ペール・ベノム



 羽鳥尊の父親から電話がかかってきた。相変わらず、冷たい声だった。
「お祖父さんが死んだから、葬式に出に、戻ってこい」
 ああ、うん、分かった、と、二つ返事をして、即座に電話を切る。切る間際に、何か父親が言いかけていたが、たぶん、大したことではない。うまくやってるのか、とか、その程度だろう。
 俺が館に、【館のある国】に来たのは、実は、表向きには留学のためだった。実のところは、家に居てもつまらなかったから、家を出てどこか違うところに行きたかっただけだった。
 枕元にスマートフォンをぽいと放り、俺の部屋のベッドに腰掛けたまま、目を閉じる。この身体の持ち主の、羽鳥尊の記憶がまなうらによみがえる。母と祖母の関係はいつも緊迫していて、羽鳥家は本当に息苦しかった。別に、俺にとっては、どうってことないけど。ただ、羽鳥尊の身体があの家を拒絶していて、繰り返し吐いてしまったり、たまに呼吸もままならなかったりしたので、家を出てしまった方が俺も楽しく羽鳥尊として暮らせるだろう、というだけのことだった。
 俺はすぐに一時帰国の支度をした。と言っても、あの家に服などはあるので、小さめのバックパック一つで事足りた。秋晴れの日の昼間、館を出ようと玄関のドアを開けると、ねえ、と背後から声をかけられた。クララだった。クララはいつもぬるりと現れる。
「どこに行くの」
「祖父が死んだんだってさ。だから、葬式にこいって言われたから、日本に」
 ふうん、と、他人事のようにクララは言った。俺にとっても他人事のような話題だった。軽く、じゃあな、とクララに言って、俺は館を出た。

 ミコトくんって、足が軽いよなあ、と、思う。絶対僕の方が、質量的には軽いと思うんだけどな。ミコトくんはさっき、葬式に出るとかなんとか言って、どこかへ行っちゃった。別に、さびしくもなんともないけど、ちょっと憎いかな。
 ふらふらと、館を当てもなくさまよう。ぼくにはさまよう場所が館くらいしかない。さまよえば誰かしらに会えるので、つまらなくはない。
「見てくださいよ、この写真の空、チョー青くないですか」
 館の庭をさまよっていると、木陰のベンチで、インスタントカメラで撮った写真を雛伊くんに見せるパァルくんがいた。ぼくは空を見上げた。今の空も、彼女の言葉を借りるなら、チョー、青い。飛行機がごうごうと飛んでいて、その後ろに引く彗星の尾のような飛行機雲だけが、白い。あれにミコトくんが乗ってたりするのかなあ。なんて考えてしまって、彼のことが憎かった。ぼくは絶対にパスポートも取れないし、国内線の飛行機に乗るとて、セキュリティーゲートに認識されてもらえるのかやってみたことはないし、そもそもあんまり遠くに行くのがこわい。なんとなく、遠くへ行けないことを知っている。
 ああ、嫌だな。こんな日は、幼馴染に会いに行くに限る。ぼくは青空の下を去り、館へ戻った。

 東京に着いたのは、館を出て六時間後の夜で、空は当たり前のように暗かった。そこからさらに電車に乗って、羽鳥尊の家に向かう。マンションのエレベーターに乗って、東京の夜景を高いところから見渡せる、つまらない家のドアをくぐる。祖母だけが家にいた。父母は葬式の準備で、どこかへ行ったらしかった。意味もなく広い浴室で、シャワーを浴びて、羽鳥尊の部屋のベッドで横になる。
 移動中、そこそこの時間寝ていたので、ベッドにいても眠気はあまり起きなかった。俺は立ち上がって、羽鳥尊の部屋の窓とカーテンを開けてみた。まだ起きている人々が点けている明かりが、目下に広がる関東平野の夜に無数の点を打つ。郊外のひっそりした場所に建っている館から見える景色とは、大違いだ。
 窓枠に両肘をついて、折った両腕に頭をもたげて、しばらく夜景を眺めていた。羽鳥尊の青いパジャマからは、羽鳥尊の家の柔軟剤の、フローラルのにおいがした。この香りは、嫌いだな。そんなことしか、考えることがない。
 俺がこの家にいても、考えることはあまりない。羽鳥尊に友人はいなかったから、帰国したとて会いに行かなければいけない人がいるわけでもない。俺はここに何もない。初めてクララのことを羨ましいと思った。クララは他人から、少なくとも幼馴染のふたりから、半永久的に思われている。俺はもう誰からも思われないし、羽鳥尊でさえ誰からも思われていない。
 そうやって、窓辺で夜風に当たっていると、羽鳥尊の嫌な記憶を思い出した。家族関係が嫌になって、ここの窓から飛び降りようとした時の記憶だった。あの夜も、このパジャマを着ていた。あの夜も、この柔軟剤の香りが嫌いだった。
 全てが面倒くさくなったので、ベッドで深く布団を被って、無理矢理寝てしまうことにした。羽鳥尊の身体は、割と睡眠時間を欲するタイプだから、今度は意外とすぐに眠れた。
 夢で、俺は怪物になった。東京の夜の街を踏み荒らし、飛び降りを図って窓から地上をのぞき込んでいる羽鳥尊を片手で握り潰し、東京タワーをぽっきり折って、その先端でクララの胸元を刺した。
 そこで目が覚めた。布団から飛び起きると、背中にぐっしょりと汗をかいていた。身体がその夢を悪夢だと認識していることにたまらなく怒りを感じて、俺は青いパジャマを脱ぎ捨てた。

 今朝も夢を見ていたっていうのは覚えてるんだけど、はっきりした内容は忘れた。でもここ二日くらいは同じような夢を見ている気がする。ただ、何だか、胸を射抜かれたというか、突き刺されたというか、そういう夢だったと思う。でも、そんなのではぼくは死ねなくて、っていうか、もう死んでいて、相手をがっかりさせた、ような気がする。
 ミコトくんがどっか――葬式か、に行ってから、もう二日くらい経っていた。今日もぼくは館で朝食をちょっと食べ、館をほっつき歩き、館で昼食をちょっと食べ、館をほっつき歩き、戦争でちょっとだけ紅茶派の足を引っかけてみて(でも転ばなかった)、館をほっつき歩き、館で夕食をちょっと食べ、館をほっつき歩き、寝る支度をして、寝る。
 今、その「館をほっつき歩く」の三回目の最中で、ラウンジで、蒼とキリネがオセロをするのを眺めていた。キリネに、ねえ、ここ置いてみたら、と言うと、いや、こっちが……などと返答されて、おいキリネ、アドバイスはずるい、と蒼が言う。そんなタイミングで、ミコトくんから電話がかかってきた。
『館のみんなへのおみやげって、何が良いと思う』
 電話の向こうはがやがやしていた。駅とか繁華街にいるのかな、と思う。なんか腹立ってきた。さわさわ、と、窓の外で木々が揺れている。雨がばらららら、と、窓に打ちつけた。もう数日前のような秋晴れは、すっかりどこかへ行ってしまった。
「何でぼくに聞くの」
『何でって。ああ、でも、やっぱお菓子とかだと、キリないよなあ』
「知らないよ。玄関に飾る置物でも買えば」
 ミコトくんさあ、柄でもないこと、考えない方がいいよ。と、言う前に、ありがと、と電話が切れて、はあ、とため息が出た。何が、ありがと、だよ。ミコトくんは一人でも、楽しそうでいいなあ。ぼくは携帯をポケットにしまって、また二人がオセロをするのを眺めていた。秋雨の日だった。

 一通りの行事が終わって、羽鳥尊の家族と一緒に車に乗って、家へ帰った。皆無言であった。車内にはラジオも何も流れていなくて、ただ、タイヤが地面とこすれる音がしていた。
 すぐに夕飯作りますね、と、家に帰ると羽鳥尊の母は言ったが、俺はいらない、と答えた。
「もう帰るから。明日、絶対出なきゃいけない授業あるから」
 口からでまかせを言って、俺はこの高層マンションをそそくさと抜け出した。おみやげなるものをまだ買っていなかったことを思い出して、東京の中心部へ向かった。休日の昼だったので、人が多かった。羽鳥尊も俺も、おみやげを選ぶ、という体験をあまりしてこなかったので、とりあえずクララに電話してみる。実は、メッセージを送るか迷っていたのだが、ワンコールで繋がった。ワンコールで応答した割には、不機嫌そうだった。が、別に気にならなかった。もう家を出てきたという事実が嬉しかった。
 俺は街中のセレクトショップで、空色のハンカチを選んだ。まったく東京らしさも日本らしさもないハンカチ。でも手触りが良いから、これにする。館の全員におみやげをプレゼントするなんて、もう業者との取引レベルだし、かと言ってクララに言われたようによく分からない置物を買うのも癪だ。これはクララへのお土産。他の人は、――別にいいか。
 さっさと空港に向かって、さっさと日本の領土から離陸する。館を出た時と、ほとんど荷物は変わっていなかった。ただ、青いハンカチが一つ増えただけ。
 飛行機の中で、少しだけ寝た。夢から覚めると、やけに目尻に涙がたまっていて、一度まばたきをしただけで頬にこぼれた。飛行機の窓から見える空は綺麗なシアン色をしていて、俺はきゅっと唇をつぐんだ。

 ミコトくんが館に帰ってきたのを、二階から眺めていた。どこかそこら辺の美術館に行ってきたような恰好で、館の門をくぐっていた。出かけて行ったときと何も変わっていなかった。
 ミコトくんは、この二日くらいいなかったことが嘘のように、すんなりと館の生活に溶けていった。何も変わっていないから、当然か。でも、ぼくは違うよ。
 ぼくは小食、なので、今日の夕食ももそもそと食べていた。いつの間にか、食堂には人がほとんどいなくなっていた。蒼とキリネも、またあとでね、と、どこかへ行ってしまった。お昼は食べなかったから、食品ロスの罪悪感からも、この皿くらいは完食しておきたいんだけど、あとちょっとなのに、お腹いっぱいだ。と、いうところで、ミコトくんはぼくの目の前の席に座った。
「何」
 ぼくは、ゆでニンジンに突き刺したままのフォークを皿に置いた。数日ぶりに近くで見るミコトくんは、おかしな感じがした。いや、ぼくがおかしいだけか。腕の裏に走っている血管が、どくどくと言っているような気がした。
「何って、はい」
 ミコトくんは、テーブルの脇に、紙袋に包まれたものを差し出した。
「何これ」
「ハンカチ」そう言われて、手に取ってみると、紙袋越しに、ふかふかした感触が伝わる。「ハンカチって、別れのときに贈るらしいけどさ、純粋にこのハンカチいいなと思って買っただけだから、たまに使ってやってよ」
 何で今、そんなこと言うわけ。何で別れとかいうワードを出すのかな。別に今言わなくてもよかったじゃん。ぼくの心は意外とまだ繊細なんだよ。とか、紙袋をぎゅっと手に持ちながら思っていて、そこで初めて、なんとなくさびしかったことに気づいた。その恥ずかしさに、今、組みかかって、ミコトくんの胸にフォークかナイフでも突き刺してやろうかと思った。でも、まくったシャツの袖からちらりと覗くリストカットの痕を見て、できなかった。
「ねえ、その腕、いつからなの」
 ぼくはミコトくんにささやいた。
「いつからって、ずっと前から」
「知らなかった」一度そう口に出してみたが、また言葉があふれてくる。「知らなかった」
 そうすると、心から何かがすうっと引いていくようだった。もうすっかり日は暮れてしまっていたけれど、目を閉じると、高い秋の空が見えた、ような気がした。

texture: エンドロールには僕の名を射止めて/ Garnet様

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