夏の朝、二人分のバターのかおりのする



※1715(高2高1)学パロ

 柳田、夏休み、軽井沢行かない? ――そう佐藤先輩に言われたのは、期末考査明けの部室でのことだった。俺は六月頭くらいから、ドライポイントにはまっていて、先輩に急に話しかけられたときも、ニードルで黙々と銅板に傷をつけていた。顔を上げると、制服の長袖シャツを腕まくりして、絵の具で汚れたエプロンをつけている先輩が立っていた。美術室はクーラーがついているとはいえ、夏でも長袖とかすげえよな、と、なんとなく感心した。
「はあ、どうして」
 俺はニードルをかたんと机に置いた。机の端の方へころころと転がっていかないように、そっと。
「版画やってる伯父が、軽井沢に別荘、っていうかアトリエ持ってんの。で、泊まりに来ないかって言われた。柳田もどう」
「別に先輩、彼女と行けば良いじゃないですか」
「伯父、女の子連れてくの嫌がるんだよねー」「でも、伯父と二人きりってのもさあ、つまんないじゃん」
「暇つぶしに連れて行くのが、俺で良いんですか」
「いやあ、他の理由としてはねえ、この美術部で一番料理できそうで、まともだから」
「はあ」
「伯父料理できないからさあ、ほっとくと、三食ピザとかになっちゃうんだ。料理担当が必要でしょ」
 はあ、しか言えなかった。軽井沢くらいなら、いくらでもフードデリバリーとかありそうだけども。「で、行かない?」と、先輩は、これまで数多の女性をアリクイの巣の底へ引き下ろしてきたであろう笑みを浮かべた。正直、俺は気になっていた。先輩のことじゃない、先輩の伯父の版画家のことである。今、確実に俺の中でブームが来ているのは版画である。頭にカレンダーを浮かべても、夏休みにこれといった予定は何にもなかった。料理くらいならやれる。「行きます」と、俺は即答した。

 ――と、ここまでが、七月初めの出来事である。時は過ぎ、あれから一か月後の八月初め。俺はなぜだか、ここ三時間くらいずっと、椅子に座って足と腕を組む、という体勢を取らされている。そう、ここは軽井沢、先輩の伯父さん――タカノリさんのアトリエの一室。軽井沢駅からタカノリさんのアトリエまで、車で送ってもらっている時、急に俺をモデルにしてデッサン会をすることが決まった。タカノリさんはクーラーが嫌いらしく、この部屋には扇風機があるのみ。首に冷感クッションを巻くことは許されているが、汗をぬぐうなどポーズを崩すことは許されていない。避暑地とは言え、軽井沢もそこそこ暑く、控えめに言って地獄である。タカノリさんと先輩は、椅子に座っている俺をモデルに、黙々とデッサンをしていて、時折水を飲んでいる。ずるくねえか。俺、なんとなく美大とかでモデルのバイトとかしてもいいかなーとか思っていたけど、夏はやべえな。死ぬ。考えが甘すぎた。まあ、俺なんかモデルにしたって意味ないか。向こうも俺よりずっと魅力的な人をモデルにしたいと思ってるに決まってる、例えば、先輩とか。
 ま、今日は一旦やめにしようか、と、タカノリさんが眼鏡をかけ直した。俺はどはっ、と息をついて、椅子の上で膝を抱え込む。窓の外に見える林の奥に、夕焼けが張り付いていた。ここに着いた時は、空が真っ青だったのにな。時間ってマジで溶けるんだな。
「ああ、ちょっと取ってくるものあるから、少年たちはここで待ってて」
 タカノリさんは、ひょろりと椅子から立ち上がって、どこかへ行ってしまった。部屋は俺と先輩の二人きりになった。二人きり、と言っても、辺りにはタカノリさんの作品がたくさん置かれていて、二人きり、という感じはほとんどしない。都会のざわめきの中にいるみたいだ。
「先輩、このあと俺、絶対アイスとかもらえると思いませんか」
 俺はタオルで首のじんわりとした汗を拭いながら、先輩に話しかけた。先輩はというと、足を組んで、理科室にありそうな角椅子でリラックスしていた。んー、と、先輩は肩を竦めてこっちを見る。
「もらえないんじゃない」
「なんで。頑張ってるのに」
「いや、かわいくないから」
 それは先輩の価値基準でしょ、とツッコミを入れたくなったが、ちょうどタカノリさんがやってきた。アイスではないが、コップに入った氷入りの麦茶を、先輩と俺にくれた。飲むと、冷たさが食道から五臓六腑に染みわたって、生き返る心地がする。
 そうそう、と、タカノリさんが、A4の紙をぺらりと見せる。駅の近くのイタリアン料理店の、テイクアウトのメニューのチラシらしい。
「今日の夕飯はピザ頼もうと思ってて。少年たちは何がいいの」
「アンチョビとオリーブのピザ」
 タカノリさんが質問するや否や、先輩は即答した。アンチョビって何だか分からないが、即答するくらいなので、先輩の好みであるらしい。
「そんなピンポイントであるんすか」
 俺は得体の知れない『アンチョビ』というワードに引っかかっていたが、タカノリさんは紙を凝視して、『アンチョビ』というものを懸命に探していた。
「あー、あった」と、しばらくして、タカノリさんがメニューの左下の方を指す。
「軽井沢ってすげえ」と、俺は感嘆の吐息をつく。
「軽井沢をなめるな」
 軽井沢を代表しているような面持ちで、先輩が言う。そんな自信はどこから来るのか分からないが、実際、こんなに顔が良ければすぐにでも軽井沢観光大使になれそうなので、何とも言えない。
「柳田くんは?」と、タカノリさんが微笑んだ。やっぱり、先輩の笑みに似ている。
「えーと、ハワイアンって、ありますか」
「ああ、――それはないみたい」
「はあ……」
 軽井沢ってなんにもすごくねえな、と思ってしまった。急にパイナップルが恋しくなったが、どうしようもなく、もう一口麦茶を飲んだ。

 結局、アンチョビとオリーブのピザを一枚を頼むことにし、レモンのクリームパスタとジェノベーゼパスタも注文した。夕飯はそれらを三人で取り分けて食べた。夕食中、タカノリさんに、アシスタントは取らないんですかと聞いたら、僕、あんまり固定のアシスタントとか取りたくないんだよね。ほら、流動的でいたいじゃん――などと言われた。やっぱり先輩に似ていると思った。
 夕食後、俺と先輩の寝床について話し合ったところ、身内でない俺は客間で寝ることになった。この建物の中で、唯一クーラーがついている部屋である。先輩はタカノリさんと一緒に寝室で寝ることになった。しかし、クーラーがついていないと分かると、先輩は一気にテンションを下げた。ふと、先輩は俺を見つめ、何か言ってほしそうな顔をしだしたので、俺は顔色をうかがいながら尋ねる。
「先輩も客間で寝ません? クーラーあるから」
「もちろん」
 先輩がにっこり笑った。ああ、こういう一面だけを見せてるから、あんなに彼女が途切れないんだろうな、と納得する。それで別れたくなった頃に、適度に傍若無人なところを見せて、すっと関係を消滅させるんだろう、と想像してみる。世渡りとして、うますぎる。ずるすぎる。
 その笑顔を寸分も崩さぬまま、俺の目ん玉が飛び出るようなことを、先輩は言ってのけた。
「ねえタカノリさん、客間ってベッドあるんだよね。ふかふかの。――柳田、僕、ベッドでいい? 柳田は客間のソファとかで寝なよ」
 俺は、この人は、何か太陽の塔みたいな、人成らざるもので、そういう神みたいな権力を振りかざして、世界中の人間を米粒みたいに小っちゃくして、銅板のニードルの引っ掻き傷の間に隙間なく埋めて、それで紙にプレスしてっていう、そういう荒業が許されるような生物、万一そうでないならとにかく単なる頭のネジがゆうに百個はぶっ飛んでる人間なのではないかと思った。けれど、思い直した。俺は客人で先輩は身内。つけあがるな。ここは丁重に断るんだ、柳田ココ。
「申し訳ないですが、嫌です」
「なんで」
「なんでじゃないですよ。俺ずっとモデルしてたんですよ」
「……、ああ、疲れてるってこと?」
「そうですが」
「はあ」
 何だよはあって。先輩はめちゃくちゃ嫌そうに眉を寄せていた。けれど、俺も負けじと抵抗する。「嫌です俺、絶対ベッドがいい」「僕もベッドがいいんだけど。先輩に譲れよ」
 何かの画集を眺めていたタカノリさんが、ふと顔をあげて、ぽつりと言った。
「ベッド大きいんだから、少年たち二人で寝ればいいじゃん」
 えー絶対やだ、と先輩が言うのと、嫌ですっ、と俺が言うのが夜の軽井沢中に響き渡った、たぶん。

 夜、かくかくしかじかで、俺は先輩と同じ布団の中に入っていた。きっと、このことが世に知れ渡ったら、俺は世の女性に体中を少なくとも百回以上刺されて死ぬ。こわすぎる。先輩の服とかに、彼女が盗聴器とかしかけてませんように、と、祈るしかない。
 タカノリさんが言った通り、本当にベッドは広くて、たぶん、これがいわゆるダブルサイズだ。当初はここで一人で寝る予定だったのか、と思うと、それは寂しすぎるほど広いベッドだったが、だからと言って先輩と寝たいわけでもない。ああ。先輩も、かわいくもない俺なんかと一緒に背中合わせで寝ることになって、それこそつまらないのだろう。つまらないといえば、俺、タカノリさんとふたりきりはつまらないという理由で誘われたんだっけ。
「先輩、起きてます」
 暗闇の中、俺の背中の向こうにいるはずの先輩に声をかける。
「なに」
「なんで俺誘ったんですか、ここに」
 少しだけ汗をかきながら、そう質問する。若干、鼓動が早くなっている。なぜだか、自分はとても緊張しているらしかった。こうなると分かっていたなら、口に出さなければ良かった。クーラーの冷気が頬に当たることだけが、せめての救いである。
「えー……」と、先輩の間延びした返事が聞こえる。「明日の朝、フレンチトースト作ってもらおうと思って」
「はあ。……はい?」
 俺は思わず、先輩の方に寝返りを打った。夜の向こうに、先輩の顔がぼんやりと見える気がする。先輩の声が、いつもより近くで聞こえる。先輩と彼女との物理的距離感って、こんな感じなんだろうな。
「言葉のまんまだよ。フレンチトースト作って。卵液しみしみのやつね。一時間は漬けといて」
「こだわりあるなら、自分で作ればいいじゃないですか」
「やだよ。僕、起きたら朝食が出来てる世界線じゃないと生きていけないんだ」
「先輩ってよく彼女できますね」
「よく言われる」
 ははっ、と先輩は乾いた笑い声をあげる。
「でも、彼女がいても、別に絵とかうまくなんないよ」
 そうですか、と俺は言った。そこからはすっと、部屋が静かになった。ひとつだけ真実を言われた、気がした。俺はごそ、と枕元のスマホを取り出して、明日のアラームを一時間早めた。その後、そっと目を閉じて、まなうらの暗闇を見つめながら、眠りに落ちた。

 アラームが鳴ったので、目を覚ます。先輩を起こさないように、そっとベッドから這い出る。出来心で、先輩の赤ちゃんみたいな寝顔を、スマホのシャッター音の出ないカメラアプリで撮ってから、客間を出る。
 キッチンに向かう途中、アトリエを覗いてみたら、タカノリさんが床にうつ伏せになって倒れていた。まさか、死んでいるのかと背筋が凍ったが、寝言のようなことを口走りながら寝返りを打ったので、生きていた、と肩の緊張がほぐれる。
 本当に、変な空間に来てしまったなあと思う。使い勝手を知らないキッチンの戸棚を、端から端まで開け閉めして、器具の所在を確認する。冷蔵庫を開けたら、酒と卵とベーコン、バター、牛乳、しょうゆとわさびだけがあって、軽く絶望する。野菜はないのか、野菜は。けれど、八枚切り食パンが、作業台の上にぼん、と置かれているのを発見して、気を持ち直した。
 昨日の夜、先輩は、フレンチトーストは卵液がひたひたじゃないと嫌だと言っていたが、その常識をくつがえしてやろうと思って、俺が図書館の本から教わったレシピを思い起こす。
 まずボウルに、戸棚から発掘した砂糖と、冷蔵庫で発掘した卵と牛乳を入れて泡だて器で混ぜる。バットに移したら、フライパンでバターを熱しておく。ここで重要なのが、食パンは卵液にざっとくぐらせるだけ、ということなのだ。そうして食パンをフライパンで焼き、砂糖を入れておいたバットに入れ、トーストに砂糖をじゃりじゃりとからめるのである。
 四枚目を焼く頃には、もうバターのかおりがそこら中に広がっていた。それにつられてか、タカノリさんが起きてきて、おはようと言う。おはようございます、と言いながら食パンを袋から取り出した。
「朝ごはん作ってくれてるんだね。でもごめん、僕、朝に固形物食べれないんだよね。なんでかわかんないけど」
「はあ」
「もしかして、僕の分も作ってくれてた? そうだったら申し訳ない」
「いや、まだ二人分です」
「じゃあ良かった。僕、アトリエ戻るね」
 四枚目の食パンを卵液にくぐらせて、同様に焼いていく。砂糖をまぶす。二枚ずつ、皿に盛る。と、本当にちょうどできたタイミングで、先輩が起きてくる。
「ああ、柳田、おはよう――おお、やっぱり、起きたら朝食ができている世界線だ」
 少しとろ、とした目のまま、先輩はキッチンに入ってきて、自分の分の皿だけを持ってテーブルに持っていこうとする。いや、ついでに俺の分も持って行ってくださいよ、と、調理器具を洗いながら俺が言うと、不機嫌そうな目で、しぶしぶと二つの皿を手に取った。
 いただきます、と、四人掛けのテーブルに向かい合わせになって、先輩と朝ごはんを食べる。先輩が優雅な仕草で、ナイフとフォークをつかってフレンチトーストを切り分ける。先輩がフレンチトーストを口に運ぶ動作が、スローモーションのように見える。
 かた、と、先輩はフォークを皿に置いた。
「だめだ」
「だめでしたか」
 俺は思わず肩を落とした。何のために一時間早く起きたんだ。いや、俺の実力がないだけなのは分かってる――。
「あ、いや、おいしすぎて、だめってこと」
「あ、褒めてるんですね」
 俺は思わずはっと顔を上げた。唇に砂糖のじゃりじゃりを少しつけながら、先輩は幸せそうに微笑んでいる。
「一生作って、これ」
「え、それは無理ですよ」
 残念だなあ、と本当に残念そうに先輩は言った。「とりあえず、明日の朝もこれ作ってね」「嫌ですよ――卵もうないから、先輩が卵買ってこないと」「タカノリさーん、今日卵買ってきて」
 そう、先輩がアトリエの方角に叫ぶと、「わかったー」というタカノリさんの声が遠くから返ってきた。ああもう、と思った。先輩が笑っていた。やっぱり先輩はずるすぎる。しょうがないから、きっと明日もフレンチトーストを作る。今気づいたけど、俺って先輩のこと好きなのかな。いや、それはないな。俺も、先輩のように、目をくしゃりとさせて笑った。アトリエの朝には、バターのかおりが満ちていた。

TOP | AME
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -