溺れるオランジェット



 どうしてこうなったか分からない。使われていない部屋の、使われていない革のソファの上で、オレはこいつに――名前を呼ぶのさえ腹立たしいこいつに、馬乗りになっていた。張りのない革が、男二人分の体重に沈んでいく。オレはこいつの胸倉を掴み、頬を殴ろうとして、埃っぽい空気の中に拳を振りかざしていた。今に殴りかかるというその時、こいつは顔を横に向けた。たぶん、避けようとしてなのだろうが、オレには左頬を差し出しているように見えた。我に返って、こいつの服の襟を掴む手を緩めた。
 そこで初めて、アンディが苦しそうな顔をしているということに気がついた。自分の呼吸が荒いのにも気がついた。唇から涎が垂れそうなほど、何かを喚いていたことを思い出した。窓からの夕日が、アンディの腫れた頬を照らしている。オレの心臓がどくどくと言っている。どくどくどく、という心音は、海鳴りのようで、ああ、ともうう、とも言えないまま、後悔の波に呑まれて、額から汗が滴り落ちた。
「シンイくんは、トウモロコシ畑の中に立ったことはある?」
 ぽつ、と、アンディは風のように囁いた。思えば、この部屋の西向きの窓が開いている。どこからか線香のにおいがする。何でだ。何でだと思うことばかりだ。この世界も、どの世界も意味の分からないことだらけだ。
「……黙れよ」
 ほとんど唸るような声しか出なかった。今へたり込むと、アンディの身体の上に倒れ込むことになる。それを防ぐためには、獣になるしかない。アンディの詰まった襟を掴む手に、ぎゅっと力をこめる。きりきりと、薄いベージュ色の布一枚を超えて、自分の手にまで指の力が伝わっている。
「トウモロコシ畑に立つとね、自分より背丈の高い植物に囲まれて、上を見上げても緑と空ばっかりで、どこにいるか分からなくなるんだ」
 お香のにおいと複雑に絡み合うような、小さな声でアンディは言う。夕日がどんどん照り出して、部屋の電気は点けていないのに、勝手に明るくなっていく。目下のこいつは、オレが落としている影の中で微笑んでいて、気色悪い。そうだ、この笑みが気色悪いから、殴ったんだ。こいつの笑った顔なんか、見たくもねえんだよ。
「だから何だよ、死ねッ」
 死ねよ死ねよ死ねよ、と言って、思考回路が暗闇に呑まれていく代わりに、ふっと、一面の草原の中に立っているアンディの姿が脳裏をよぎる。さざめく緑に、アンディの姿が見えたり隠れたりを繰り返す。その景色もやがて、黒く塗りつぶされた。もう誰が死ねばいいのか、何も分からない。「死ねよ!」
「言っちゃだめだよ」
 そういう声が聞こえて、はっと目を覚ます。気づくと、もうソファの上にはいなかった。オレが先に転がり落ちたのか、それともアンディが先に転がり落ちたのか、ふたりしてカーペットの床に転がって、オレは正面から抱きしめられていた。引き剥がそうと思ったが、もがくほど、もっときつく締められる。
「そんなこと、僕以外のやつに言っちゃだめだよ」
 声はすぐ耳元で聞こえるのに、アンディの顔が見えない。どんな顔をしているのか何もわからない。ただ、抱擁によるこいつの体温を受け取り続けるしかない。地獄だ。この世は地獄だ。地獄に行っても地獄だ。
「何だよそれ、執着かよ、きめーんだよ、殺すぞ」
「言っちゃだめだよ、って、僕なら何度でも言ってあげるから。僕にだけ言うんだよ」
 またきつく身を寄せられる。苦しい、苦しい、苦しい。どこに行っても、どこを見てもこいつしかいない。トウモロコシ畑に立ったこと、あったな。そうだ。あった。今だ。
「もう、オレ、どこにいるか分かんねえよ」
 たぶん、ほとんど泣いていた。断じて、泣いたわけではない。ほとんど泣いていた。アンディの肩が濡れていた。草の海に溺れている。空は青くない。荒波にもまれていた。
「ここにいるよ」アンディが、一度もオレを殴ったことのない手で、オレの頭を撫でた。「大丈夫だよ」
 ゆっくりと、優しすぎるほど規則的に、アンディはオレの頭を撫で続けた。なので、やっと泣いた。人を殴るんじゃなかった、と、生まれて初めて思った。線香のにおいが止んでいた。夕日と夕風が部屋に満ちていて、赤子のようにアンディにしがみついているしかなかった。

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