悪癖



人魚シーーーク!!!!!!!!!!!!(さん)
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 目を開けると、視界がぼやけていた。おい、とその人間がもう一度言う。低くてしっかりした、良く通る、若い男の声に聞こえる。そういえば、死ぬとき最後まで残るのは聴覚だと聞いたことがある。僕は死ぬのか。いや、誰だって死ぬのだ。ぽつぽつ瞬きを繰り返していると、視界がだんだんはっきりして、色と色の境目が明瞭になりだした。思わず身じろぎすると、重たい下半身が、ずるりと動いた。砂浜と少し擦れた。
「ああ、よかった、生きてた」
 人間が笑った。思ったとおり、若い男だった。肌は日に焼けていて浅黒い。筋肉質でがっしりとしている。黒い髪は太く、コシがある。人懐こそうな笑顔が妙に目に焼き付いた。
「びっくりした。もしかしたら死んでるかもって思ったんだ。お前、ぼろぼろだからさ。」
 そう言われて、岩に横たえる自分の体を見下ろせば、たしかに僕は傷だらけだった。鱗はところどころ傷がつき、出血し、赤く滲んでいる。痣のようなところもあった。でもそれほど大きな怪我じゃない。少なくとも、死んでると思った、と言われるほどの傷には、とうてい思えない。それでも、自分はこの男に声をかけられるまでは気を失っていたくらいなのだ。気を飛ばす前のことを思い返してみる。そう言われてみれば、おぼろげに、何人かの人間に殴られ蹴られとしたような記憶が、あった。わざわざ思い出そうとしなければ忘れてしまうようなことだ。なんと言えばいいのかわからなくて、うん、と答えた。いつも通りの声が出た。
「まあいいや。お前、名前はなんていうの。俺は秀っていうんだけど。そこの村に住んでる。浜から少し歩いたところ」
 秀の胸元に光るものがあった。見ると、銀色の笛のようなものだった。色とりどりに編まれた紐で首にかかっている。秀がかがんだので、眼前でそれが揺れた。その艶めきを見ながら、気づけば僕は口を開いていた。「シーク、だよ」
「シークか」秀は、僕の名前をしっかりと記憶に刻み込むように、繰り返した。秀の口から自分の名前が出ることが、なぜかすごく奇妙で、胸がざわついた。彼は、きっと生涯僕の名前を忘れないだろうと、出会ってまだ数分も経っていないのに、ふと思った。
 秀は、よろしくな、と言って手を出した。手のひらがしっかりとして皮膚がぶ厚そうだ。よく力仕事をしている手。生真面目によく働く、善良な若者の手。誇張ではなく、今会ったばかりの秀の普段の生活が目の前にありありと浮かぶようであったが、実際の秀は、目の前で白い歯を見せて微笑んでいた。何か言おうと思ったのに、うまく言葉にならない。ただ、自分ははきっとこの手から逃れることはできないだろうという気がして、僕は静かにその手を取った。

 そして、僕は秀の家に招かれた。秀が怪我の手当をすると言って聞かなかったからだ。本当にそうたいした怪我でもないのだから、世話を焼く必要などないのに、引っ張られて台車のようなものに載せられて、あれよあれよと食卓のようなところに座らせられてしまえば、もう逃げるすべなどなかった。秀は何か持ってくると言ってどこかに消えてしまったので、僕はただぼうっと待ちぼうけていた。家には秀以外に誰もいないようだったが、この食卓にはあと何人か座れるゆとりがある。机の真ん中には、花のようなものが飾られていた。手に取って見ると、どうやら紙でできているようだ。花びらの一部に油染みのようなものがあり、軽くよれている。
「それ、近くに住んでる女の子がくれたんだ」
 両手で桶を抱えている秀が戻ってきた。僕はうん、ともへえ、ともつかない相槌をする。秀は桶を床に置くと、尾ひれの先を浸せと言うので、言われるがままに浸してみると、確かに気持ちがよかった。「やっぱ、魚の部分は濡らしておいたほうがいいかなって思って」その言い分は良くわからなかった。
 秀は次に、怪我の手当てをしようとした。
「僕、自分でやるから良いよ」
「やりかたとかわかんないと思うし、俺がやるよ」
 確かにやり方がわからないのは本当だ。でもそれをいうのなら、勝手の違う手当てには意味がないだろう。そう思っていると、背中に何か冷たいものが当てられた。わあ、と声が出る。
「あゴメン、先言えばよかった。腫れてるから冷やそうと思って」
「うん……」
「それにしても、酷いやつがいるんだな。誰にやられたんだよ」
「えっと、ごめん、わかんないかな」
「あーそっか、名前とか知らねえもんな」そういう意味で言ったのではなかったが、黙っていることにした。
 秀は、僕の手当てをしながらいろんなことを喋った。実際に人魚を見たのははじめてだということ、この村のこと、秀がどのように暮らしているのかということ。僕は適当に相槌を打ちながらも、その話をほとんど聞いていなかった。秀のことを聞けば、きっと僕は何かを思うだろう。そのことが、なぜかすごくおそろしく思えた。僕が秀に向けたものが、巡り巡って、結局は僕を穿つ。秀は無傷のまま、あっけらかんとした顔でそこに立っている。そんな気がしてならない
「できたよ」
 秀が僕の頬にばんそうこうを貼った。それで手当ては完了したらしかった。秀はてきぱきと救急箱を片付けている。あ、こういう時、なんて言えばいいんだっけ。お礼をしたほうが、きっといいのかなあ。僕はしばらくまごついてから、ありがとう、と言った。しかしその言葉は、秀には届いていないようだった。「ん、今なんか言った?」「……ううん、なんもないよ」「そっか、」
 秀はよいしょと言って立ちあがり、椅子に座る僕を見下ろした。
「なあシーク、そんなことより、なんか腹減らない?」
「うーん、ふつうくらいかなあ」
「そう?俺腹減ったから、適当に作るけど、食べたいものあったら言って」
「そんな、悪いよ」
「うんー?全然」
 秀がいなくなり、僕はまた一人になった。しばらくすると、台所からがさがさと作業をする音が聞こえだす。僕はゆるく瞼を閉じて、ただぼうっとそこにいた。海の中で、退屈なとき、僕はたいていこうしている。目を閉じて、体を脱力させて、水の流れるままに身を任せる。何かがすごく嫌になって、あるいは、どうでもよくなったりする。たまにそのまま眠ってしまうこともある。どこかの浜に打ち上げられて、目を覚ますということも。そうだ。今日もそういう日だ。太陽の照った砂浜のぬるい感触で目を覚まし、しばらくしたらまた海に戻る。そういう、何事もない、普通の一日。だったはずなのに、僕はなぜか今、秀の家にいる。目を開けて、ゆったりとこの家の中を見渡した。よく整頓された家だ。棚の上には写真が飾られているが、光がちょうど反射して中身がよくわからない。壁にはひときわ大きな絵が飾られている。どこかの庭を描いたものに見えるが、この辺りの風景なのだろうか。暖炉に火は灯っていなかった。それもそうか。今は夏だ。
 気がつくと、秀が両手にお皿を持って、机を挟んだ目の前に立っていた。
「すまん、ちょっとそこにある布敷いて」
 言われるがままに二枚の布を敷くと、秀が続けざまに皿を置いた。秀の側と、僕の側で、二枚。目玉焼きと、レタスとトマトが乗っている。秀の皿にはこんがりと焼けたトーストもあった。
「パンは食べたい時に言って」
 僕の向かいに腰掛けた秀に、うん、と返事をして、そのまま、フォークを使ってなんとなく目玉焼きの黄身を割ってみた。黄身はとろとろの半熟で、白身の上を二股に分かれてながら流れた。
「目玉焼き、何かける?塩か、醤油か、あとソースとかもあるけど」
「塩」と、短く答えた。他の二つはなんのことだかあまりよくわからなかった。秀は少し身を乗り出して、食卓の奥から塩を取って渡した。僕は何も言わないで、塩をかけて、ぱくぱくと目玉焼きを食べた。加減がわからなくて、やけにしょっぱくなった。秀の方をちらりと見ると、フォークにレタスを幾十にも突き刺していた。
 二人、無言でフォークを動かしていると、突然、入り口の戸を叩く音がした。「ねえ、秀」戸の向こうから、くぐもって声が聞こえてくる。多分、若い女の声だ。秀はちらりと、僕の様子を伺うようにした。それがどうしてなのかわからなかった。「ねえ」もう一度ノックの音が響く。「出なよ」と僕が言うと、「ああ、」と秀が立ち上がり、玄関扉を少し開けて、顔だけを出した。二言三言話して、秀が部屋に戻って何かを持ち出し、あっさり手渡すと、どこか名残惜しそうに女は去った。秀はばたんと戸を閉めた。
「明日、でけえ祭りがあって、今日がその前夜祭だから、うちに置いてあるやつ持って行きたいって」食卓に座り直しながら、聞いてもいないことを秀は喋った。まるで何かを弁明するみたいだった。
「べつに、入れてあげたっていいのに」
「あ、思い出した。だから俺、台車持ってあの浜にいたんだよ。持ってこなきゃいけないものがあって」ぼそりと呟いた言葉が、秀の澄んだ声でかき消された。「そっかあ」と言って、僕も秀と同じように、レタスを何度も突き刺した。「ねえ、この葉っぱにはなんの味もつけないの」「あ、俺、いつもなんもかけないで食べるから忘れてた、なんかつける?」

 日が暮れ始めて、僕は秀の家を発つことにした。秀は泊っていっても良いのに、と言ったが、家族が心配するから、と適当な事情を口にすれば、それで納得のいったようだった。
 行きと同じように、台車に載せられて、浜への道を進む。誰にも会わなかった。「みんなお祭りの方に行ってるんだろう」と秀が言った。確かに、遠くの方で陽気な音楽の流れるのが聞こえた。
 ビーチでは、ちょうど、夕焼けが見えた。まるであつらえたような夕焼けだった。
 秀は、僕の体を抱えて、海の一番浅いところに降ろした。大丈夫か?と訊くので、うん、と答えて、僕は下半身を引きずりながら、少しずつ深いところへ這って行った。
「なあ、シーク」
「ん、?」
「また遊び来てよ」
「……うん、また、ね」
 約束な、と秀が笑った。僕もあいまいに笑った。彼はこの約束を、きっと生涯忘れないだろう。秀の、僕からしたら短いような一生の中で、一切の担保のないこの約束を、一パーセントにも満たないほどの短い時間を、僕の名前を、宝箱のなかに大切にしまって、いつまでもとどめておくのだ。そういう、強い予感がした。それは、僕のことが特別だからではない。秀はそういう宝箱を、いくつも心の中に持っている。

 秀が手を振った。僕は小さく頷いて、最初のうちは水面をひらひらと泳いで、やがて大きく体をうねらせると、海中へと潜った。僕の吐いた息が、泡となって水面へ消えていった。そうして、水の流れに逆流しながらどこまでも泳いだ。どこまで泳いでも、秀がまだ、後ろで手を振っているような気がした。



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