赤鼻のトナカイ




〇第一幕
岡江頼朝は、ナントカ駅前のとあるカフェにいた。全国チェーンの、ごくありふれたカフェである。日にちは師走の二十四日、時刻は十六時ごろ。岡江頼朝は十一時ごろに家を出発し、妹へのクリスマスプレゼントを選ぼうとしばらく周辺をウロウロとし、ようやく良さげなものにありつけたため、遅めの昼食をとろうとこのカフェに落ち着いたのである。
 世間は知らないが、今日は岡江頼朝にとって休日だった。働いている洗濯屋が、今日は店休日だったためだ。店休日、と口の中で転がしてみる。初めて店休日という言葉を聞いた時、「それは、テンキュー日ってことですか」と聞き返したら、洗濯屋のおばちゃんが「そうよ、休みには感謝しなくちゃ」と言ってのけたのを思い出す。しゃべった後に自分でまたひとしきり笑うのが、あのおばちゃんの癖である。岡江頼朝はそれから、その職場のことが、好きになった。

 そういえば、今日は本でも読もうかと思ったのだ。岡江頼朝に読書の趣味はなかった。それどころか、活字はニガテな方である。じっと座って文字ばかりみていると、そのままどんどん吸い込まれて、身体ごと文章の中へめり込んでしまうような気がするのだ。それがどうも、車に酔うような心地がして好きではなかった。
 案の定、三十頁ほど読んだところで目がしぱしぱしてきて、困憊(こんぱい)した岡江頼朝はただボンヤリと窓の外を見つめた。空は厚い雲で覆われ、それなのになぜかまぶしかった。岡江頼朝は晴れている日が好きで、曇っている日のことはキライだ。雨が降っているならまだしも、こういった日に洗濯物が乾くのかはあいまいで、気持ちの良いものではない。岡江頼朝は面倒な作業は一切やりたくない性分なのだが、なんでか洗濯だけは、とっても好きなのである。
 岡江頼朝は、年末のことと、それから年始のことを思った。一年がやっと終わったと思えば、またすぐ次の一年が始まるのが、岡江頼朝にはとても忙しなく思えた。みんな岡江頼朝のようにのんびり生きられたらいいのに。今日から年末にかけて、かなり冷え込むらしい。暖かい服を着ないと。しかし、クローゼットの中を思い出しても、岡江頼朝はしっかりしたコートを持っていなかった。自宅から職場まではそう遠くもないし、寒ければ家にこもっていればいいのだ。岡江頼朝は、サンドイッチを一口齧った。そういえば、すき焼きが食べたい。

 岡江頼朝はスマートフォンに有線イヤホンを繋いだ。岡江頼朝は読書のことなどとうに忘れ、音楽を聴こうとしたのだった。岡江頼朝は有線イヤホン以外信じていなかった。繋がっていないものはなくなってしまうからだ。
 音楽アプリを起動させる。再生ボタンを押して、目を閉じる。曲のタイトルは、『東京』だ。『東京』というタイトルの曲なんていくらでもある!その書き方では、岡江頼朝の聴いている『東京』がどの『東京』かわからないではないか!
と憤慨する読者もいるかもしれないが、そう怒らないでいただきたい。岡江頼朝の実態は非常にミステリアスなのだから、むしろ、岡江頼朝の聴いている曲が『東京』とわかっただけでも、感謝してもらいたいくらいである。兎に角、岡江頼朝はその時、『東京』を聴いていた。

 『東京』もいよいよ終盤といったところで、岡江頼朝のスマホがプルプルと振動した。電話掛かってきたのだ。岡江頼朝はしばし迷った。カフェで電話に出るというのは、マナー的観点からして、いかがなものか。結果的に、岡江頼朝は、心なしかその大きな背中をすぼめるようにして通話ボタンを、押した。電話の主は一方的に喋り、岡江頼朝がなにか言葉めいたものを発するより先に、通話が終わる。岡江頼朝はひとつ息を吐いて、サンドイッチの残りを平らげる。そしてよれた茶色いコートを被って、思い出したように文庫本を手に取り、駅前のカフェを後にする。


〇第二幕
今年は学校行事の振り替え休日がまわされたり、インフルで学級閉鎖になったりして、例年よりも長い冬休みだった。僕の通っているような公立高校では、だいたいクリスマスの日も登校しなくてはならず、クリスチャンでもないのに残念な思いに駆られるのだが、今年はめいっぱいゆっくり過ごせそうだ。クリスマスイブまではあと二日もある。僕とは違って、ナントカ駅の向こうにある私立の中高一貫に通う弟の冬休みはだいたいいつも長い。そのため、昼夜テレビゲームに明け暮れる弟を横目に登校しなくちゃいけない期間が何日かあった。それがわりかしストレッサーになっていたことに、今年ようやく気が付いた。生活の質の向上というやつである。

 さて、僕は今地元のクリーニング屋に向かっていた。冬休みに入ったので制服をクリーニングに出そうと、母が僕たち兄弟の制服をまとめてクリーニングに出してくれたから、それを取りに行くのだ。先ほど僕が弟とのじゃんけんに敗北してしまい、ついでに母からはいくつかのおつかいを頼まれてしまった。こういうとき、決まって負けるのは弟でなくて僕なのだ。

 洗濯屋の扉を開けると、カウンターの向こうに座っていた人物がゆっくりと体を起こした。髪が長いために女性のように見えたが、顔を見ると男性とわかった。座っててよくわからないが背も高そうだ。肩までくらいの黒い髪をざっくり一つにまとめているが、手入れが行き届いているわけではなく、寝ぐせもあってぐしゃりとしている。
「あれ、どうも、オレ寝てた?」男は自分を指さした。名札には、『岡江』とあった。
「あ、なんか、すみません」
 どぎまぎして、変な答えを言ってしまった。なんと言えば正解だったのだろう。はい寝ていましたよとでも言えばいいのだろうか。そんなこと自分が一番わかっていることなのではないか。僕は財布から伝票を取り出して、カウンターにばんっと置いた。照れ隠しだった。「受け取りに来たんですけど」と言うと、岡江さんはその紙を見ながら奥へ消えた。
 他に客はいなくて、僕だけが取り残された。カウンターに置かれたラジオから音楽が流れている。なんだかわからないが、たぶん、懐メロ系の曲なんだろう。店内は暖房が効いていて、コートを着ている僕にとっては暑かった。ちょっと迷ってから、コートを脱ぐことにしたが、肩を抜いたところで岡江さんが制服を待って戻ってきたので、慌てて着なおした。襟のあたりを撫でてみて、整えていたふりをする。
「これで合ってます?」
「あ、はい」
「じゃあ袋に入れちゃいますねー」
 岡江さんはカウンターの下から大きな袋を出してきて、中に制服を滑り込ませた。なんとなくそれをぼーっと見ていたら、岡江さんが顔を上げた。
「これ、××高校の制服でしょ」
「え、そうです」
「オレの妹もね、同じ高校」
「へえ」岡江という女子に心当たりはなかった。

  クーポンがどう、チラシがどうという岡江さんに適当に答えていると、ラジオで次の曲がながら始めた。小さいころ、家族でドライブに行くときに、いつも車の中でかかっていた曲だ。もともと父のお気に入りなのか、それとも母か。どちらにせよ、僕も弟もこの曲が大好きだった。同時に、今聞かなければ思い出すこともなかったような曲だ。思わず僕はつぶやいていた。
「あ、『東京』だ」
「東京?なにが?どこ?」
「この、ラジオで流れてる曲が、『東京』っていう曲なんです」
「ふーん、なかなかいい曲」
たいして聴いてもないくせに、岡江さんはなぜか上からだった。袋の持ち手を僕のほうに向けて置いた。僕がその持ち手を掴むと、岡江さんは訊いた。
「音楽聴くの好きなの?」
「うーんと、まあ、好きです。まあまあ」
「へえ、なんか最近気に入ってる曲ある?オレ最近アプリのやつ契約したんだよ、家族で入れるやつ」
 普通に考えて、今日出会ったばかりの人に曲を勧めるなんて無理な話だ。岡江さんがどんな曲を聴くのか全然わからないし、第一、自分の聴いてる曲を人に見せるなんて恥ずかしい。でも、岡江さんになら自分のことを言うのはそんなに悪くない気もする。
「最近、『熱気球』っていう曲にはまってて、ユーチューブで急におすすめに出てきた曲なんですけど、再生数も低いし、全然知らないバンドですけど、すごい好きで」
「『熱気球』かあ、それほんとにアプリで聴けんの?」
「あ、多分ないかも……」
「じゃあ、『東京』で妥協しとくよ」岡江さんがにやりと笑った。

 料金を尋ねると、岡江さんが「先払いで貰ってるはずだよ」と言った。母は先払いにしたのを忘れていたらしい。出かける前に母に渡されたクリーニング代を見ていると、「まー好きなお菓子でも買いなよ」と岡江さんが言った。
 店から出ようとすると、ちょうど次のお客さんが来たところのようだった。先方がドアを抑えててくれたので、サッと外に出る。体が温まっているおかげで、外は少し暖かいくらいだった。クリーニング代は僕へのお駄賃だと思って懐に入れることにしよう。儲けたお金の使い道を考えながら、僕は歩き出した。


〇第三幕
「そういやさ、この前オカエ君に会ったんだよ」
 チエはそう言って、チーズケーキをほおばった。モキュリとチエの頬が動いて、チーズケーキが咀嚼されていく。チエのハムスターのような頬は、高校時代と何ら変わりなく、むしろ前よりも肌つやが良くなっているようだった。
「オカエって、誰だっけ」
 フルーツタルトをフォークでつつきながら、私は聞き返した。あいにく、オカエ君という名前には心当たりがなかった。オカエ君という人が、私に人生に登場していた時が今まであっただろうか。タルトを口に運ぶと、ちゅるんと音がして、キウイフルーツが口の中に入った。
「高校の時にいたでしょ、岡江頼朝って人だよ。もしかしたら、あんたは同じクラスになったことはなかったかもだけど」
 チエと私は高校の友達で、同じクラスになったことはなかったものの、二人とも同じバレーボール部に入っていたために、しょっちゅうくっついていた。高校を卒業してからもなんやかんや連絡を取り合い、気になっていたレストランに行ったり、こうしてたまに突発的に集まったりしている。クリスマスイブである今日も、「なんか微妙に時間が空いちゃったから、ちょっとテキトーに集まろうよう」とチエが私を呼び出したのであった。

「んー、なんか、なんとなく聞き覚えはあるかも」
 おかえよりとも、と脳内で検索をかけてみると、確かに、そういう名前の人がいたなあと思い出してきた。日本における頼朝といえば、やはり源頼朝なわけで、そのほかに頼朝なんて人がいるのか、親はどういう気持ちで頼朝とつけたのか、やっぱり源頼朝から取ったのか?とちょっとびっくりした記憶さえある。顔もなんとなく浮かんできたような気がするが、それが本当に岡江頼朝なのか、また違う人なのかは釈然(しゃくぜん)としない。
「かくいう私もオカエ君のことなんて忘れてたんだけどさ、この前コーヒー片手に歩いてたら、急に人とぶつかっちゃって、それがオカエ君だったんだよ。」と、チエが言う。
「街中で、かつてのクラスメイトと感動の再開」と、興味のない映画のキャッチコピーを読むみたいに、私が返す。
「いや、どちらかというと絶望だよね。その拍子に手に持ってたコーヒーが零れて、それも結構な量だよ、わたしの服にかかっちゃったんだから。オカエくんにも少しかかったかな。それでもさ、わたしが着てたのは新しく買った白っぽいコートだったんだよ。もうね、終わりだよ。わたしはここで死ぬのかー!って」
 別にコートが汚れたとて死にはしないでしょ、と私が苦笑していると、「今日も着てる、このコートなんだけど」とチエは椅子の背もたれに引っ掛けたコートを指さした。
「なんだか、そういう跡も見えないけど」私はマグカップを手に取って、コーヒーにふーふーと息を吹きかけた。そういえば、チエがぶつかったとき零れたコーヒーは熱くなかったのかな、と考えた。厚着をしてたら、結構大丈夫だったりするのかしらん。
「うん、そうなんだけど。そしたらオカエ君がそれはそれは焦った顔で、いや図太く構えられても困るんだけど、「本当にごめんなさい」って言って。なんかその頼りない感じを見たら、ああオカエ君じゃん!ってすぐにわかったんだよ。オカエ君だー!って言ったら、向こうもなんとなく思い出したみたいで。わたしはたまたま会ってテンションが結構上がったんだけど、オカエ君、次の瞬間にはすごい深刻な顔で、『そのコートのシミを抜かなければ』って」
「そのコートのシミを抜かなければ」私はまねしてみる。
「そうそう、そんな感じ。オカエ君ってなんか少し不思議な子だったでしょ。なんかオカエ君、今は洗濯の仕事?してるみたいで、私が言われるがままコートを差し出したら、そこにあったバス停のベンチに座って、鞄の中から色々道具出してきて応急措置してくれたんだよ」
「なんかだんだん作り話っぽく聞こえてくるけど」たまたまぶつかった人が高校の同級生で、しかもその人が今は洗濯屋(洗濯屋ってなんなの?)をしてて、その場でしみ抜きをしてくれるなんて、まるで小説の中の話みたいだ。
「たしかに出来すぎてるけど、まあそれが岡江クオリティーだから。事実は小説より奇なりだし」
「岡江クオリティーってなに」私が笑うと、カップの中のコーヒーの水面が揺れた。
「それで、あとでちゃんとお店で作業して郵送するから、住所教えてほしいって言われたんだけど」
「巧妙なナンパみたい」
「それもそうだし、あと、オカエ君が仕事してる様子ってなんだか気にならない?だから、取りに行きますって私のほうがお店の場所きいちゃった。意外とその辺にあってびっくりだよ、そんな近くにいたのに今まで会わなかったのが不思議」
「たしかにそうかも」岡江頼朝だけでなく、学生時代に出会った人たちが今何しているのかというのはたびたび話題に上がることだし、そういわれてみれば気にならないでもなかった。
「それでこの前言われた通りお店に行ったんだけどね」チエはココアの入ったマグカップで、そっと手をあたためた。
「オカエ君たらひどいの、だってなんか、中学生くらいの男の子とずっと喋っててさ」



 チエと別れて、駅に向かう商店街を歩く。日没が近づくにつれて人の流れがゆるゆると活発になっていくのを感じる。思わず息が詰まりそうになって、ぼうっと空を見上げた。微妙に曇った、冴えない空だ。都会に来て空を見上げるのは田舎者らしい、という話を思いだす。私がこうして空を見ているうちに、ここではたくさんの出来事が始まったり終わったりするのだろうなと思うと、まるで広い宇宙にぽんと放りだされたような、途方もなく、どこか暗い気持ちになった。

「すみません」
 と、突然私に声がかかった。聞き覚えのない声だった。胸がすこしドキリとして、思わずそちらを振り返る。声をかけてきたのは、ちょうど自分と同い年くらいの痩せた男だった。背がかなり高く、そのわりには頼りない体形で、これまた情けない、目頭のまあい目でこちらを見つめている。寒さで鼻が赤くなっていた。「道を聞きたくて」男がまた口を開いた。
 本当なら今すぐにでも立ち去ろうかと思ったが、私はあっけにとられていた。あろうことか、その男の容姿が岡江頼朝に酷似していたためである。
「道が、聞きたいんすよ。ケーキ屋に行きたくて」
 私がうまく聞き取れなかったと見たのか、岡江頼朝(だと一回思ってしまえば、もうそうとしか見えなかった)がもう一度言った。
「ケーキ屋、ですか。なんてケーキ屋」
 なんだか自分でもあまり聞き慣れないような妙にこわばった声が出た。目の前の岡江頼朝は、なんだったけなあとぶつぶつ言いながら何度かスマートフォンを操作すると、「これだ」と言って店名を読み上げた。私も聞いたことのある、ちょっぴり有名なお店の名前だった。
「それはここの通りじゃなくて、もう一本向こうの___」
 私がときどき考えたりしながら懇切丁寧に説明しているのを、岡江頼朝はわかっているのかわかっていないのか、それでも時折頷いたり、私の説明を繰り返して言ったりしながら聞いていた。仕上げに私が「いけそうですかね」と質問すれば、「いけそうです、ありがとうございます。」と深く頷いた。
「妹に頼まれちゃったんすよ、予約したケーキを取りに行けって。友達とパーティーするからーって」
 ケーキ屋に向かおうとする直前、岡江頼朝がぼんやりとつぶやいた。私は「はあ」と気の抜けた相槌を返す。岡江頼朝がなんでケーキ屋に行きたいかなんて、本当にどうでもよかった。
「妹、高校生で、ともみって名前なんだけど、結構頻繁に兄をぱしるというか、さっき急に電話で頼まれて、すげーびっくり」
「はあ」
「じゃあ、オレ行くんで。道教えてくれてどうも」
 岡江頼朝はひらりと手を振って、ケーキ屋への道を歩き出した。岡江頼朝が群衆の中に溶けていくのをぼうっと見送る。岡江頼朝が片足を引きずるようにしているのが目についた。頼朝の妹だからともみというのか。遅れてそんなことを思った。



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