空中楼閣

「ねえあなた、確か、まーくんだよね?」
 レイちゃんときちんと喋ったのは、たしか夏のある日が初めてだった。空は晴れてなくて、曇っていて、ぎらぎらの夏という感じではなかったが、比較的過ごしやすい気温だったと思う。そんな日に、ぼくが庭のベンチでぼうっと風に当たっていると、急に声をかけられたのだった。
「そう、だよ」
 確かぼくはそのとき、あんまりレイちゃんのことを覚えてなかった。肩から滑り落ちそうな茶髪を見ながら、名前、なんだっけ、とか思っていた。
「もし暇だったら、ちょっとついてきて欲しいんだけど」
 ぼくはいつだって暇だったから、特に断る理由はなかった。けれど、名前も思い出せない相手にふらふらついて行くのもなんだかなあ。そう思って、「いやあ……」と言いかけたのだけれど、レイちゃんは「絶対後悔させないから」とか言って、ぼくの顔を覗き込んだ。じっと茶色の瞳に見つめられると、なんだかあまりよく考えられなくなってきた。ぼくは人に見られていると気づくと、頭が回らなくなって、本当に思考回路が役に立たなくなるのだ。もっとも、いつも特に何も考えてないんだけど。
「ええ、まあ――いいよ、」
 ぼくは半ばレイちゃんに流されて、誘いを承諾した。それがレイちゃんとの出会いだった。

 ぼくは頼まれた通り、レイちゃんについて行った。駅から電車に乗って、知らない駅で乗り換えて、寂しく古ぼけた電車に揺られる。ちょっとついてきて、と言われただけだったが、ちょっと、と言うにしては目的地まで遠いような気もした。
「どこに行くの、とか聞かないの?」
 その車両には、ぼくたちと、おばあちゃんがひとりと、サラリーマンがひとりしか乗っていなかった。レイちゃんは小声でそう言ったのだが、静かな車内にはよく響いてしまっていた。
 目的地のことが気になっていたわけではなかったが、そう言われると、聞いた方がいいような気がした。そもそも、そう言われた時点で、聞かないという選択肢は消え失せているのかもしれない。もっと言えば、選択肢という概念すら、ぼくの中では危うかった。
「どこに行くの、」
 レイちゃんは嬉しそうに目を細めて笑った。言われたことを口にするだけで、彼女が笑顔になるなら、何回でも言ってもいいかも、とちらりと思った。
「海」レイちゃんは窓の外を見つめていた。車窓を流れる木々を取りこぼさずにひとつひとつ数え挙げようとしているような、そういう目だった。「海だよ、海」うみ、という音は、それが天国の名であるかのように、はっきりと、意志を持って、口にされた。
「ぼく、海見たことないんだよね」
「嘘だあ」
 レイちゃんがそう声を上げると、二方向から視線を感じた。あのおばあちゃんからと、あのサラリーマンからだ。ぼくは少しだけ首をすくめる。
「まーくん、どこから来たの、【館のある国】に来る時に飛行機か船か乗らなかった?」
 興味津々、という風に、レイちゃんはぼくの顔を覗き込んだ。生憎、ぼくはその答えを持ち合わせていなかった。
「さあ……きみ、はどうなの」
「わたし?」あははっ、と、レイちゃんから笑いがこぼれる。「わたしは――並んだサメたちの上をぴょんぴょんしながら海渡ったんだよねっ」
 その笑顔にぼくは、たぶん、惹かれてしまった。その時、まだ名前も知らなかったのに、なんでだろう。窓を流れる風景が、途端に全てぼやけていったのだけ、覚えている。

 それからさらに三十分ほど電車に乗っていると、「降りるよ」と言われて、ぼくたちはとある駅のホームに降り立った。自販機があるだけの、簡素な駅だった。降りた電車を振り返ると、架線が一本しかないことに気づいた。ぼくたちのほかに誰も乗り降りしないまま、電車はホームを去った。
 そこからちょっと歩くだけで、人気のないひっそりした海に着いた。始め、ぼくは大きな川が流れているのかと思ったけど、レイちゃんが「海だー!」と言って走り出したので、やっと、これが海か、と思った。
 海は思っていたよりあっさりした場所だった。ただただ水が溜まっている場所と言えばそうだった。水平線と言われているものも、地平線と大層変わらなかった。砂が溜まっている場所に立って、水がこっちに行ったり来たりしているのをじっと見ていると、「これは、波、だよ」と耳もとで囁かれた。え、と心臓が跳ねるのを感じながら振り返ったが、レイちゃんはもう裸足になっていて、既に波の方へ駆け出しているところだった。膝まであるワンピースの裾をはためかせながら、脛まで水につからせて、じゃぶじゃぶと海を歩いている。
「わたし泳げないからさ、海好きなのに海来てもちょっとぱしゃぱしゃするしかできないんだよねえ」とか、服が濡れないか少し気にしながら、独り言を言っていた。と、急に彼女は振り返った。「まーくん、海来たことないんでしょ? こっち来なよう」
 行かない外はなかった。ぼくも、彼女がしたように、靴を脱いで、その中に脱いだ靴下を突っ込んだ。砂に降り立つと、しゃわ、と足の指と指の間に砂が吸い込まれてくる。どちらかというと、足の方が砂に吸われていくような気分ではあった。それよりも、砂のぬるいのが気になった。そして、波の方へ歩いた。海の水がぼくのくるぶしを舐める。ズボンの裾が濡れそうだった。捲らないとだめだな、と屈んだ途端、少し大きめの波が来て、ぼくはバランスを崩す。うわ、と言いながら、膝から海に突っ込んでしまって、ズボンが半分くらい濡れた。それを見て、レイちゃんがあははっと笑った。不思議と悪い気はしなかった。
 しばらく海で遊んだ。砂の溜まっているところを砂浜と言うことと、ぷにぷにのミズクラゲと、リュウグウノオトヒメノモトユイノなんとかかんとかという海草について教えてもらった。ひと段落して、海から上がって、レイちゃんは持ってきていた水筒の水を飲んでいた。その水筒の側面に、マスキングテープが貼ってあって、『レイ』と書いてあった。ぼくは砂浜に体育座りしながら尋ねた。
「ねえ――名前って、レイ?」
「えっ」レイちゃんが、ぱっと水筒から口を離した。えっ、という声が、水筒に少し響いてるような気がする。「知らなかった?」
 事実なので、ぼくは頷くしかなかった。知らなくてはまずいんだろうけど、しょうがない。彼女が不機嫌になってもおかしくないかも、と思ったけど、レイちゃんは笑い出した。
「まーくんって面白いね、誘ってよかった」
 あまりに笑いすぎて、ふう、と息をつくと、レイちゃんは海と空の境目を指さした。それは、とても遠くの国のお伽話でも聞かせるような仕草だった。
「ほんとはね、晴れてるとね、空の青と海の青とで綺麗なんだよ」
 灰色の曇り空を見ながら、レイちゃんは水筒を閉めた。帰ろっか、とレイちゃんが言ったので、ぼくは腰を上げた。砂浜から去る時、ふと、後ろを振り返って、海を見た。低い雲の灰色の下に、くすんだ海の青が広がっていて、これはこれで悪くない、と思った。

 ぼくとレイちゃんは色々なところに行った。というか、ぼくはレイちゃんに言われてついて行くだけだったんだけど。海に行ったあの日以外は、晴れの日に出かけることが多く、青空の下で色鮮やかなものを見た。それはだたっぴろい丘に広がるひまわり畑だったり、カラフルな店の並ぶ繁華街だったり、何羽ものフラミンゴが佇む動物園だったり、とにかく、初めて見るものばかりだった。レイちゃんはいつも、軽い計画を立ててからぼくを連れて行った。前から食べてみたかったもの、前から入ってみたかったお店、前から見てみたかった景色。入念なプランがあったわけじゃなかったけれど、そういう、ちょっとしたお出かけの目的がいつもあった。ぼくの希望はいつも聞かれなかった。別に、聞かれても本当に何もないし、聞かれないのがむしろありがたかった。レイちゃんの希望のひとつひとつが、スタンプラリーのようにこなされていく。
 ふと、スタンプラリーのゴールはどこなんだろう、と思った。でも、こわくて聞けなかった。他人の行動の目的を尋ねるなんて、嫌だった。代わりにぼくは、バスの窓を見つめるレイちゃんの肩を叩いた。
「レイちゃん、」
「なに?」
 レイちゃんは向こうを見るのをやめて、いつものように笑った。ぼくは安心した。
「次はどこに行くんだっけ」
「次のバス停で降りたところにある、カレー屋さん」
 かれえ、のエの口をしたまま、レイちゃんは笑った。その日食べたカレーは、辛みがきいていて、レイちゃんは頬を赤くしながら食べていた。「夏だから」とか言っていたけれど、ちょっと心配になるくらい赤くなっていた。ぼくはなんとなく、ふるさとの味だ、と思ったけれど、ふるさとのことはもうあまり思い出せなくなっていて、全く何のことだか分からなかった。ふるさとって何だろう、と目を閉じると、狭い店内に、ほんの少しの間だけそよ風が吹いた。「あ、なんか涼しくなってきたかも」とレイちゃんは懸命に手で顔を扇いでいた。そういう夏の日だった。

 八月の終わり、眠れないほど暑い夜は少なくなってきたけれど、まだ日中は太陽がかんかんに照っているような時期のある日、なんとなく、リビングのマガジンラックに置いてあった旅行雑誌を手に取った。××地方の絶景、という見出しのところをぱらりとめくると、海の写真がたくさんあった。しかし、そのどれも、そういう海がこの世に実在している実感が湧かなかった。やっぱり、ぼく、あのときレイちゃんと見た海しか知らないんだな。つまんなくなって、すぐに雑誌を棚に戻した。
 暑い日だったけど、なんとなく、庭に出てみた。ふらふら歩いていると、花壇ですっかり項垂れているひまわりが目についた。あんなにもぱきっとした黄色をしていたはずの花びらは、いつのまにかしわしわになっている。そんなひまわりの横を通り過ぎて、ベンチに行ってみた。先客がいた。レイちゃんだった。ベンチに深く腰かけて、背を背もたれに預けていた。茶髪がさらりと夏風に揺れていた。どこか遠くの景色をぼんやりと捉えていた。ぼくが隣に腰かけてやっと、ぼくの存在に気づいたみたいだった。はっ、と、ぼくをその茶色の目に映す。さっきまでその瞳に何が映っていたのか、全く見当もつかなかった。ぼくには一切関係のないことだったんだろう、とだけ思う。
「まーくん」
 それは、散歩している最中に目についた看板の文字列を読み上げるような、なんの意図も入っていない声だった。
「どうしたの」
「ねえ」今度は、しっかりと肋骨に響くような声の出し方だった。そして、レイちゃんはぼくの顔を覗き込んだ。レイちゃんはにぃ、と笑っていた。あんまり見たことのない笑い方だった。「逃げちゃおっか」
 逃げちゃおっか、という語句の響きは、たまらなく刺激的で、儚かった。熱帯に咲いてる、名前のよくわからない、暴力的なくらいに目に飛び込んでくるオレンジ色をした花に似ていた。
「どこに行くの、」
 そう聞き返すだけで喉がひりひりしてくるような気がした。レイちゃんは、うーん、と遠くを見た。
「館じゃないところ」
「今すぐ?」
「今すぐ」
「それなら――海がいい」
 レイちゃんと行きたいところをぼくが言うのは、それが初めてだった。もっと言えば、自分の行きたいところを言うのは人生で初めてだった。言った途端に首筋が熱くなるのと冷たくなるのを感じた。首を絞められているような感覚になったけれど、それに耐えながら、レイちゃんの顔を、表情をじっと見た。
「いいよ」
 目尻をきゅっとさせて、レイちゃんは笑った。少し悲しそうだった。ぼくは口を閉じた。
 ぼくたちはすぐに駅に向かって、あの日も使った駅で電車を乗り換え、あの寂しい駅で降りた。一回来ただけなのに、駅から海までの道はよく覚えていた。あの砂浜と、あの海が広がっていた。あの時と違う点があるとすれば、空の眩しい青と、山にそびえたつ城のような入道雲だった。首が日差しに痛かった。
「ねえ、あの、水平線のところまで行くよ」
 突然、レイちゃんが大きな声で言った。レイちゃんは海に靴を投げていた。スニーカーはよく飛んだ。ぱしゃん、と、静かな海に水の音が響きわたる。辺りに人はひとりもいなかった。この世界にはぼくと、レイちゃんと、海と砂と空と雲しかないみたいだった。
「本当に行くの」
 レイちゃんは既に、夢中になって波に駆けて行っていた。ぼくの声は聞こえないかもしれないと思ったが、レイちゃんはぼくを振り返った。その顔は笑っていなくて、ただただ口を真一文字に結んでいた。泣き出すかもしれない、と思った。でも、レイちゃんは泣くことなんてなくて、ぼくは笑顔のレイちゃんしか見たことがない。
「まーくんも、一緒だから」
 レイちゃんは、くるぶしくらいまでの長い丈のワンピースが濡れることも厭わずに、ばしゃ、ばしゃ、と海の水を蹴った。
「それって、ぼくとじゃないとだめ?」
「――だめだよ」海に来てから始めて、レイちゃんが笑った。「まーくんじゃなきゃ、だめだよ」
 レイちゃんはじゃぶじゃぶ、と、砂浜に駆けてきて、ぼくの腕を引っ張った。もう一度、「だめだよ」と言われて、ぼくはレイちゃんの手を振りほどけなかった。
 そのまま、気の遠くなるほど、痛すぎる陽光の中、海を歩いた。足の指はどんどん砂に吸い込まれてゆき、服は水を吸って重くなっていて、いつの間にか、ぼくのお腹あたりまで海の水が来ていた。急に、レイちゃんがぼくを振り返って言った。一面の青が眩しくて、あんまり顔がよく見えなかった。
「わたし、本当にまーくんのこと好きだよ」
 それは嘘だ、と思った。今、空中に浮いていた楼閣が、少し崩れた。ぼくはもう歩けなかった。ぼくは自分の意志で歩くのをやめた。するり、ぼくの腕からレイちゃんの手が離れていった。それに気づいていないのか、機械仕掛けの人形のように、レイちゃんはどんどんと空へ歩いて行った。こわくなって、ぼくは空に背を向けて砂浜へ駆けだした。海の底の砂に足を持っていかれそうで、何度か転んで、海の水を飲んでしまった。しばらくして、海面が膝上くらいになったところで、振り返ってみた。空に入道雲が浮いているだけだった。レイちゃんの茶髪はどこにもなかった。
 青と白だけの世界を見ても、ぼくは泣けなかった。夏の海をずっと見ていた。泣けなかった、と思っていると、涙が一粒だけ零れて、ぼくのシャツにしみを作った。でも、それきりだった。
 海って何だろう、と、ちょっと思った。天国じゃないことだけは、確かだった。
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