ア、愛
ウ、ウェルさん
本職の詩人ともなれば、いつどんな注文があるか、わからないから、詩材の準備をするためのノートを作っている、らしいです。「ア」から順に、愛、青、赤、秋などといろいろなノートがあって、「秋について」という詩の注文が来れば、ア、秋のノートを見て、秋についての自分のメモを見るんだそうです。
「ア、秋」
わたしはなんとなく、呟いてみました。秋らしい、高い空に、すぐに呟きは吸い込まれます。
「秋……だな、空が高くて」
隣のウェルさんに、わたしの特に意味のない呟きが聞こえていたみたいで、ウェルさんはそう言いました。お散歩途中、赤信号により横断歩道の手前で立ち止まっていたわたしたちは、ちらりと空を見上げました。とても澄んだ秋晴れで、風船を手放したらどこまでも行ってしまいそうなほど、いい青空です。
「秋だし肉まん、食べたいなあ」「ロゼ、……肉まんって冬の食べ物じゃ」「秋からもう食べたくなっちゃいません?」「秋ならおれは、スイートポテトが食べたい」「いいですねえ、さつまいも、わたしも食べたい」
なんて、他愛のない会話をしながら、信号が青になるのを待っていました。と、強く風が吹いて、わたしのおろしっぱなしの髪が乱れました。うわあ、と、頬にかかった髪を耳にかけなおしていると、鼻をかすめたにおいがありました。
「あ、秋」はっとして、わたしはウェルさんの方を向きました。「ねえ、秋のにおい」
「え?」
「あっちから、あの、秋のにおいが――金木犀のにおいがしますよ」
わたし、ウェルさんの袖を引っ張って、ふらふら、金木犀の花のあまいにおいの方へ歩こうとしました。いつのまにか青になっている信号機を横目に、ええ、と、ウェルさんはちょっと眉を歪めました。が、しょうがない、と諦めたように眉を下げて、「そうだな、――わかった」と、歩き出しました。
これはふたりのあてのない散歩なので、大体のルートは決まっていても、こういう風に、気まぐれで、どこかへふらふら歩いていくのはよくあることでした。わたしがいくら気ままに歩いても、来た道をウェルさんが把握してくれているので、帰り道に迷ったことは今までありません。なので、わたしは安心してふらふらするのです。
かくして、わたしたちのあてのない散歩は、金木犀を探す散歩となりました。風に立ち止まって真面目に金木犀の香りを探ってみたり、あの家の屋根の色がきれいだなとか言ってみたり、野良猫が走っていくのを見届けたりしました。そうしていると、だんだん、金木犀のにおいは強くなってきて、ああ、秋が近い、とわたしは深く息を吸い込みました。
そのとき、ぶらんことすべりだいのある小さな公園の横を通りました。そしてその奥に、金色がちらちらついている樹木を見つけたのです。
「ウ、ウェルさん、」
わたしはウェルさんの名前を呼んで、ああ、と、公園の中の方を指さしました。
「ねえ、ほら、金木犀」
金木犀のありかまでたどり着けたことがうれしくって、振り返って見ると、ウェルさんもわたしの方を見て、「そうだな、」とあたたかく言いました。
ウェルさんは、ずるい悪魔です。例えるならば、わたしがうかうかと外を散歩しているうちに全部、夕飯の支度なんかを整えて、玄関前の階段にしゃがんでいるのです。そんなおうちにわたしが帰らないわけがないのです。
だから、「そうだな、」というウェルさんのことばはよく、わたしの胸の奥まで届きました。照れくさくなって笑うときみたいに、わたしの頬は思わず上がりました。
「やっぱり、秋ですね」
「そうだな」
ウェルさんは、やわらかく微笑みました。わたしたちはゆっくりと、公園の中へ入ってゆきました。さらりと風が吹いて、あまいにおいがまた、ふわりと立って、ア、秋でした。
ロ、ロゼ
今日は、あ、秋、と思ったことがたくさんあった。
まず、朝食に梨が出た。食べると、しゃく、といい音がして、瑞々しかった。午前中のロゼとの散歩では、金木犀の咲いているのを見た。戦争では、夏は冷たくてありがたかった、ヴァレーニエの魔法でできた氷から来る冷気を、肌寒いと感じた。夜、静かなところを求めて屋上に行ってみると、月が綺麗に見えた。
「あ、ウェルさん」
おれがフェンスにもたれながら夜空を見上げていると、ロゼが偶然、やってきて、おれの隣に立った。そして、おれの見ていた空の方を見上げるなり、ロゼは言った。
「月が綺麗、ですね」
えへへ、とロゼは笑った。えへへ、とロゼが笑うのは、ロゼが何かごまかすときの癖である。なるほど、ロゼは、あの意味を分かって「月が綺麗ですね」と言ったらしかった。おれは、それにわざと気づかないふりをして、ロゼの顔を見て言った。
「月の曲なら、ドビュッシーの月の光が好き」
「たらーらー、たーらーらー、から始まるあれですね」
あっ、と、ロゼは声をあげておれの方を見たので、じり、と目線があった。ロゼは、ピアノ曲の一節を口ずさむと、必ず何かが起きるという魔法の持ち主である。その魔法のせいか、どこからか、午前中にかいだような金木犀のにおいが急に、した。しかし、依然、ふたりの目線はじりじりとあったままだった。風にそっとロゼが瞬きしかけたとき、おれは、そっと、月明かりを受けているロゼの額にキスをした。
へ、と、ロゼが顔をあげたので、おれは、月の方に目を逸らした。「ウ、ウェルさん、」と、肩を叩かれるのもよそに。
「すまない、不可抗力――さっきのロゼの魔法で」
「ちょっと、それはさすがに、嘘ですよねえ」
「嘘と言ったら?」
おれはすまし顔で、ロゼの方を見た。ロゼは、絶えず前髪を手で梳いていた。照れ隠しするときの、ロゼの癖だった。
「もう、――もおー……もう、って、わたしが牛になっちゃうじゃないですか」
ロゼは、むう、とくちびるを尖らせた。おれが笑うと、ロゼがまた「もう」と言った。「明日、せっかくスイートポテトつくって一緒に食べようと思ってたのに、もう、そんないじわるして、知らないですよ」ともごもごしているのが、おもしろかった。月明かりの下、まだ金木犀のあまいにおいがするような気がして、ア、秋、だった。