青少年のときめきと
不健全なきらめき



 昔、なにかを飼っていたと思う。それが四足歩行の愛らしい動物だったか、人工的な自然の中を優雅に泳ぐ魚だったか、ほんの少しの時間でその生涯を終えてしまう儚い昆虫だったか、はたまた爬虫類だったか、そんなことはもう思い出せないけれど。確かに、飼っていたと思う。どれくらいの熱量で、どれくらいの愛情を持って接していたかも覚えていない。しかし、最期を号泣して看取ったような気もするので、きっと愛していたはずだ。
 そう、最期。あの子の最期はどんなものだったっけ。生き物だったのは確かだから、やっぱりその子も最終的には死んだ。家族みんなでその子を囲んでいたような記憶があるから、恐らくは穏やかな死に目だったんだろう。きっと丸くなったりして、生きているのか死んでいるかもわからなくて、ひょっとしたら眠っているだけなんじゃないかって希望を持ったりして。なんかそういう、ありきたりな、大して面白くもない感じ。まあ、生き物の最期なんてきっとつまらないんだろうけれど。思えばそれが、初めて誰かを看取った瞬間だった。ペットに“誰”なんてニンゲンみたいな言い方をするのはおかしいか? まあそんなことはどうでもいいとして、それが今のところ、最初で最後。それ以降、生き物が死ぬ瞬間に立ち会ったことはない。なくていいけど。
 フィクションの中だと、死の瞬間というのは何かと美化されているように思う。何か最期に一言残してがくり、とか、愛する人を庇って死ぬ、とか。僕の知る限りの現実は、生死の境が曖昧になって、ゆっくりゆっくり、死んでいく。そんなものだ。感動的なシーンなんてない。焦りと、悲しみと、ほんの少しの恐怖と、後悔ばかりが残る印象だ。まあ僕が経験したのはペットの死であるから、大した後悔なんて残らなかったけど。餌は欠かさなかったし、寝床の掃除もきちんとしたし、覚えてないけど多分話しかけたりもしたんだろうし、散歩だってほぼ毎日行っていた。――あ、散歩に行っていたから、多分飼っていたのは犬だ。そうだ、そうに違いない。ふわふわで大きめの、とっても素直で利口な犬。でも、ここまで出てきているのに、名前だけがどうしても思い出せない。名前なんて、多分一番忘れちゃダメだろう。覚えてないけど僕が名付けたんだろうし。ねえ、ほら、なんだっけ。可愛さの中に高貴な感じも漂う、すっごく素敵なネーミングをしたはずなんだけどな。もう思い出せないや。




 なんてことを、考えていた。
 ここにぼうっと突っ立ってから、一体どれくらい経ったんだろう。かなり長いことこうしている気がする。でも十分も二十分もこんなことをしていたら僕は無事でないはずだし、もっと汗だくになるはずだから、きっと大した時間ではない。体感と現実の時間が大幅にズレるなんてよくあることだ。
 それにしても、暑い。この部屋で、僕ばかりがじっとりと汗ばんでいた。家具は言わずもがな汗をかかないし。彼がなぜ汗をかいていないのかはさっぱりわからないけれど。そういう種類なんだろうか、彼は。てっきり彼も僕と同じだと思っていたのだが、実は違うのかもしれない。
 なんだか無機質に思えるベッドの上に仰臥する彼が、僕には死体に見えてならなかった。動かないし、喋らないし、笑わない。いつもみたいにへらへらして、いつもみたいな柔らかい声で、「リコットちゃん」とは呼んでくれない。起こしたら呼んでくれるだろうけど、このまま起こさなければ呼んでくれないのだ。ああもういっそ、このまま彼をこの部屋に放置して、一人で逃げてしまおうか。彼は、置いてかないでなんてかわいいことは言わないし、言えないたちだ。
 何とはなしに彼の手首を持ち上げる。脈があるのかどうかはいまいちよくわからなかった。そもそも僕たちに脈なんてものはあるのだろうか。僕にはあると思うけど、彼が僕と同じ種類の生き物かどうかは、ついさっきわからなくなったし。もしかしたらないのかもしれない。
 しばらくそうしていたが、飽きたので落とす。真っ白だったはずのシーツにぱたりと力なく倒れる様は、本当に死体みたいだった。それを見下ろして動かない僕もきっと、死体みたいだ。今動いたけど。動く死体だってどこかにはあるんじゃない? そうこうしているうちに、外がどんどん騒がしくなっていく。ぎゃあぎゃあした喚き声が喧しくてかなわない。声が一人分、二人分と増えていくと同時に、この部屋の温度も高くなっていくようだった。すう、と息を吸い込むと熱気が鼻をつく。このままこうしていれば、僕も彼も、多分死ぬ。かといって、ここから全速力で逃げ出してまで生きたいという意思も特になかった。しかし、では死にたいのかと問われるとそれも違う。死ぬなら別にそれでもいいし、生き延びれたらそれこそラッキー。でも僕は自分のことを“持ってる”方だと思っているから、多分死なない。なんの根拠もないけど。
 今の今まで微動だにしていなかったのに、突然彼が身動ぎした。かと思うと、ゆっくりと目を開ける。一回、二回と瞬きをして、恐る恐るといったように僕の方へ視線を向けた。目が合ったままどちらも動かない。その様を客観的に考えてみると、なんとなく不気味に思えて身震いした。
 彼は何度か軽い咳をしてから、口を開く。
「………………リコットちゃん」
 いつもの柔らかい声でそう言うと、彼は薄く微笑んだ。僕は何も答えなかった。
「……なんか、…………暑い……? ね、」
 寝ぼけ眼でそう言う彼は、ひどく無防備だった。こんな無防備な姿はそうそう見たことがない。だって、彼はいつでも隙を見せたがらないから。無論、寝起きなんて滅多に見せてくれない。彼の寝起きを見たのは、後にも先にも今日だけだろう。そんな彼が、今この時だけは、僕にその無防備な姿をさらけ出してくれている。その事実だけは、まっすぐに嬉しかった。
 暑い、と言ったきり、彼はまた黙ってしまった。口角をゆるく吊り上げたまま、ぼんやりとこちらを見ている。このままではまた夢の世界へ行ってしまうのではと思ったが、彼は額にうっすらと汗を滲ませて再び口を開いた。
「もしかして、なんかまずい?」
 彼の中に眠る生存本能が、彼を微睡みから掬い上げてくれたようだった。先程より幾分かはっきりとした滑舌でそう言うと、やけに緩慢な動作で上体を起こす。
「今、外は火の海ですよ」
 僕が事実を淡々と告げると、彼はほんのわずかに瞠目したように思えた。一度瞬きをするとすぐ元に戻ってしまったのではっきりとはわからなかったが、動揺、したのだろうか。彼は僕の言葉にそう、とだけ返した。とてもじゃないが、動揺しているようには見えない。やはりさっきのは見間違いだったか。沈黙が続く間に、僕も彼も、どんどん汗だくになっていく。彼の汗が、その整った輪郭を伝ってシーツの上にぽたりと落ちるのを、ただ見ていた。美しいなと思った。僕の知る限り、彼は昔から、何をしていても画になる人だった。きっとどれだけ中身が穢れていたとしても、外面は美しいんだろう。
 お互いの息が徐々に上がっていくのがわかる。もうそろそろ、限界が近い。この部屋には、そう長くは留まっていられない。本当の死体になってしまうのも時間の問題だ。二人分の咳の間隔が狭まっていく。最初は軽かったそれもどんどん重くなり、それこそ、今にも死んでしまいそうなくらい深刻なものに変わっていた。
「…………逃げないの」
「リクさんが逃げるなら、逃げます」
「……そう」
 彼はまたそんな返事をして、目を伏せる。そしてぐっと伸びをした後、大きく息を吐いた。
「みんな死んじゃったかな」
「まさか」
 僕は笑った。あの連中が、この程度で死ぬなんて思えなかったからだ。少なくとも大半はしぶとく生き残っているだろう。
 逃げたいとか死にたくないとかは、どちらも言わなかった。けれどお互い、意思は固まっていた。彼はのそりとベッドから下りたし、僕もそんな彼の手を取った。しばらく見つめ合っていると、彼は照れくさそうにはにかむ。僕は笑顔をつくれなかった。
 からからと音を立てて窓を開ける。人型の僕たちが出るには少し小さいような気もしたが、そんな瑣末なことを気にする余裕はなかった。部屋に舞い込む外の空気は、澄んでいて冷たくて、この部屋とは大違いだった。この部屋は三階に位置している。ここから飛び降りたら、死にはせずともそれなりの怪我は確実だ。それなのに、不思議と恐怖はなかった。ふと彼を見ると、彼は窓の下をただ眺めていた。前髪に隠されたその目は、何を見据えているのだろうか。僕には想像もつかない。僕には、その高い鼻梁を堪能できるこの角度に見惚れるしかなかった。
 僕の視線に気が付いたのか、彼は振り向いた。咄嗟に目を逸らすと、少しだけ声に出して笑われた。今子供扱いされたな、と思ったが、僕のことをいつまでも子供扱いしてくる彼が愛おしい。衝動のまま抱き締めると、彼は僕の背を軽く撫でた。少し離れて、目だけで「いい?」と最後に確認すると、彼はまた薄く微笑んで首肯する。それは曖昧なものではなく、はっきりとした動きだった。

 彼は僕と、生きたいと願ってくれた。

 もう一度きつく抱き締めて、二人、抱き合ったまま思いきり窓の外へ飛び出した。不安も、恐怖も、焦燥も、罪悪感も、マイナスな感情は全てあの部屋へ置いていく。荷物は、この体温と愛情だけでよかった。恐らく本当は二秒にも満たない、けれど僕には十秒にも二十秒にも感じられるスカイダイビングを終えると、僕たちは地面に叩きつけられた。今までに経験したことのないような激痛が襲う。が、骨が折れたような感触はなかった。僕らは内臓はともかくとして、骨格はニンゲンそのものだから折れたりはするのだ。でもこの結果を見るに、ニンゲンよりかは多少丈夫につくられていたんだろうか。もっとも、腰の辺りがひどく痛むので、ヒビくらいは入ってしまったかもしれない。
 真横に倒れている彼を見遣ると、最後庇うような姿勢になったのが功を奏したのか、僕よりは平気そうだった。天を仰ぐようにした後、視線だけこちらに向けてくる。こんな状況にも関わらず、やたらと扇情的な笑みを浮かべて、まっすぐに僕を見つめる。熱を持ったその瞳に、僕はたまらなくなった。
 がっつくように唇を重ねても、彼は嫌がらなかった。彼はキスをする時、唇が重なる直前に目を瞑る。僕はその癖が大好きだった。無抵抗なのをいいことに、唇を吸って、舌を食んで、好きにして遊ぶ。舌を入れ込んだ時も、彼は声ひとつ出さなかった。痛む腕を必死に動かして、彼の両耳に宛てがう。耳を塞がれているのは彼だけのはずなのに、僕まで水音しか聞こえなくなった。そのまま手を滑らせて、頬へ、首筋へ、僕の熱い手を這わせる。彼の首筋は、どうしてか冷えきっていた。鎖骨辺りのくぼみに両の親指を添えてみたけれど、なんだか怖くて、力を込める勇気は出なかった。
 満足して離れると、元々荒かった呼吸を更に荒くさせて、彼はふっと笑った。
「どこで仕込んできたの」
「わかってるくせに」
 今度は、僕も綺麗に笑えたと思う。慈しむような手つきで彼の目尻を撫でて、汗で張り付いて乱れた前髪を払ってやる。するとそれに応えるように、彼は僕の髪を優しく梳いてくれた。僕を見つめるその瞳には、輝きしかない。煤けてしまってなお美しさが一切損なわれないそのかんばせを、何としてでも一生守り抜かなくてはと思った。
 わざわざ逃げ出してきてなんだが、このままずっとこうしていたいとも思う。しかし、せっかく芽生えた僕らの生への執着を手放すのも惜しい。逡巡した後、僕は無理矢理に立ち上がって手を差し出した。彼は一瞬、呆けたような顔をしたが、特に迷う素振りもなく僕の手を取った。引っ張って立たせると、改めて大きいなと感じる。少し焦げたシャツも、所々にできた火傷も、全部ひっくるめて綺麗だった。
 二人手を繋いで、ただ、遠くを目指して歩く。会話はなかったけれど、今の僕たちの間に、会話なんて必要なかった。森の中をひたすらに歩いているうち、何人か見覚えのある顔を見かけた。皆一様に周章狼狽している様子で、遠くへ、遠くへと走っていく。僕らはその背中を見て、でも見るだけで、自分たちも急ごうとはならなかった。澄んでいて冷たくて、気持ちいいと思っていた空気が、今は痛い。まるで肌に突き刺さるようで、少しだけ、先程の熱気を恋しいと思ってしまった。

 見上げた夜空は、星ひとつ見えなかった。


  *


 ひとつだけ、思い出したことがある。ペットの死に際のことだ。
 家族みんなで囲んでいた記憶があるから、穏やかな死に目だったんだろうと思っていた。でも違った。あの子は確か、誤って暖炉に飛び込んで焼け死んだのだった。当時の僕は小さかったのだが、小さい子供と犬がいるのに、暖炉の前に柵を設置していなかったのはどうしてだったんだろう。というか、僕らがいなかったとしても、普通設置してあるものだろう――ともかく、僕の飼っていた犬は、何かの拍子に暖炉に飛び込んでそのまま死んだのだ。決して穏やかなものではない。
 と、いうことをふと思い出したのだが、やっぱり名前だけは思い出せなかった。






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