フレミング



※1715(高2高1)学パロ

 考査前の期間は、家で勉強することももちろんあるけれど、今日は美術室で勉強することにした。美術室の机は広いから、自分の王国のようにノートや教科書を広げられてやりやすい。加えて、コーヒー好きの美術部顧問が、コーヒーを出してくれることがあるので、それをありがたく頂戴しに行くのだ。
 がらりと美術室の戸を開けると、そこには柳田しかいなかった。戸の音に反応して、ぴく、とこちらを少し振り返っている。既に机の一つを占領して、勉強を始めていたようだった。
「こんちは」
 と、小さいが、よく通る声で柳田は呟いた。柳田は僕の一学年下の美術部の後輩で、中学の頃から知っている。よく会話する数少ない同性の一人である。まあ僕は、女の子と喋ってる方が楽しいけど。
 柳田の取った席から離れた場所を取るのも、さすがに冷たすぎる気がしたので、柳田の隣の机に自分の荷物をどさりと置く。世界史の教科書のせいで、鞄はとても重かった。鞄を背負っていたのは教室から美術室まで歩いている間だけだったのに、なんだか既に肩が疲れている。肩を回すとごき、と言ったので、うわあと顔をしかめる。はあ、と小さく息をついた。あと三分くらいは、勉強する気が起きないな。
 肩と首をゆったり回しながら、柳田の背後から柳田の勉強する様子を眺める。柳田は物理基礎の問題集を開いていて、ああ、去年こんなのやったわ、とぼんやりと思い出す。ふーん、と覗いていると、見覚えのあるワードが目に入った。
「あ、フレミングの左手の法則じゃん。僕知ってる」
 ノートに数式を走らせていた柳田が、顔を上げた。
「何を自慢げに」む、と柳田は口をとがらせた。柳田は割と生意気なやつだが、たぶん、後輩ってこんなもんなんだろう。じゃあ説明してみてくださいよ、と柳田は問題集を閉じた。俺は右肩のストレッチをしている体勢のまま、三秒フリーズする。
「あー……うん、キスをする前にまず手を握れってやつ」
 うわ、と、柳田はあからさまに嫌な顔をした。おい、やっぱり先輩ってあほなんだ、って、顔に書いてあるよ、お前。
「いくら先輩が文系とはいえ、これくらいは知ってないとまずいですって」
「物理基礎つかわないもーん」
「これ知らないと生きていけませんよ」
「じゃあお前、構造主義の祖と言えば誰だよ」
「えー、わかんないです。コウゾウシュギ?」
「レヴィ=ストロースだよ。聞いたことないの? あーあ、柳田も社会で生きていけないよ」
「そんなバカな」
 呆れたように、柳田は口をぽかんと開けた。いるんだよ、こういう、理系が偉いみたいな顔してるやつ。僕たちの生きている世界は個人じゃなくて社会で成り立ってるんだから、文系教科、特に社会科の内容は生活に密接に結びついているというのにね。まあ、僕も偉そうなことは言えないかあ。勉強よりももっと楽しいことがしたいよ。僕は大きなため息をついて、両手を肩に乗せながら、肩をぐるぐると回す。
「まあ、人生ではキスする前に手を握るっていうことの方が大事だと思うよ」
「勉強も大事ですよ」
 はーあ、と、柳田は物理基礎の問題集を開きなおした。そしてシャーペンを握りなおして、勉強を再開するのかと思ったが、急に柳田はノートにころりとシャーペンを置いた。
「先輩、お手」
 そう言って、柳田はずい、と左手を差し出す。よく分からないまま、僕はその手に右手を載せた。そのまま急に、親指と人差し指の骨の交わるところの、深い谷のようになっているくぼみをぎゅっとつかまれた。ひゅっと息の止まるような、頭からつま先まで一気に殴られるような、層の厚い痛みがどっと押し寄せる。
「痛い痛い痛いっ」
「ここ、肩こりにいいんですよ」
「何、痛すぎる」
 すいませーん、と、適当な返事をされた。そのまま手を握られて、というか、もまれていた。的確にツボを押してくるので痛すぎる。何だこれは。痛すぎる。さっき押されたところは、確か合谷だったか。僕も模試の時とか、このツボの痛さを眠気覚ましにするためにペンの頭とかでぐりぐり押すけど、他人にやられると痛さの純度が百倍増す。痛え。
 痛い、という僕の大声を不審に思ったのか、美術準備室のドアががちゃりと開いて、顧問が美術室へ顔をのぞかせた。
「君たち、何してるの」
 ツボ押して労わってたんです、と柳田が言うと、えらいねー、と顧問も適当な返事を返した。僕はまだじんじん痛いんですけど。
「今日来てるの二人だけ? なら、コーヒーいれたげる」
 ありがとうございまーす、と柳田が言った。顧問はのそのそと、美術準備室へと消えていった。「良かったですね、先輩、コーヒー好きですもんね」「はあ――もうありがとう、手離して」「ああ、すみません」
 やっと柳田が手を離すと、ふたりしてそのままぼうっとしていた。気が抜けたみたいだった。薄く開いている柳田の唇は、意外と女の子みたいで綺麗だな、と思う。ちなみにこれは、美術的な観点から見て、ってことだから。
「そういえば、右手の法則はなんなんですか」
「美術室に行くとコーヒーがもらえる」
「ほんとだめですね、先輩」
 はは、と柳田が苦笑していた。笑った顔はあんまり生意気じゃないから、ずっとその顔でいいのにな、先輩的には。手の痛みがだんだん引いていくのを感じながら、僕らはコーヒーを待っていた。

「フレミングの左手の法則憶えてる?」「キスする前にまず手を握れ」/穂村弘

texture: 誰もあの子に気付かない/ Suiren様

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