ラヴ・アンド・ピース


※悠陽さんの喫煙

 喫煙所を兼ねているテラスで、俺はピース・スーパーライトにゆっくりと火を点けた。たばこの先の火の赤が、夜闇へじわりと染みていく。夜、ひとりで、こうやってたばこの味を確かめるのは随分久しぶりだった。あんなにおいしかったはずなのに、あまりおいしくない。ため息をつくように煙を吐くと、紅茶みたいなプルーンみたいな、ピースの香りとしか形容しがたい香りがテラスを覆った。テラスのぼんやりとした明かりに、煙はよく溶けた。
 たばこがピース、平和だなんて、笑える。笑えるのに、ぼうっとその煙を見ていると、あまり笑えなかった。ぼうっと、煙を見ている間、俺の中に争いはなかった。ただ俺は、煙を見ているだけだった。でも、本当につまらない。何も足りていない。そんな何もないだけの平和は、幸せではない。
「悠陽くんや、」
 声がして、俺はびくっとした。紛れもなく、都の声だった。口からピースを離して、ちらりと背後を見る。やっぱり都だった。半袖のブラウスとロングスカートを着、つっかけをぺたぺた言わせて、こっちへ来た。俺は夜の方を向いた。星も煙も吸い込むような夜を見て、彼女には顔を合わせないようにした。
「禁煙してたんとちがうの」
「……さあ」
 俺の隣に立って、俺と同じ夜の方を見ながら、都はふーんと言った。ふーん、は、彼女の口癖だと思う。興味があるのに、興味がないみたいな顔をして、ふーんと言う。わたしはもう何も聞かないでおいてあげるね、の、ふーん。
 ふーん、をそう解釈することにして、俺はもう一度ピースに口をつけた。ゆっくり吸い込んで、口の中だけで転がして、吐いた。肺にピースを吸い込んではいけない気がした。大量生産された平和を、肺まで連れて行くのは。
 と、え、と都が俺の手のたばこを指さした。「それ、ピース」
「そう、ピース」
 今度は、彼女はふーんとは言わなかった。ちらりと都を見やると、黒髪を耳にかけながら、ちょっと下唇を噛んでいた。俺はすぐにまた目線を夜に戻した。
「禁煙、やめんの?」
 たばこを咥えて、俺は黙った。ちょっとべたついている夏っぽい風が吹いて、ピースの香りしかしていなかったテラスの空気をかき混ぜる。テラスの明かりが照らしている範囲から向こうに広がる夜闇を見ていても、答えは出なかった。いい返事が思いつかないまま、煙を吐いてしまう。体重を乗せる足を変えたのか、都のつっかけがぺた、というのが静かな夜によく聞こえた。返事を急かされているような気がした。
「……また明日からする」
「なら、一本ちょうだい」
 今度は、俺がえ、と言った。彼女の方を向いた。都の顔を、今日初めてちゃんと見た気がした。
「吸えるのか」
「ちょっとは吸ったことある」都はちょっと首を傾げた。「ま、見てのとおり、……ハマりはせえへんかったけど。まあまあお金かかんのに、それに合うほどめちゃめちゃ楽しいもんでもないなと思って」
 と、たばこを吸ったことのあるらしい、彼女の鴇色の唇は動いた。都がたばこを吸ったことがあるなんて知らなかったが、まあ、成人しているし、酒は飲むのだし、喫煙の二度や三度あるのだろう。俺はポケットに入れていたピースのボックスを、黙って彼女に渡した。
「悠陽くんがたばこ吸うてるの見てたらな、思い出してん――スモーカーと付き合うたら、自分もたばこ吸うことになるんかなと思ってた時代があったこと」そう喋って、彼女はピースを咥える。「かわいいやろ、うち」
 カチ、と、ライターの音がした。俺は、何も言わなかった。夜を見ながら、あまりおいしく感じられないピースをふかし続けることを返事とした。
「まあ、そうはならへんかったけどな、残念なんて思てないよ」すう、と、都が隣でゆっくり息をした。しばらくして、はあ、と都の吐いたピースの煙が闇に消えていく。「都という人間がお付き合いしとるんはな、スモーカーでも、禁煙中の元スモーカーでもなくて、悠陽くんやからな。悠陽くんと付き合うたら、に続く言葉は、スモーカーと付き合うたら、に続く言葉とは別やねん」
「何?」
 そこで俺は初めて、都に返事をした。ちょっと、都の方を見てみた。たばこを持ちながら、自身の口角をちょっとにやっとあげている。
「ラヴ・アンド・ピース」
 と、都は左手でピースして、おどけたように笑いながら、軽く舌を出した。たぶん、照れ隠しだった。そういうところがかわいい、とは言わなかったが、俺はじっと彼女を見た。俺の顔を瞳に映して、都は少し真面目な顔になった。ふたりで作った、霞よりも薄っぺらい煙幕の後ろで、ピースの香りと幸せの交じったキスをした。
 夜の方から風が吹いてきて、ピースの煙をテラスから蹴散らしていった。俺たちはふたりとも、灰皿にたばこを捨てて、夜のテラスを去った。

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