誰そ彼



 どういうわけだか、暮れなずむ空の下、人気のない砂浜を歩いていた。何だか遠くまで来てしまったみたい。館からは海が見えないのに、今、目と鼻の先で波が打ち寄せている場所にいる。きっと今頃、館でキリネと蒼が心配しているんだろう。もしかしたら、していないかもしれない。水平線の際の、うっすらとしたオレンジ色の空を見ていると、もうどちらでもいいかと思った。
 ミコトくんは砂浜じゃなくて、海の水が足にぱちゃぱちゃ言うくらいの海の際を歩いていた。黒いスニーカーと靴下を片手で持って、短い海藻を脚にまとわりつけている。ぼくも裸足だった。さわさわと、粒の細かい砂に、足の甲までさらわれる。
 ぐき、みたいな音が足元からして、あっ、と思った。ざん、ざん、と波は絶えず押し引きしていたけれど、ぼくは立ち止まった。左手に持っていた靴などをばさっと地面に落とし、左足だけで立って、両手を使って自分の右足を左腿の上に引き上げる。やっぱり、とぼくは思う。足裏から、赤い血がたらりと流れていた。
 四歩くらい先に行ってしまったミコトくんの背中に、ねえ、と言う。ミコトくんは振り返った。
「血」
 ミコトくんはまず、眉をしかめた。たぶん、自分の腿に足を乗せるという、変な体勢をしているぼくを見てのことだろう。次に、目を見開いた。たぶん、ぼくの足の切り傷を見てのことだろう。
「えっ、まじで」彼にしては珍しく、あわてたように駆け寄ってくる。「大丈夫かよ」
 片足立ちでぐらついて、思わずうわっとミコトくんの白いTシャツの裾を掴む。
「そのうち止まるよ」下を俯くと、さっき足跡をつけた砂浜に、きらりと輝くガラスの破片のようなものがあった。「てか、何慌ててるの」
「俺、出したことないから。血」
「何それ」
 もう、ははっと笑うしかない。ふに、と足裏を押してみると、血がもっとたら、と垂れる。とりあえず、溢れている分の血液を指で拭う。でも、拭ったからと言ってどうにかなるものでもなく、ただ血で汚れた人差し指をふらふらと宙に漂わせているしかない。
「歩かない方がいいよな。雑菌入るし」
「でもどうやってここから動けば」
「おぶればよくね?」
 何と言っているか分からなかった。え、と、下からミコトくんの顔をのぞき込んだが、夕闇に暗くて何もわからない。「おぶる? ミコトくんが、ぼくを?」「そう」
 
 ミコトくんの背中に乗って、波打ち際から遠ざかっていく。ミコトくんは靴下とスニーカーを、濡れた足に無理矢理履いて、砂浜を横切るように足跡をつけていく。自分はまだ、血を流したままだ。
 海岸沿いに走っている道までたどり着くと、すぐにベンチが見つかった。ミコトくんはぼくをそこに降ろして、ミコトくんもぼくの左隣に座った。ぼくはさっきみたいにまた、自分の右足を腿の上に乗せた。夕日の残像がこびりついている空の仄明るさに、てらてらと輝いている血を、ミコトくんがくれたティッシュで拭う。このティッシュに雑菌はないのか、とは思うが、真水が辺りに見当たらないのでしょうがない。というか、人からもらったティッシュに文句をつける趣味もない。ぼくのトートの中に絆創膏があった気がする、と言ったので、ミコトくんはぼくの鞄を漁ってくれた。
「そういえば、いつから霊になったわけ」
 ちょうど、ミコトくんが絆創膏をぼくのバッグのポケットから見つけた時だった。ところどころが赤く染まっているティッシュをくしゃくしゃにして、ぼくはそんなことを聞いた。たぶん、黄昏時の海なんか見ているせいだ。でも、こんな話題を出せるのは、今ここにいるのがミコトくんだけだからだった。
「産まれた時から、死んでたからなー」
 はい、と渡してもらった絆創膏と引き換えに、ぼくの手からティッシュをひょいと持っていかれる。ぺりぺりと絆創膏を剥いて、足の裏に貼る。自分の足の皮膚は、思ったよりやわらかい。暑すぎたら、ぼくはここから溶けてしまうのかもしれない。今は涼しい風が吹いていて、その心配はなさそうだけれども。
 やっと、足を普通にぶらぶらさせることができた。やっと、普通にベンチに腰掛けることができた。やっと、水平線の遠くまでが見渡せる。もう空はほとんど蒼い。
「親は?」
「両親のことは、知ってる。両親は、霊になった俺のこと、知らない」
 ちょっとミコトくんが笑った気がした。ぱっと、道沿いの街灯が一斉に点灯して、ぼくはふっとミコトくんの横顔を見る。ミコトくんの髪が、夜っぽい風に震えていた。
「さみしくないの?」
「俺も何とも思わないし、誰も何とも思わない」
 ミコトくんは、足を組んだ。ざん、と、波音がする。ミコトくんさあ、足を組んだら、骨盤歪むんだよ。その癖、やめたほうがいいよ。ミコトくんはなんにも思わないかもしれないけどさ。ぎゅっと唇を閉じて、目を固く瞑ってから、言う。
「あんまりそういう強がり、しないほうがいいよ」
 ほぼ、自分自身への言葉だった。まなうらの暗闇の中で、規則正しい波の音と、ミコトくんの自嘲的な吐息が聞こえてくる。
「何それ」
「自分自身が、いつ本当に消えちゃうか、分かんないんだよ」
 ミコトくんも、いつ消えちゃうか、分かんないんだよ。とは、言わなかった、いや、言えなかった。ざん、という波音がしなかった。ベンチの座面に置いていたぼくの右手に、すっと他人の手が重ねられる。そして、ぼくの唇に、他人の唇が触れる。手も唇も、とても冷たい。ぼくは目を開けられなかった。やっと目を開いたのは、唇が離れてからだった。ミコトくんの、息をしていないような白い顔が、ぼくの顔の間近で、街灯の人工的な光にぼんやりと照らされている。ぼくの金髪が、ミコトくんの金髪に交じり合う。ああ。ぼくは言葉を飲み込まされたんだ。もう、蚊の鳴くような声しか出なくなっていた。
「あのさ、好きでもないやつに、キス、とか、しないほうがいいよ」
「そっか」
 何それ。何その返事。そのままずっと、ぼくは右手を握られていた。空の色はもうすっかり深い藍色に染まりきっていて、何も曖昧になることのないまま、日が暮れた。

texture: エンドロールには僕の名を射止めて/ Garnet様

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