「 ねぇ、ヴァレちゃん 」
時計が指すのは三時半、銀の匙戦争の後。紅茶一派が勝利を収め、リコットとレイの喜び合う声や、シークやミントの治療を呼び掛ける声の中で、ヴァレーニエはマスケット銃の手入れをしていた。傷はないか、安全装置はしっかり戻っているかを丁寧に調べ、ややほっとしたようにため息をつきながら仕舞ったところで話し掛けられた。やや細められたヴァレーニエの瞳から読み取れるのは、おおよそ誰だかは察しがついているような表情。くるり、振り向いて、アクセサリーの煌めくその姿に言葉を返す。
「 なんでしょうか、リクさん 」
「 ちょっとだけ、昔話…してもいい? 」
焦らす訳でも、はぐらかす訳でもなく、ただ…リクに合う表現かは分からないが、純粋に照れたようなその声。それを耳にすれば、彼女の眉が少し動いた。どうやら、リクの想いがいつもと違うことは伝わっているようだ。するとヴァレーニエはそっと目を閉じ、リクと視線を合わせないようにするとつかつかと部屋の外へ歩き始めた。館の大広間で話せる話題では無いのだろう、分かっているとでも言いたげなその姿。彼女から発される声にも、躊躇は一切みられない。
「 どうぞ。お好きなように 」
それを聞いたリクは一瞬、戸惑いを見せた。一瞬ではあったが、普段はっきりと動揺などしない彼にとって、とても大きなものだった。あるいは、彼にとってはそれほどのものなのかもしれない。ヴァレーニエはそれに気付いているのか否か、どんどん去って行ってしまう。かつんかつんと響く足音に、一瞬の焦りを無理やりに押さえ付けた表情でリクは一歩を踏み出した。ヴァレーニエへと近付いて行くにつれて、 “ 普段通り ” へと戻る。
やがてヴァレーニエは自室に戻り、椅子を引くと少し呼吸を置いた。やがて何事も無かったようにリクが入って来たことを見届け、扉を閉めてリクを見た。リクは自分のものだと言わんばかりにそれに座り、余裕を持った、しかしどこか影の射す表情で話し出した。その口調は童話を読み聞かせてでもいるように軽やかで、声色は怪談を読んでいるように重苦しさを含んでいた。
「 昔、フィクサーという1人の男がいました。彼はその名の通り “ 強者 ” でしたが、それと同時に圧倒的な “ 弱者 ” 、でもありました。彼は、… 」
と、ほんの少しリクが言葉を切ってヴァレーニエと視線を合わせ微笑んだ。合わせられたヴァレーニエは、眉をぴくりと少しだけ上げて「 聞いている 」の意を示した。お互いに口は開かない。しかし、思いは通じ合っていたと言えるであろう。
「 …子供時代にとても悪いことがあり、毎日のように眠れませんでした。眠ろうとすると強い自己嫌悪に苛まれ、自己の行動をどうにか忘れないと許されませんでした。それでも必ず来る明日は嫌で堪らず、ずっと自分の身代わりになるような何かを求め続けていましたが、それでいてそれが何かは彼自身も分かっていませんでした。 」
コバルトブルーに影が落ちる。慣れない敬語は彼の舌をもつらせている。珍しく不器用に紡がれる言葉を、ヴァレーニエは静かに受け止めていた。1つ瞬きをした後、彼女があなたの話しやすいように、と呟いた。その言葉は部屋にそっと反響し、やがて大丈夫という彼の言葉に消されていった。ありがとう、という言葉は具現化されず、リクの吐息として部屋を抜けていった。
「 彼は “ 君 ” が好きでした。彼女は彼よりも年下でしたがとても大人しく可愛らしい子でした。そして彼女も彼に少なからず好意を抱いているように見えました。 」
リクがひと呼吸置いた。すらすらと言葉が出てこないのか、これも考慮した上で話しているのか。ヴァレーニエは黙ったまま。
「 …しかし、それは偽りでした。彼も彼女も、お互いを愛してはいませんでした。二人はそれを理解していました。でも、お互いを縋る以外に二人の生きる術はありませんでした。だから、その関係をずっと保ちたいと考えていました。 」
リクが早口になったようにも思えた。声が静かに震えて響いている。部屋の本が、それを吸収して一層不気味な静けさを作り出していた。
「 彼は、彼女に “ 大丈夫 ” と言わせたいと思っていました。そして、もし何かあった場合、彼女に全てを押し付けようと考えていました。 」
リクの口角がやや上がったかに見えた。それがどういう感情を表すのか。この部屋の中、誰かがそれを分かっているのか。廊下であどけない笑い声が聞こえていたが、扉一枚の内側はとてもそうは思えないほど重い空気に満ちていた。
「 彼の人生は…、決して上手くいっていませんでした。全てが嫌になり、周りや自分のやっていることの意味が理解出来ず、逃げ出したい衝動に駆られました。建物の屋上から飛び降りたくもなりました。生きることを辞めたいと思いました。 」
思い出に耽るようなうっとりとした闇がリクの瞳に映る。ヴァレーニエは紅茶を音を立てないように啜り、またソーサーに戻すと暫く紅茶の水面を見つめていた。と、リクの表情が歪んだ。
「 …しかし、どう足掻こうと彼が現実から目を逸らすことは許されることではありませんでした。だから。…だから、所謂 “ 神 ” という存在が自分を救ってくれないと言うのなら、彼は絶望させて欲しいと祈りました。こんな状況で救いを待つくらいなら、希望を捨てて生きたいと願ったのです。彼女は何も言いませんでした。 」
上を向いて天を仰いだ後、下に視線を落として言葉を絞り出したリク。絶望と言う彼の表情はどこか恍惚としているようにも見えた。ヴァレーニエの瞬き1つの音さえ、この部屋では鐘の音のように聞こえた。
「 彼は人間関係を悪くしないように、偽りの笑顔で周りに同調し続けました。知ったような口振りで話を合わせ、本当に言いたいことや思ったことは押し込めて生き続けました。しかし、彼自身はずっと思っていました。“ こんな自分にはなりたくなかった ” と。彼女は寄り添っていました。 」
リクは顔を上げてヴァレーニエに笑い掛けた。ヴァレーニエはすっと目を細めて顔を背けた。残念だなあ、と言いたげに笑ったリクだったが、それでも無反応の彼女に少なからず思うことはあったようで、無表情の間が出来た。
「 彼は救いを待っていました。理想が来てくれることを願っていました。この状況をどうにか出来なくても、この願いによって今日が乗り越えられれば良いと毎日考えていました。 」
そこまで言って、リクの瞳に嫌悪の影が宿った。そのまま迷ったように視線を泳がせ、部屋内のもう1人と目が合うと捕らえられたように逸らさなかった。彼女は瞬きをしただけだった。やがてふいとお互いに逸らした。
「 彼はやり場のない怒りにずっと苛まれていました。自分を偽り続ける、こんな生活が続くくらいなら過去も未来も要らない、と。やがて彼は彼女に言いました。 」
“ 死んでしまえ ” 、そう呟き掛けて押し黙り、喉をこくりと鳴らしてから飲み込んだ。
「 彼女はそんな彼に対して、一言だけ発しました。“ そんなに嫌いなら壊せば良い ” 。彼は彼女の言いたいことが分かりました。。どうせなら加害者になればいいのだと。人間関係にわざわざ悩むくらいなら、そんなもの気にするな、と。彼は考え、思い悩みました。苛立ちも悲しみも気にせず生きて行くことは出来ないものか。…どうしてこうも悩まなければいけないんだ。そう思った彼の中で何かが弾けました。 」
と言ったリクの瞳に光が射したかに見えた。声色も若干明るさを見せ、合った目線は逸らされることなく繋がった。
「 どうせなら今まで苦しんでいた自分を全て壊し、捨て、ずっと偽ってきた自分を真実にしてしまえば良い。周りに明るく接し、同調している自分を自分だと認めれば良い。それでいい。…それで僕、気付いたんだけどね、… 」
リクは突然普段の口調に戻ると、人差し指をそっとヴァレーニエの胸あたりに向ける。
「 “ 彼女 ” ってさ、僕のことだったんだよね。 」
おかしいよね、今まで僕を支えてきたのが僕だったなんて。笑っちゃうでしょ?しかも女の子だし、…
止めどなく喋り続けるリクに、始めてヴァレーニエが口を開いた。
「 ……それで、結局何が言いたいのですか? 」
訝しげにそう言われて、リクは寧ろ楽しげにヴァレーニエに囁いた。
「 でも、今は本当に “ 彼女 ” がこうしていてくれる 」
「 ……、っ 」