金木犀の香りを嗅ぐまでが夏で、嗅いでからが秋だと思いたい。嗅ぐその時まで、わたしはまだきっと、夏にいたまま。
 今年の夏は、なんてことなかった。雨の日に外を歩いていて、うっかり靴をどろどろにしちゃったり、階段を一段踏み外したりしたけれど、そのくらいのことがあっただけで、なんてことはなかった。むしろ、そのくらいの毎日がいい。夏だからといって、派手なイベントが起きることを期待してはいない。
 その、安穏な夏はもう終わろうとしている。談話室の一人掛けのソファで、わたしが本を読んでいると、都さんと雛伊さんが「あのー、三角公園の方歩いてたらな、金木犀のあまい匂いがしてん」「あの公園の近く、金木犀植わってますものね」と話しているのが聞こえた。三角公園の方に金木犀があるんだ、と思いながら、わたしは本のページをめくった。ぱさ、と夏らしい乾いた音がした。




 「暑いわね」

 雛伊さんが、綺麗な模様が描かれた扇子を翻した。ふわりと柔らかな風がじとじとした空気を追い払う。それでもやっぱり暑さなんて変わらないから、雛伊さんはこれまた綺麗に折りたたまれたハンカチで頬を拭う。わたしはそれを横目に服の裾をすこしだけはためかせた。わたしが視線を逸らしてから、もう一度彼女の方を見ると、彼女もまたわたしを見ていた。きゅっと口角を上げてみる。彼女もまた、口角を上げた。
 今日は9月に入ってまだ3日目の昼間。お仕事の方は入ってなくて、久しぶりのオフだった。それを知ってか知らずか、誰かが仕事で免除されていた館での給仕担当が入っていて、わたしは買い物に出かけていた。フィーちゃんは洗濯物を、ジュリちゃんは料理を任されていたような。うーん、すこし、心配。まあでももう一人担当がいるだろうし、館がボロボロにならないことだけを祈っていよう。きゅっと横に垂らしていた手を握りしめた。すると、となりで歩いていた買い物担当のもうひとりである雛伊さんがわたしの一歩前に出た。つられるように視線をあげると、彼女はわたしをじっと見つめている。

 「貴方は暑くないのかしら」
 「ううん、暑いのは暑いけれど…汗かかないタイプだからそう見える、のかも」
 「いいわね。わたくしもあいどるになれば、汗、かかなくなるかしら」

 うふふ、と冗談めいた表情。扇子で半分は見えなくなっていたけれど、細められた目元からして、笑っているのだろう。わたしはアイドルだから汗が出ないわけじゃないけれど、雛伊さんがアイドルになったら、確かに汗は出なくなりそうな気がした。…でも、そうじゃなくて。そうじゃなくて、たとえ雛伊さんがアイドルじゃなくたって、わたしはかまわないと思う。

 「雛伊さんは綺麗だから、大丈夫」

 考えることもなく、さっと言葉が流れ出た。大丈夫、大丈夫だと、わたしは思う。みんな等しくそうだと言ってしまえばおしまいだけど、雛伊さんは特に大丈夫だって思ったから。なんでわたしがそう思ったのかは分からない、けど。

 「あら。お上手」
 「だって、嘘じゃないから」

 ぱちりと目を丸くして瞬きを繰り返した彼女はふにゃりと八の字に眉を傾けた。少し恥ずかしげに、けれど控えめに。わたしの言葉をかわして彼女は目を逸らした。わたしはその言葉に被せるように、嘘じゃないことを強調する。本当のこと、だから。それでも彼女は困った笑みを崩さない。
 つつ、と首筋に流れた汗を拭う。彼女は先程と同様に扇子を翻して言葉を繋げる。あと一歩の距離が不自然に縮まって。

 「お気持ちは嬉しいけれど、それでもわたくしは諦めたくありませんの。あるよりない方が良いですし、何より」

 「好意を抱いている女性には、少しでも美しく見られたいじゃない」

 近付いた体が、顔が、わたしの耳許に寄り添う。小さく囁かれた言葉は、どんな言葉より、どんなものより魅惑的だった。心臓が、ぞわりと逆立つ感覚。思わず彼女の肩に触れて、ぐっと一歩引いた。彼女は案外抵抗もなく離れてくれたけど、相変わらずわたしを見てにこりと微笑んでいた。
 その瞬間、すわ、と鼻腔があまったるい香りに包まれる。これは、香水だ。酸味も爽やかさもない、ただただあまい、金木犀の香りだ。わたしがつけているものとおなじ、だった。
 でも、わたしじゃない。わたしは仕事のときにだけつけているのだから。じゃあ、何故?

 「貴女とおそろい、よ」

 問に答えるように、わたしの心を読んだかのように、彼女が口を開いた。彼女の扇子が翻される、あまいかおり、貴方の紅いくちびるが弧を描いた。わたしがつけているより随分とあまくて、初めての嗅ぐような感覚。雛伊さんがつけたら香りも変わるのだろうか、いや、そんなことはないはずなのに。香水なんて誰がつけてもおなじ香りがするはずなのに。じゃあ、何故?

 「――雛伊さん、」

 蝉も消えたあおい夏が、雛伊さんのせいで、秋になってしまった。








 ──────

金木犀の香りを嗅ぐまでが夏で、嗅いでからが秋だと思いたい。嗅ぐその時まで、僕はまだきっと、夏にいたままだ。
 今年の夏は、なんてことなかった。雨の日に外を歩いていて、うっかり靴をどろどろにしちゃったり、階段を一段踏み外したりしたけれど、そのくらいのことがあっただけで、なんてことはなかった。むしろ、そのくらいの毎日が好き。夏だからといって、派手なイベントが起きることを期待してはいない。
 その、安穏な夏はもう終わろうとしている。談話室の一人掛けのソファで、僕が本を読んでいると、都さんと雛伊さんが「あのー、三角公園の方歩いてたらな、金木犀の匂いがしてん」「あの公園の近く、金木犀植わってますものね」と話しているのが聞こえた。三角公園の方に金木犀があるんだ、と思いながら、僕は本のページをめくった。ぱさ、と夏らしい乾いた音がした。

↑ここまでが出だし
↓これがオチ(オチっていうか、ラストシーン)
 
「――シャロさん、」
 まだ金木犀の香りを嗅いでいないのに、シャロさんのせいで、秋になってしまった。

あめ注釈
・べつにシャロさんじゃなくていいし一人称は僕じゃなくていい
・シュプレヒコールとシガレット←タイトル候補らしいがこれじゃなくていい
・かっこいい人だなあ、と思っていた。←この一文もいれたかったらしい
・『ラヴ・アンド・ピース』と一緒に書いて二本立てにしようとしてたらしい





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