」
 ピアノを弾き終えたクララは、右隣の椅子に座っていた俺の方を振り返って感想を求めた。一番下のラの鍵盤の端が欠けている、古いアップライトピアノが置いてあるこの部屋は、館の北の方の一角で、半分物置みたいになっている。よくわからない昆虫標本や、無駄に大きい事典や文集が余分なスペースに積みあがっていた。クララはたまに、ここでピアノを弾く。グランドピアノが置いてあるピアノ部屋や、小ぎれいなアップライトピアノが置いてあるラウンジもあるが、ここが一番人気がないので、練習しやすいのだと言っていた。
「どうだったって、ピアノ内部のハンマーまで、力が伝わってなくて、打ててない感じ」
「ふにゃふにゃしてた?」
「クラゲそっくり」
 俺は立ち上がって、ピアノの譜面台に置かれている楽譜をのぞき込んだ。
「このラストの和音はもっと、鍵盤掴んで弾かないと、最後決まんないじゃん」
「こう?」
 クララがじゃんと右手で和音を弾く。
「いや、もっと、こう」
 俺は鍵盤に指を乗せて、指を押し込んだ。鍵盤の奥の芯にしっかり触れた感触があって、じゃんっ、と華やかな音が鳴る。
「ふーん」
 クララは何度も和音をじゃんと弾いた。クララは気に入らないらしくて、何回も弾いていた。しかし何回やってもふにゃりとした音色だった。しばらくすると、そのトニックコードを聞くのに飽きてきて、部屋の小さい窓から曇り空を眺めたり、明かりにふわふわ漂っている小さな埃を目で追ったり、壁にかかっていた標本の昆虫の、足の数が全部で何本あるか数えたりしていた。その間、本当にずっと、クララは和音の練習をしている。頭がおかしくなりそうなくらい、ずっと、和音だけ。
「別に、ピアノなんて弾けなくていいじゃん。音楽が無くても生きていけるんだし」
 つい、口が滑る。椅子に座っているクララは、俺を見上げた。
「弾ける人に言われたくないよ」
 はは、と、クララは小さく笑って俯いた。金髪が肩と首筋を撫でて、顔の方に零れる。沈黙が流れる。その細すぎる肩を抱きしめたらどうなるのだろう。骨が折れてしまうのか、それとも芯がなくてぐにゃぐにゃに曲がってしまうのか、何かに触れたような触れていないような、そんな奇妙な感覚を残して跡形もなく溶けてしまうのか。
 俺は俯いているクララの肩に左手を伸ばした。人差し指から小指までの、四本の指の先が触れた。触れることができて少し驚く。いや、これまでクララの実体がここに在ることを目で確認はしてきたのだが、いざ触覚で認識すると、息が詰まった。クララには骨の感触があった。肉に骨が内在している感触。ピアノを弾く感触とそっくりの。
 驚いたのはクララも同じで、何、と怪訝そうに顔を上げる。俺は手を肩から下ろした。
「猫背気味だから、うまく鍵盤に力伝わってないんじゃね」
「あー」
 クララは背筋をしゃんと伸ばした。俺はクララの指を眺めた。華奢なのに、関節が太めで、今までどれだけピアノを弾いてきたのかが分かる。俺は自分の、いや、借りものの手を組んでみて、指のごつごつした骨の芯を確かめる。
「もう一回聞きたい、頭から」
 クララはまた、ふにゃふにゃの演奏をした。俺は、ピアノ椅子に座るクララを抱きしめたらどろりと溶けてしまって、その直後からまた新たな、クララのいない平穏な生活をおくるという想像をした。別に、クララがいなくたって、どこへだって泳いで行けるのだが、クララの色の薄すぎる金髪や、へらへらした笑い方や、関節だけが少し太い指を、生活の中でたまに思い出すのだろう。
 演奏が終わって、俺はまた、ぺちぺちした音の拍手をした。水族館で見た黄色いクラゲも、クララの髪くらいのペールイエローだったな、と思い出しながら。

texture: まともさを売りにするなんて狡いね/ Garnet様

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