朝、双眼は夏を映して


 
「今日は腕によりをかけて? よりを腕にかけて? つくったんですヨ!」
 そう言ってやーちは鼻を鳴らした。午前七時、本当はまだもう少し寝ていたい時間なのだが、朝型の彼女にはわたしのそんな意を汲み取る能力はないらしい。大層機嫌の良さそうな足取りで盆を運んでくる。今ちょっとバランス崩さなかった? それ食べるのわたしなんだけど。
「レイさんのためだけにつくった特別な朝ごはんです! モーニングランチ! ランチ? ランチはお昼ですヨネ、えーとモーニング………………ミール?」
「……ブレックファーストって言いたい?」
「! 多分それだと思います!」
 なんとか崩さずにわたしの前に盆を置くと、彼女は今日の快晴にぴったりの眩しい笑顔で振り向いた。その顔を見ると、ああ夏が似合う子だな、と思う。夏は暑くてだるくて何せ気分が乗らないけれど、この笑顔を最高のバケーションで拝むことができるなら、夏も悪くないような気がした。……いや、こんなことを思えるのは、今が朝で、まだ少しだけ風が涼しいからだ。前言撤回。わたしは多分ずっと、夏を心からは好きになれない。
「あ、そーいえば、レイさんの好みとか全然聞いてなかったですヨネ? 何か嫌いなものとかありました?」
「ううん、大丈夫。美味しそう!」
 彼女が用意してくれた朝食は洋食だった。わたしの中でなんとなく、彼女は和食が好きなイメージがあったので少し面食らってしまう。だってほら、やーちが味噌汁すすったり納豆かき混ぜたりしてる姿って、すっごく想像しやすくない? そうでもない? ああそう。
 トーストは若干焦げていたが、わたしはそっちの方が好みだから問題なし。その上に乗っかった目玉焼きも綺麗な半熟――というには火が通ってなさすぎる気もするが――で美味しそう(まあ仮にほぼ生だったとしても、卵かけご飯なんてものが存在するんだから気にするほどのことではない)。サラダはレタスやトマトを盛り付けただけなので特に言うことはないが、お店で出されるワンプレートの付け合わせにも似ていたので、彼女には意外と盛り付けのセンスがあるようだった。横のコーンスープは……え、夏にコーンスープ? こんなに湯気たってるのに夏に? まあいいか。横のコーンスープは多分、市販のものだろう。あとは、透明なコップに注がれたただの水。全体的に見て、量も重さもちょうど良さげだった。
「ちなみにそのコーンスープ、あたしが今日のためだけに育てたとうもろこしでつくったんですヨ」
「えっほんとに!? なにぃその行動力」
 どう見ても市販の粉末でつくったものと遜色ない出来だったので、わたしはまた面食らうことになってしまった。それはさておき、この一食のためだけに、もっと言えばわたしのためだけに、そんなに器用ではない彼女が野菜を育てるなんて手間のかかることをしてくれたのはまっすぐに嬉しかった。今思えば、中庭の畑に見覚えのない苗が埋まっていた気がする。誰かの趣味か何かだと思って気にも留めていなかったが、まさか今日の布石だったとは。
「凄いじゃん、ありがと」
「えへへ、レイさん相手だけの特別ですヨ? ていうかほら、冷めないうちに早く食べてください!」
「うん、わたし的には冷めてくれていいんだけど。特にコーンスープが」
 彼女が参考本片手にとうもろこしの世話をしている姿を想像すると、自分の猫舌が恨めしくて仕方がない。しかし時間が経てば経つほどスープの前にパンが硬くなってしまいそうなので、諦めて手をつけることにした。
「いただきます」
「はい! 召し上がれ!」
 喜色満面、といった様子のつくり手に見守られながらの食事は些か居心地が悪いような気もしたが、できるだけ考えないようにした。
 かけすぎだとお兄ちゃんに怒られるくらいにソースをかけた後、箸で卵の黄身を潰す。話しているうちに少し固まって具合が良くなった黄身は、お手本のようにパンの上にとろりと流れて広がった。口に入れる直前にもう一度いただきますを言って、やっぱり硬くなってしまったパンを齧る。まず驚いたのが、パンの硬さが卵の柔らかさでちょうど相殺されたというか、プラマイゼロになっていたことだ。こういうちょっとした奇跡を起こせるのも彼女の成せる技な気がして楽しくなる。
「超美味しい! 目玉焼きつくんの上手いじゃん!」
「エーほんとですか!? あんまり自信なかったので嬉しいですー!」
 サラダは――うん、やっぱり特に言うことなし。強いて言うならこのドレッシングが美味しい。またパンに戻ると、黄身の中心部に差し掛かる辺りで手を止め、脇役からすっかり目玉へと昇格してしまったコーンスープへ意識を移した。わたしがスプーンを手に取ると、やーちが心なしか緊張した面持ちに変わる。そんな顔しなくても、もし美味しくなくても酷評とかしないのに。
 念の為少し息で冷ましてから、スプーン一杯分のスープを口に運ぶ。見た目と同じく、売り物とさして変わらない味だった。
「え、凄い美味しい。お店のやつみたい! やーち、売れるよコレ」
「えェヤダァ! そんなそんな、天才だなんて!」
「そこまでは言ってないけど」
 熱さはそうでもないというのがわかってからは早かった。やーちが隣で何か喋っていたが手を止める気にはなれず、黙々と食べ進める。こんなにしっかりと朝食をとるのは久しぶりだ。日の位置が徐々に高くなっていくのも相俟って、体温が上がっていくのには不快感を覚えたが、もうそこまで気にはならなかった。
 食べ終わる頃には、垂れた黄身で手がべたべたになっていた。普段はこういうのをいちいち気にするたちなはずなのに拭うことをしなかったのは、それほどこの食事に夢中だったことの証だ。最後にごちそうさま、と手を合わせると、やーちが興奮気味に喋り出す。
「レイさん、い〜い食べっぷりでしたネー! お粗末さまです! ……で、合ってます?」
「合ってる。でもほんとに美味しかったよ」
 せめて皿を下げようとしたけど、彼女が「いーですいーです!」と言って譲らないので大人しく引き下がる。ふと時計を見ると七時四十分。目の前に夢中で気が付かなかったが、食堂にも早起きの連中がちらほらと現れていた。
「そういえばやーちは? 朝ごはん。食べないの?」
「えっ? あ、あー……」
「……え何、どうしたの」
 突然歯切れが悪くなってしまった彼女は、もじもじと身体の前で手を組んだ。
「ぁえーっと……や、実は、……その、レイさんに絶対、美味しいと思って欲しくて。……いっぱいしさく? して味見してたので、その、お腹いっぱいなんですヨネ……」
 さっきまで元気溌剌で、なんだったら少し喧しいくらいだった勢いはすっかりどこかへ行ってしまった。わたしから視線を逸らして頬をぽりぽり掻き、ばつが悪そうにしている。
「…………え、何それ、ちょー可愛い」
「へ?」
「わたしのためにそんなにしてくれたんでしょ? 嬉しい!」
 まだ恥ずかしそうにしているやーちの手を取ってそう言うと、彼女はわかりやすく破顔した。うん、やっぱり夏っぽい。花が咲くみたいな――なんて月並みな表現だけれど。そのかんばせの輝きが失われないうちに、わたしは畳み掛ける。
「すっっごい嬉しいし、すっっごい美味しかったからさ。またつくってよ、やーち特製モーニングミール」
「もお、ぶれっくふぁーすと、なんでしょ?」
 けらけらころころ笑ってくれるのが嬉しくて、こっちまで口角が上がる。その時、偶然にも陽の光が彼女の顔に当たっていた。明るく照らされるその笑顔を見て、やっぱりこれも奇跡のひとつか、と思った。夏は好きになれないと断言したけれど、その思いはまた揺らぐことになりそう。だって夏じゃなきゃ、この顔を見てもこんなに充足を感じることはない。
 不意にやーちが手を叩く。触れていた温もりがなくなって、少し寂しいと思ってしまったのは内緒。
「とうもろこしまだ余ってるので、茹でておやつに食べませんか?」
「いいね! わたし焼いたやつがいい!」
 二つ返事でそう答えると、彼女はいかにも嬉しそうな顔をした。背も高くて涼し気な顔立ちをしている割に、そういう顔は子供っぽくて可愛いと、わたしは密かに思っている。ここがみんな集まる食堂でなければ、キスのひとつでもしていたかもしれない。せっかくなら外で焼いて、バーベキューみたいにしてしまうのもいいかもなあ。――あでも、やっぱり二人っきりがいいからナシ。
「やーち手作りのおやつまで食べちゃったら、わたしの体、どんどんやーちでできてくね」
「………………その言い方、なんかちょっとえっちですネ?」
「あは、そんなのどこで覚えてきたの!」
 やっぱり子供っぽい彼女の背中を押してキッチンに入る。洗い物は二人でした方が早いし、何より彼女と一緒なら雑用でも楽しい。やーちはまだ遠慮していたけど、わたしは今度は引き下がらなかった。明日はわたしが朝ごはんをつくろうかな、なんて思ったりもしたけれど、きっと起きれないからやめた。それに優しいやーちのことだから、もし悲惨なことになっても美味しいと言ってくれるんだろう。わたしはそれを望んでない。わたしはただ、彼女が心から楽しそうにしてくれているのが見たいだけだから、嘘はいらない。彼女の夏が、彼女の朝が、あの蒼い目の輝きが、失われなければそれでいい。






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