チュベローズ


「ちょっと待って」
 私は言った。クミが、出かける支度の最後の仕上げに、香水を一振りしようとしているところだった。
「今から行くところは食べ物を食べるところなんだから、香水はよした方がいいんじゃないの。その香水、強めでしょ」
「ええ、クミの好きなものなのに」クミは眉を寄せて、頬を膨らませた。「でもあなたがそう言うなら、やめておくわ」
 クミの部屋と私の部屋は同じ大きさ――というか、館の人間は皆同じ大きさの部屋に住んでいるのだけれど、クミの部屋はなんだか狭い気がする。というのも、天蓋のついたキングサイズベッドをでかでかと部屋に配置しているのだ。クミはいい歳して私と一緒でないと寝たがらず、自分の部屋のスペースを犠牲にしてまで持ち込んだ大きなベッドに私を連れ込み、私の横で毎晩夢を見ているのである。おかげで私の部屋はベッドを置く必要がなく広々としているのだが、しょっちゅうクミがくつろぎにくるので、大方二部屋に二人で住んでいるようなものである。
 このベッドのせいで、クミの部屋にはあとはクローゼットとドレッサーしか置かれていない。いつもセーラー服しか着ないのに、クミは変に衣装持ちで――曰く、ここぞという勝負服はいくらあっても良いでしょう、手数は多ければ多い方が良いのよとのことで――クローゼットも立派な出で立ちだ。クミは今、ドレッサーの前の椅子に腰掛けて、香水のボトルを引き出しにしまっていた。
「ねえ、ヘアミストは? ヘアミストは許容範囲よね?」
「もう、好きにすれば」
「ヘアミスト……そういえば二種類あるわ。ねえ、どっちがいいと思う?」
 ええ……と私は苦い顔をした。
「選びなさい」
 クミが脚を組むと、膝より少し長い丈のワンピースの裾からすらりと白い脚が覗く。クミは今日はいつものセーラー服ではなくて、ピンクのチェックのワンピースを着ていた。袖がボリューミーに膨らんでいる。私もいつもと違う服を着た。クミがクミのクローゼットの中から自ら選んで貸してくれた、イエローのツイードのセットアップである。もともと私は、自分の白いブラウスと黒いスカートを履いていたのだが、似合ってるけど、せっかくなのだからもっと華やかなのを着ましょうよ、と、クミにスカートを履き替えさせられ、白いブラウスの上からこのジャケットを羽織らされた。まあ、クミが満足していた様子なので、それならいいかなと思う。
 一応、クミの方が立場や身分は上なのだ。たまに命令口調を使ってふんぞり返ろうとするのだけれど、ちょっと澄まして結んでみた赤い唇や、丸い顔がやや幼げなので、権力を振りかざしているようにはどうも見えない。私はくすりと笑った。何がおかしいの、とクミはじとりと私を睨んだ。
「アップルの香りの方にしたら」
「いや……今日は杏の気分ね」
「なんなの」
「どっちのヘアミストも好きって話」
 私は呆れて、ひとつだけため息をついた。

 クミと私は、普通の女の子のふりをして暮らしている。世の中の女の子も、大抵そうやって普通であろうとするように。たとえば、大切な思い出を持っている。たとえば、大切なものを失ったことがある。たとえば、大切なものを持っていたり、失ったりしたことを、他の人には見えないように大事に隠して、日常を送っている。
 だから、本当はお付きの車と運転手でもいればいいのだけど、普通の女の子である私たちは、館から健気にバスに乗って、真面目に電車に乗って、目的の街まで繰り出す。
 公共の乗り物では、もちろん、ふたりとも黙って座っていた。隣のクミの赤い髪から、ほのかに甘いリンゴのにおいがする。初恋、と私は思う。初恋、島崎藤村。
 車窓を眺めながら、故郷の固有の赤い花を思い出した。クミの家は土地が広くて、家の近くの山をまるごと持っていた。その山の、整備された道を外れて、けもの道のような道なき道を行くと、夏に赤い花を咲かせる木があった。その花を口にくわえると甘い蜜が出てくるので、子どもたちには人気の花だったのだけれど、あの山のあそこに咲いているのを知っていたのは、クミとその友人だけだった。初恋、に出てくるようにリンゴの木ではないが、私とクミはよくあの木へひっそりと遊びに行ったものである。
 目的地の駅はそう大きくなかったが、閑古鳥が鳴いているわけでもなく、ほどよい静けさだった。クミが行きたいと言っていたカフェは、歩道のない裏道にあった。時折、軽自動車が通りすぎる。白塗りの壁に、大きな窓があって、店内の様子がよく見える。ドアの外に黒板がひとつ自立していて、ケーキの写真が貼られていた。
「イチジクのタルトだって。おいしそう」
「とりあえず入りましょう」
 ドアも白いペンキで塗られていて、開けるとドアチャイムがちゃらちゃらと鳴る。四人掛けのテーブルに通されて、荷物をバスケットに入れて、メニューを見る。私はさっき見たイチジクのタルトがおいしそうだったから、あまり深く読み込まずに、決めた、と呟く。
「何にしたの?」
「イチジクの」
「ふうん。クミ、キャロットケーキが気になるのよね。好きなの」
「そうなの?」
 私は驚いた。クミはメニューのキャロットケーキと書いてあるところを指でなぞる。
「食べたことはないの。語感が好きなのよ。きっとおいしい」
「嘘だよ、食べたことあるよ。昔、私がせっかく作ったのに、まずいって。にんじんが嫌いになったって言って、しばらくにんじん避けてた」
 いつかの秋、キャロットケーキのレシピを私が見つけて作って、クミに振舞ったことがあるけれど、あれはすりおろしたにんじんの水分でうまくいかなかった。若干べちゃっとしていて、失敗した気はするけど食べれないことはないなあ、と思ったが、クミは一口食べたきり手をつけなかった。にんじんがかわいそうなので、頑張って私が食べきった。
「あら、そうなの? 何年前だったかしら」
「んー……十二年前?」
「十二年後のわたしからあなたに、ごめんねとありがとうと、これから頼むケーキの一口を贈るわ」
「干支一周してまで、別にいい――それで、何頼むの?」
「キャロットケーキと、紅茶」
 すみません、と私は店員を呼んで、二人分の紅茶と、キャロットケーキと、イチジクのタルトを注文する。店員が注文を復唱して、去る。私は故郷の赤い花の話をした。あの花、この辺りじゃ見ないから、懐かしいわ、とクミが言う。この辺りではツツジの蜜を吸うのでしょう。そうなんだ。あのピンクっていうか、赤っていうか、あの花でしょ、ツツジって。館の庭に咲いてるかしら。咲いてても、秋だから今は吸えないよ。春に咲くの? たぶん。
「ねえ」クミは頬杖をついた。「あたしたち、あと何回春が来ると思う?」
「毎日が春みたいなものじゃん」
「永遠の少女だから?」
「そうだよ」
 クミがくすっと笑った。言ってから自分で恥ずかしくなって、たぶん私は耳が赤かった。でも本当にそうだよ、春の次も春、永遠の春、私はクミに一生を捧げるのだから。
 店員が現れて、私の前にイチジクのタルトを、クミの前にキャロットケーキを置いて、ティーセットをふたりの間に置いた。私が二つのティーカップに注いでやると、ありがとう、とクミは優雅な仕草で紅茶を飲む。私はクミが紅茶を飲むところを見るのが好きだ。紅茶によって、何年も前から変わらない、クミの品のある雰囲気が完成する。かつては麗しい姫だった、ということを感じさせる。今もその事実は変わっていないといえばそうなのだが、あの頃の広い家も、その裏の山も、赤い花ももうなくて、故郷ではない土地の、こじんまりしたカフェでお茶をする、今の私たちはそういう女の子だ。
「はい、キャロットケーキ。食べて」
 イチジクのタルトに手を付けようとしていたところ、クミはキャロットケーキの乗った皿を私に差し出した。
「え、いいって言ったのに」
「食べて」
 たまに変なところが強情なのは、前から変わらないな、と思いながら、しぶしぶキャロットケーキにフォークを入れて一口食べる。売り物だから当たり前なのだけれど、おいしい。にんじんの甘味が良い感じで、あのべちゃっとした自分のケーキを思い出して、なんだか悔しい。
「おいしい」
「ね。こんな感じのキャロットケーキ、今度作って頂戴よ」
 わかった、と私は返事して、紅茶をすすった。

 カフェを出た。クミはせっかくだから迷子になりたいと言った。知らない土地で迷子になるのがクミの趣味で、クミは私が必ずもといた場所まで導いてくれるだろうと思っている。そういうところは、私をべらぼうに信じている。だから、こっちはなんとか、さっき通ってきた道の目印を覚えたり、どちらの方角から来たかずっと頭に入れておいたりするのだけれど、そんな苦労などお構いなしに、クミは路地を駆け回る。見て、イチョウが真っ黄色よ、とか、あの緑の屋根の家かわいいわね、とか、あんなところに雑貨屋さんが、とか言いながら。そうして、たまに人とすれ違う。今の私たちはクミの勝負服を着ていて、大通りを歩いていそうなのに、こんなところにいるから、変な目で見られる。あたしたちがかわいいからよ、とクミは言う。はあ、と私は言った。
「すっかり、どこに来たかわからなくなっちゃったわ」
「たぶん、あっちの方に行けば駅じゃない」
「さすがね」
 クミの気が済んで、私たちは駅に無事たどり着き、帰路につく。電車は空いていたので、ふたりとも座れた。歩き疲れたクミが、私の肩に頭を預けて眠る。重いから、一回真っすぐに戻してやったけど、またよっかかってくるので、諦めた。リンゴのにおいがする髪を、撫でてやる。
 降りる駅で起こしたときは、眠そうで仏頂面だったけれど、館まで歩くうちに、彼女はすっかり上機嫌になった。クミの部屋に着くなり、彼女はワンピースのままベッドに飛び込む。ちょっと、着替えてからにしなよ、と、私はベッドからクミを引きはがす。しぶしぶ、クミはいつものセーラー服に着替える。私も着慣れない借り物の服を脱ぎ、いつものワンピースを着る。お出かけもいいけれど、この服が落ち着くのは事実だ。
 疲れて座りたかったけれど、この狭い部屋に椅子という概念はドレッサーの椅子以外に存在しないので、ベッドに腰掛ける。クミはドレッサーの椅子に座った。
「ねえ、あの出かける前につけようとしてた香水、試してみてもいい?」
「まあ。ちょっと窓開けた方がいい?」
「そうね」
 私は窓を開けてやった。秋風が入り込む。その間にクミは香水を空中にワンプッシュして、その空気の中を歩いて通った。わたしがもう一度ベッドに腰掛けると、彼女も隣に腰掛けた。リンゴよりも輪郭のある、華やかな甘いにおいがする。
「これ、チュベローズの香りなの」
「いいにおい」
「好き?」
 じ、とこちらに顔をしっかりと向けて彼女が聞いてきた。香水のことを聞かれている、と思ったから、普通に感想を述べる。「好き」
 と、クミがにゅっと両腕を伸ばして、私の首に回し、私を抱きしめた。彼女が喋るために息を吸う音が耳元でよく聞こえる。
「あたしも好きよ」
 たやすくそんなことを言ってからかうように、この人の面倒を見てきたつもりはないんだけどな。クミが、あざやかな赤の髪を私の肩に押し付けて、より一層チュベローズが濃く香る。やっぱり、この香水をつけて外出してくれなくて良かった、と思った。きっとみんな、振り返る。薬のようで、毒だ。私は彼女の肩を抱いて、クミの体を自分から離した。私たちは見つめ合った。クミが少し口を開けて笑った。綺麗に生えそろった上の歯と下の歯の間から、赤い舌が覗いている。その口をそっと唇で塞いだ。顔を離すと、彼女の目がぱちりと開かれて、その瞳に私が映った。
「……私も、」
「知ってる」
 クミは微笑んだ。チュベローズの香りをふんだんに纏いながら、思い出の中の赤い花が咲くように。
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