抗っても、抗っても



※ゆるい嘔吐シーン

 海を見に来たら、帰れなくなった。なぜ海に来たのかは忘れた。もう九月も半ばころで、浜辺に人はほとんどいなかった。それはそれで静かでよかった。けれど、海で死のうとしてるわけでもないのに、帰れなくなるなんて、畜生。いや、もう死んでいるも同然か。
 なぜクララと一緒に来たのかも忘れた。いや、それは嘘、全部覚えてる。俺が、軽く、海いこーぜ、って、八月上旬ぐらいに言ったのを、今日の昼飯食べてる時に思い出して、急にクララを連れ出したんだった。
 つい二時間前くらいに何事もなく降りた駅だったが、今は、『人身事故により終電まで運休』と書かれた看板が改札前にぽつんと置いてあった。辺りはがやがやしていて、皆携帯電話を耳に当てている。クララもどこかに電話していた――いや、どこかって、たぶん、館か。「あー、シャロさんが車で迎えに来てもいいって言ってくれてるってこと?……」と、クララは電話を耳元からはずして、ちら、と俺を見る。黄昏時の薄い闇に溶けてしまいそうな金髪が揺れた。
「俺はとりあえず今日は帰らないって言っといて」
「え」
「せっかくだから、どっか泊まって明日のんびりしてから帰るわ。もし明日も電車復旧してなかったら、適当に自転車見繕ってサイクリングして帰る」
「タフすぎ」
 と、クララは笑った。「いや、適当に過ごして明日帰るよ――うん。――大丈夫。じゃあね、ばいばい」そう言って、クララは電話を切った。
「――じゃあ、僕もそうすることにしたから」
「ふうん」
 理由は聞かなかった。なぜ、どうして、なんでなの。これらの禁句はたぶん、クララと俺との間での暗黙の了解で、そうやって二人の間に線を引くことに、意味があった。
「それで、野宿するの」
「さすがにそれはない」

 適当に駅の周りを歩いてみると、すぐにビジネスホテルが見つかったので、とりあえずそこに入ってみることにした。
「そういえば、お金持ってるの」
 自動ドアをくぐりながら、それとなくクララに聞いてみる。ふわりと空調の効いたひんやりとした空気が、俺の頬を撫でた。
「いやあ、あんまり」
「そっか」
 受付で部屋の空きをたずねると、ダブルかツインしかないと言われたので、ダブルを選んだ。金持ちの息子である羽鳥尊の財布からすべて支払われるとはいえ、割高なツインは見送ることにする。ダブルにしたから、とクララに言うと、「僕は寝ないから、シングルで良かったのに」と言われた。再び、そっか、返事しておく。
 部屋に着いて靴を脱ぐなり、クララはベッドの上に座って、ぽよぽよと飛び跳ねだした。僕は寝ないから、とさっきまで言っていたくせに、ふかふかだよ、とか呟いている。それは見ればわかる。夕飯は食べるのかと聞くと、いらないと言われたので、俺はひとりでコンビニに向かった。
 ホテルの隣のビルのコンビニは、無機質な明るさを煌々と放っていた。夜だというのに、館にいないのは、不思議な感覚がした。そこで気がついた。そんな感覚がするほど、館での生活に慣れてしまっていることに。俺は心底、寒気を感じた。寒気というか、吐き気というか。死んでいるのに生きていることへの違和感に似ていた。俺もいつか、本当に羽鳥尊になってしまうんじゃないのか、と、羽鳥尊の茶色い革財布を開きながら思う。「お会計は、二百三十一円です」という、肌の黒い店員の言葉と引き換えに、俺はレシートとカップラーメンを得た。レシートは捨てて、カップラーメンだけを抱えてコンビニを出る。
 なんとなく、ホテルに戻る気にならなくて、俺は見知らぬ街の夜を歩き出した。都会というわけでもないが、田舎というわけでもない。さっきの駅の前を通り過ぎた。ロータリーにはタクシーがたくさん止まっていた。そのまま、今日の目的地だった浜辺の方へ向かった。歩を進めるほどに、ざん、という波音が近くなっていくのが良かった。街灯が等間隔に点いているのも良かった。
 俺は海岸沿いの道から、夜の海を見下ろした。一時間くらい前には、クララと一緒にここに立っていたのに、今はひとりだ。街灯の光にかろうじて、砂浜と海の境目がわかる。海と空の境目は、もっとわからなかった。黒々とした世界の向こうで、海と空は一つになっているのかもしれない、と思ってみる。大体、同じ宇宙だし。全部一緒になっちまえばいいのにな。俺はため息をついた。吐き気みたいなものは、少しだけ収まっていた。

「遅かったね」
 ホテルに戻ると、クララは備え付けのパジャマに着替え終わっていた。シャワーを浴びたらしい。これまであまり疑問に思ってこなかったのだが、クララは入浴の必要性がある霊なのか。入浴の必要性がある霊って存在するのか。いや、霊にも色々いるか。俺が霊の時は違ったけど。
「何買ったの」
 ぐでん、と、クララはベッドに横たわりながら言った。ベッドには、もう、入室した直後のぴんとした空気感はなくなっていた。
「カップヌードルの、レッドシーフード」
「うわ」
「何だよその顔」
「ミコトくんとカップラーメンって似合わな、と思ったから」
「ああそう」
 俺はデスクのそばの椅子に座って、カップラーメンの蓋を開けた。かやくを入れて、給湯器のお湯を注ぐ。三分待つ。「それで、何なら似合うわけ」「何だろう、桃かな」
 ベッドの脇にあるテレビには、ニュース番組が流れていた。俺が外出しているうちに、クララが点けたらしい。俺らをこの狭い部屋に宿泊させることになった原因の、あの人身事故についての速報が流れた。『列車の脱線により、死者は四名、負傷者は三十一名出ており、運転再開のめどは立っておりません』という男性アナウンサーの重い声が、俺たちに沈黙を作った。今日も人間が死んだ。
 そうこうしているうちに、三分経ったので、コンビニでもらった割り箸を割って、なんとなく麺をかき混ぜてみる。ほんとに何も食べないの、と、クララに言うと、じゃあ一口だけちょうだい、と言われた。部屋に置いてあったコップに、麺を分け取ってやると、もそもそ、とクララはベッドを這い出た。
「カップラーメン食べすぎると眠くなるから、一口じゃなくてもうちょっと食べてくんない」
「いいけど」
 いいけど、それならカップラーメン買わなきゃよかったじゃん、という目を向けられた。コップにもう二口分くらいの麺を入れて、箸ごとクララに渡す。クララは立ったまま、麺をすすって食べた。
「うまい?」
 ずず、とすすった麺をかみ切ってから、クララはやや首を傾げた。
「うーん、ちょっと辛い――もしかして、毒見役にされてる?」
 まさか、と笑った。はは、と、切なそうにクララも笑った。クララは、幼馴染の前でもこうやって笑うのだろうか、と、考えてみる。でも、それは俺にとってはどうでもいいことだった。過去なんかどうでもいいんだ、俺も。今、この瞬間が大事なわけ。俺はクララから箸を受け取って、自分の手元のカップに残った麺を勢いよくすすった。

 僕は寝ないから、と言っていたクララも結局、二十三時になると、ベッドで横になった。俺もベッドで横になった。電気は消した。暗闇の中、ふたりとも仰向けに寝転がって、明日のことを考えていた。
「もし明日電車動かなかったら、サイクリングで帰るって考えてたけど、クララってほんとにサイクリングできるわけ」
「無理だよ」
「無理、かあ……」
 もぞ、と、クララがこっちに寝返りを打つ気配がした。
「ここで成仏すれば、簡単に帰れるのにね。どっちの方が無理なんだろうね」
 俺は、サイクリングの方が簡単だろ、と黒々とした天井に言い放った。それはミコトくんだからだよ、と言われた。首だけ、クララの方に向けてみた。すると、クララはぎっと布団を引っ張った。顔を布団にうずめるような、髪と布と肌のこすれる音がする。
「ああ、気持ち悪」
「何が」
「純粋に、気持ち悪」
 うう、と言って、クララは急にベッドを這い出た。何、何、と思って、俺は枕元にあった部屋のリモコンで電気を点けた。ぱっと明るくなった室内に、トイレの方へ駆けて行くクララの姿が良く見える。俺も布団を投げ出して、クララを追いかけた。
 クララは、トイレ兼浴室のドアを開けたまま、便器を抱えるようにしがみついて、苦しそうに吐いた。俺は背中をさすってやった。涙を一筋流しているクララに、右手でそっと頬を包まれる。夜の海のように、何かがぼんやりとしていくのを感じた。それでもただ俺は、あまりあたたかくないクララの背中に、ずっと手を置いていた。

texture: ふたりで微睡む泥濘のこと/ Garnet様

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