永遠の愛

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 雛伊さんには残念だけれど、僕には新しい恋人ができた。雛伊さんよりも一歳年上で、僕からすれば三歳上。そう、リクさんだ。
 リクさんは優しい。よく遊んでいて女慣れしてる人だってことは知っていたけれど、僕をぞんざいに扱うことなんてなくて、本当に大切にしてくれる。雛伊さんとは全然違う。あんな酷いこととか――ああ、思い出すんじゃなかった。水族館の水槽に、自分の不機嫌な顔がちらりと映る。とにかく、彼は、雛伊さんみたいに僕に酷いことは言わない。
 今日、僕は、リクさんと一緒に、隣の市の水族館に来ていた。付き合って初めての――付き合ってからまだ二日しか経ってないんだけど――デート。ほの暗い通路に、水槽の水の青がよく映える。色とりどりの小さな魚、宝石のように透き通ったクラゲ、目の前をゆったりと通り過ぎるエイ。神秘的で、ロマンチックで、初めてのデートがこんなところなんて、嬉しい。でも、その嬉しさを悟られぬよう、僕はなるたけ平静を装って、薄青の無地のワンピースの裾を、きゅっと握って深呼吸をし、心音を無理やりにでも下げる。
 チンアナゴの水槽の前で、ふとリクさんの横顔を見上げると、ぼんやりとした照明にリクさんの鼻と唇、目の形がすっと浮かび上がっていた。リクさんの瞳が不意に揺れて、目が合いそうになって、僕は慌てて水槽に目を戻した。チンアナゴが少しあほっぽく顔を出していて、のんきなやつ、と眉を寄せた。
 一通り展示を見て、ショップに行った。展示の通路は照明が少なく薄暗かったけれど、ショップは明るくて、入ると少し目がちかちかした。ショップには水棲動物をあしらった文房具とか、キーホルダーとか、靴下とか(こういうところの靴下って、買っても履く勇気が出ない)が並べられていた。
「リコットちゃん、これ見て」
 リクさんが、棚からサメのぬいぐるみを手に取って撫でた。そのぬいぐるみは脇に抱えられるほどの大きさで、つぶらな瞳が明るい店内の光をよく受けていた。
「ふわふわ」 
「かわいいですね」
「リコットちゃんの方がかわいいよ」
「そういうテンプレ、僕には通じませんよ」
 リクさんはちょっと口の端を上げて笑った。そして、そっとサメのぬいぐるみを棚に戻す。僕はとても穏やかな気持ちになった。こうやって、和やかな気持ちになるのを、ずっと待っていた気がする。僕に落ちていた影を、リクさんは照らしてくれるんだ。きっとそうなんだ。僕もつられて笑った。
 僕はクラゲのチャームのついた、白いボールペンを買った。こういうところで何か買うようなタイプじゃないんだけど、つい財布のひもが緩んで手が出た。リクさんは、僕も買っておこうかなとか言って、熱帯魚のチャームのついた水色のボールペンを買った。もしかすると、これはお揃いというやつではないか。口には出さなかったが、心底どきどきしながら僕は、自分のボールペンの包みをそっと鞄に入れた。
 そうして、「またのお越しを」と書かれた水族館のゲートをふたりで通った。夕方の西の空は全体的に淡い色をしていて、こんなにロマンチックに見えたことは今までなかった。僕たちが軽く手を繋いで横断歩道を渡っていたちょうどそのとき、雲が一つ、あの山の縁を離れて夕空に旅立っていったのが目の端で見えた。

 水族館に行った次の日。リビングで、リリィちゃんが便箋に何か書いていた。その小さな手に握られた筆記具に、僕は目を見張った。それは細身の水色のボールペンで、ペンの頭の方には熱帯魚のチャームが揺れている。
「そ、れ――」
「ああ、これ……最近、兄からもらったんです」
 リリィちゃんはもごもご、と伏し目がちに言った。何かを恥じらっているようだった。しかし、そんな彼女の態度をゆっくり注視する余裕なんて僕にはなくて、ただ、あのボールペンをリクさんが妹にあげたという事実を飲み込むだけで精一杯だった。それだけで、燃えている薪木を、何本も背に背負っているような気分だった。
 そう、と短く返事をすると、僕はすぐにリビングを出た。今すぐ自室に戻ろうと思った。しかし、階段を登っている途中で、あれがお揃いのボールペンだと勝手に思ったのは僕だったと思い出した。それに、そもそも、ああいうかわいいボールペンをリクさんが使うとは思えない。舞い上がったのは僕なんだ。はあ、と、小さくため息をつきながら、残りの数段を登る。
 二階にたどり着くと、廊下のあっちの方から話し声がした。すぐに自室に駆け込むつもりで階段を上がってきたけれど、少し気になって、声のする方にそろりと足を進める。
 廊下の大きな柱の陰で、窓に寄りかかりながら電話をしているリクさんがいた。耳にスマホを当てて、ぼそぼそ、と話していた。「うん」「ユカちゃんの言うことも分かるけどさ」「うん、でも」
 リクさんは、こちら側に背を向けていて、表情までは分からなかった。でも、猫背気味の体勢で、深刻そうにうんうんと頷いていた。僕は、ユカちゃん、というリクさんの言葉を反芻する。ユカちゃん、ユカちゃん、ユカちゃん――。
 と、リクさんが茶色い髪の毛を手で撫でながら、急にこちらの方を振り返った。まずい、と思って、僕は走り出した。何事もなかったかのように、リクさんがまた話し始める声が廊下の遠くでした。今度こそ、やっと、僕は自室に飛び込んだ。
 さっき、リクさんが振り返ったときの目が酷く冷たいように思えて、僕はベッドの布団を抱きしめた。

 そのまま寝てしまって、目が覚めたのは午後六時だった。普段着のままベッドに横たわっていたらしく、アイロンをかけてから着ているはずのシャツはしわしわになっていた。四時間も寝てしまったのか、とからだを起こすと、頭にやんわりとした痛みが広がっていた。さすったからといって頭痛が無くなるわけではないのだけれど、とりあえず頭をさする。何の夢を見ていたんだろう、とぼんやりと考えながらベッドを降りる。夢の内容は全く出てこなかった。
 夕飯を食べるような食欲はあまり無かったけれど、なんとなく髪をとかしてジャケットを羽織ってから、廊下に出た。たまたまそこにうぇる兄がいて、昨日も今日も戦争に出なかったじゃないか、と眉を寄せていた。
「ごめんなさーい、頭痛ひどくて」
 心配かけまいと、なるべく明るく言ったのだが、頭痛がひどいと言う割には元気すぎるような気もした。
「そうか」
 うぇる兄は、気をつけろよ、とか、早く治せ、とか、そういう気づかいの言葉はかけずに、僕を一瞥したまますたすたと先へ歩いて行ってしまった。その無関心さに、僕は息をついた。そういう態度が、今は少しありがたくもあったし、辛くもあった。
 先ほどリクさんが電話していた廊下の横を通る。今はもう、そこにリクさんはいなくて、規則正しく並んだ窓に、夕日に照らされた山々のシルエットが映っているだけだった。僕はそのまま階段を駆け下りた。
 一階の廊下には、食堂に向かうと思しき人々がちらほらいて、一方向にそれぞれゆったりと流れていた。僕もそれに身を任せる。うぇる兄は、いつのまにか廊下の遠くの方を歩いていた。マントの揺れる動きが、ここからだと小さく見えた。
 そのうぇる兄の四メートルほど後ろを歩く二人の人の姿を見て、あ、と思った。雛伊さんと、ヴァレ姉だった。談笑しながら歩いていた。雛伊さんがヴァレ姉の話に頷くと、柔らかい黒髪が揺れた。そうして、ヴァレ姉にふわりと笑いかけた。
 それは僕の記憶にない笑顔だった。あの人の笑っているところを見たことがないわけじゃないけど、そういう、春花を咲かせるような、柔らかい笑顔を見るのは初めてだった。そうやってあなたは笑うんだ。僕には見せてくれなかったじゃん。
「ひどい、……」
 僕はそう、ぽつりと呟いた。その呟きは廊下の赤い絨毯にどこまでもどこまでも吸い込まれた。
 食堂で僕は雛伊さんたちの席からなるべく遠いところに座った。大体の席は埋まっていたが、リクさんは食堂にいなかった。僕は二人掛けのテーブルで、一人で夕飯を食べた。キャベツの千切りを咀嚼していると、牧場で飼われている従順な牛になったような気がした。嫌になって、食事は半分くらい残してしまった。

 その夜、僕は夢を見た。いつも夢の内容なんか全然覚えてないのに、とても鮮明な夢だった。それは自分が見たことのある景色ばかりだった。
 夢はまず、僕が僕の部屋にいるところから始まった。僕は朝起きて支度をし、窓の外を眺めながら髪を梳いた。外はよく晴れていて、朝日は眩しすぎるくらいだった。デート日和じゃん、と呟いて、僕は普段着ないワンピースをクロゼットから取り出す。薄青の無地のワンピース。これは、ああ、雛伊さんとショッピングに行った時につい衝動買いしてしまったものだ。そのとき流行ってた、セーラー服のような大きめの襟がついていて、もう来年は着れないかも、と思ったけど、かわいかったから買ったんだっけ。
 僕がその服に着替えると場面が飛んで、僕は雛伊さんと遊園地にいた。なんとなく並んでしまったジェットコースターにびくびくしながら乗ったけど、意外と怖くなくて、へらへら笑って二人で降りた。他のアトラクションにも乗って、最後にメリーゴーランドに乗る。前方の雛伊さんが振り返ると、黒髪が風になびく。そして、雛伊さんが目を細めて、ちょっと口角を上げて、もうちょっとでとびきりの笑顔になるところだったけれど、また場面が飛んだ。
 今度は館の正面側の庭だった。あ、これ、やだ。この景色にはとても見覚えがあった。たぶん、思い出したくなくて、ずっと心の奥底に閉じ込めていたから、ところどころ白飛びのように景色が曖昧だけれど、画角も、僕が着ている服もあの日と同じだ。門扉の向こうの道路に桜の木が一本植わっていて、そこから桜の花びらがひらひら飛んできて足元にたくさん散らばっている。僕はジャケットの袖を少しいじって、真正面に立っている雛伊さんの方を見ずに俯いた。二人ともずっと黙っていた。たぶん、これが永遠だ、とちらりと思う。
「……リコットさん、」
 しびれを切らしたように、雛伊さんが口を開いた。僕はゆっくりと首を起こした。雛伊さんが、あの冷たい目でこっちを見ていた。口はすっと真横に結ばれている。なんの表情も読み取れなかったが、それが逆に、僕を嘲って、蔑んでいるように思えた。
 じり、と、雛伊さんが一歩踏み出て距離を詰めた。僕は反射的に、両手を突き出した。うまくその両手が、雛伊さんの肩に当たった。雛伊さんはよろけた。くしゃくしゃになった桜の花びらを、雛伊さんはあのブーツで踏んだ。僕は頬のこわばりを感じた。雛伊さんの頬は歪んでいた。
「――ひどい、」
 雛伊さんの頭のてっぺんに、ひとひらの桜の花びらが乗っかっていた。僕はもうそれを取ってあげることができなくて、ただただ視界が濡れて、ぐにゃぐにゃに曲がっていった。
 そうして夢は明けた。真夜中にぱちりと目を開けると、ほとんど何も見えなかった。ただ、固く抱いていた枕がほんの少し濡れていた。春の月が窓にぼんやりと浮かんでいて、僕はもう一度目を閉じた。
TOPAME

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