ゆめみらく



 図書館の本棚の陰でキスをするなんて、思ってもいなかった。抱いていた本を床にどさっと落とさなかったことを褒めて欲しい。ハードカバーの本はまず、しゃがみ込むために曲げていた太ももの上にやわらかく落ちて、スカートをなぞり、すとん、と床に滑り着いた。
 それくらいの物音では、図書館の空気が変わるなんてことは無かった。わたしたちの唇が触れ合っているのは、何かの間違いで、神さまが巧妙についた嘘なのかもしれない。先ほどと変わらず、新聞をめくる音、本のバーコードを読み取る機械の音、子どもが小走りする靴の音が、小川のせせらぎのように絶え間なく空間を満たす。空が顔色を陰らすこともなく、窓からの陽光はきらきらと差し込み続けていた。彼女の髪から香る花のような匂いと、床に落としてしまった本だけが、異質。
 どうせ彼女はいたずらっぽく笑うのだろう、と、わたしは目をつむる。そこからぱち、とスナップボタンを外すくらいの間があって、わたしと彼女の唇は離れた。薄らと目を開けると、顔を赤くしたメルトがいた。自分からしたくせに、はにかんだまま下唇を甘く噛んでいる。
「あたし、不安なの」と、彼女はささやいた。輪郭のぼやけた声で、もう一度言った。「不安なの」
 何事もなかったかのように、わたしは本を拾い上げる。こういう態度が彼女を不安にさせているのかもしれない、と、本の表紙の埃を払いながら思う。わたしが立ち上がると、彼女はわたしを見上げた。なんとも形容し難い、黒い瞳だった。その中にわたしの顔が映っていた、なんていうのは月並みすぎる。そもそも映っているのかなんて分からない。まだしゃがんでいる彼女に、わたしは手を差し伸べた。彼女はその手を取ることなく、自力で立ち上がった。赤い唇をとがらせながら、彼女が黒い髪を耳にかけ直すと、シャンプーの花の香りがほんのりと立ち上がって、先ほどの口づけが夢ではなかったことが分かる。夢であれば良かった?
 そう、夢であれば良かったの。彼女と出会った時から今まで、全て夢であれば良かったの。これが友愛ではなかったと気づいたときの絶望も、夢であれば良かったの。
 わたしは本を本棚に戻した。背表紙に指が軽く引っかかって、置いていくな、と言われているみたいだった。でもわたしはそれを無視して、棚の隙間に押し込む。
 帰りましょう、とは、口にしなかった。板張りの床に、二人の靴音が冷たく響く。貸出カウンターを横切って、わたしたちは図書館の自動ドアをくぐった。
 十数分前に図書館に入った時と変わらず、外は日が強く差していた。五月特有の、きらきらとぎらぎらの間のグレーゾーンのような陽光に、わたしは日傘を差す。その影の中にそっと彼女を入れる。彼女は少し驚いたように、目を瞬かせた。入ってもいいの、とでも言うように、前髪をいじっている。微笑みかけることができれば良かったが、何かがわたしを妨げていた。不安なの、という彼女のささやきを頭の中で反芻する。不意打ちのキスなんかよりも、それはよっぽど重くのしかかっていた。
 結局、無言のまま歩き出した。館から図書館へ来た道を、そっくりそのままトレースする。館に着くと、彼女は廊下のどこかに行ってしまった。わたしはひとりで地下室に潜り込んで、書架の椅子に腰かけた。窓を張り巡らした市の図書館の明るい館内とは違って、館の書架は昼でも薄暗い。
 図書館で起きたことを、わたしはじっくり思い返した。本を借りるために行ったけど、何も借りられなかった。手に取ってみた本があったけど、それは本棚に戻した。メルトが不安だと言っていた。それと、キス。わたしはキスされたことを怒っているわけではなかった。ただ、望んでいなかっただけ。遊び半分にされるならまだ良かった。あの時は顔を見ることを避けていたけど、たぶん、彼女は本気だった。
 そうやって椅子でぼうっとしていると、地下室の扉の開く音がして、メルトが現れた。いつもは軽やかに歩いてくるのに、ぎこちない足取りで、わたしの隣に座った。かしこまって、膝に手を置いて姿勢を正したかと思うと、彼女は口を開いた。
「さっき、キスしてごめん」
 先ほどからこの地下室はしん、としていたが、より静けさが際立つようだった。俯く彼女の横顔は、長い黒髪に隠れていて、あまりよく分からない。ただ、黒いワンピースを着た彼女の、何かを守るように丸まった背中を見ていた。
「あなた、本当にわたしのことが好きなの」
 彼女は顔を上げて、まっすぐこっちを見た。はっきり判ったのだが、彼女の黒い瞳にはわたしが映っていた。それは病気にも似ていて、魔法にも似ていた。わたしと彼女のどちらがそれにかかってしまったのか、あるいはどちらともかかってしまったのか。
「あたしは、好き」その言い方は冷たくも熱っぽくもなかった。自分の目で見た事実を述べている、そんな感じだった。「そう言うヴァレちゃんは、どうなの」
「愛してる」
「じゃあ今、キスして。おでこじゃだめだからね、今すぐに」
 白い頬をふくらませて、ちょっと不機嫌そうに、赤い唇を曲げている彼女は、ずるかった。それで彼女の不安が和らぐなら、なんだってする。口づけの百回など、なんてことはない。けれど、それは愛からくるものであって、恋からくるものではなかった。わたしは彼女の方を向き、抑えても震えてしまう手を彼女の肩に置いて、そっと唇を重ねる。ふわりと、彼女の髪から花の香りがして、今日の全てが現実であることを物語っていた。
「ありがとう」
 顔を離すと、メルトが目を細めて、照れたように笑っていた。やはり彼女は恋をしているらしくて、わたしたちはもう、どうあがいても友達には戻れなかった。

texture: 甘やかな日々を枷として/ Suiren様

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