菩提


「へー、きれいな車」
 俺の車に乗り込むなり、ロシュは馬鹿みたいに呟いた。
「汚くしてると思ったか?」
「え、そういうことじゃないよ」
 シートベルトをかちゃんと締めながら、ロシュは目をぱちぱちさせた。その赤い目はいつでも泣きだすことのできそうなほどいたく澄んでいて、俺は肩を竦める。真面目に返されてしまって、なんとなく居心地の悪さを感じた。
 無言で車のエンジンをかけて、俺とロシュは館から車で一時間の〇〇市へ向かった。〇〇市には、記憶喪失を患うロシュの通院する精神科がある。普段、ロシュがそこまで行くときは、主様の運転する車に乗って行く。しかし、今日は主様が数日間の遠出に行っていて都合がつかないため、俺が送ってやることになった。
 高速に乗る手前、信号が赤だったので、ドリンクホルダーのところにおいてあるガムを一個取って食べる。ふと、助手席を見やると、ロシュは背もたれにもたれて、頭を窓の方へと傾けていた。微熱を持った五月下旬の日差しが、ロシュのピンクホワイトの髪を余すところなく照らしている。どうやら寝ているようで、俺は少し息をついた。ガムを奥歯で噛むごとに、息がしやすくなる気がした。
 眠ったロシュを乗せたセダンは、予定通り、予約の診察時間の少し前に病院についた。
「ついたぞ」
 エンジンを止めて、ぐうんと車が眠るのと同時、ロシュが頭をゆっくりと上げた。
「ん」
「診察終わったら連絡しろ」
 わかった、とロシュは頭をかいて、ぬるりとドアを開けた。「じゃ、」と助手席から降りて、こちらを振り返らずに、まっすぐ病院のドアへと向かっていた。

 待合時間も含めて一時間くらいかかると聞いていたので、俺は適当な時間つぶしのため、市内の病院周辺ををぐるぐる車で回った。ガソリンスタンドを見つけたので、ガソリンを入れようかと思ったが、洗車をした。ガソリンが高かったし、最近洗車をしていなかったからだ。ちょうどよく、ガソリンスタンド横にカフェチェーン店があったので、そこで時間をつぶすことにする。
 アイスコーヒーを注文して受け取り、適当な席に座る。ミルクを入れると、ぶわっと、どんどんコーヒーに白が混ざっていく。ストローでぐるぐるやってやると、白はいなくなった。夏の雪みたいに、すぐ、いなくなった。
 大人げなくちびちびとアイスコーヒーを飲み、さして読みたいわけでもない本をぱらぱらめくりながら暇を弄んでいると、ぶぶぶ、と太ももでスマートフォンが鳴った。ちら、と腕時計を見ると、病院を出てから丁度一時間ほどだっていた。ロシュからメッセージだろう。別に、まだ待てるのだが――なんてのんきに考えていたが、ぶぶぶ、ぶぶぶ、とスマホは振動を続ける。電話か?とスマホを取り出すと、知らない番号だった。とりあえず、出る。
「もしもし」
『もしもし。ロシュだけど、診察今終わったとこ。迎えに来て』
「やっぱりロシュか、どっから掛けてる」
『病院の電話から』
「携帯忘れたのかよ」
『忘れたっていうか、持ってきてないよ』『だって、持ってきても役に立たないし、意味ないじゃん』
 はあ、と、わからないまま返事をする。
『まあ、早く来てよ』
 ロシュが早口でそう言うや否や、がちゃ、と電話が切れた。丸くなった氷だけが残るアイスコーヒーのグラスを、水滴がひとつ涙のように伝った。

 病院に着くと、もうロシュは駐車場の木陰で突っ立って待っていた。俺のセダンの止まった方に、ゆっくり歩いてくる。
「どうだった」
 乗り込んできたロシュに、社交辞令程度に言ってみた。
「どうって、なんにも」ロシュはそそくさとシートベルトを締める。「医者に行ったって、何か思い出せるわけじゃないし」
 苦々しく笑って、ロシュは前髪をいらった。指と指の間から、雪がこぼれるようだった。初夏の日差しに当たると、すぐに跡形もなく解けるだろう。現にロシュは、いつも、どこか、この地球に存在することを諦めているように、蒸し暑い熱気に自分を溶かすように佇んでいる。こいつもこいつなりに、色々思うところがあるのだろう。
 発進するか、と思ったそのとき、ロシュが急にぱっと顔を上げた。
「そういや、ついでに連れてってほしいとこあるんだけど」
「はあ」
「バラ園がさ、たしか、この市にあって、そこに行きたい」
「名前は」
「忘れちゃった」へら、とロシュは笑った。「ごめんだけど、調べてくんない」
 俺はその笑顔に少しいらっとしたが、車のハンドルを握った。「××バラ園だろ?行ったことある」
「なんて名前の女のひとと?」に、とロシュが口元を緩めた。
「直帰したいのか?」
「ごめんて」
 初夏のセダンは、男二人を乗せて、バラ園へと出発した。

 バラ園の名前と場所は覚えていたが、車を降りた途端、名前と場所しか覚えていなかったことに気づかされた。
「こんなとこだったか、……?」
 五月の生暖かい風が頬をぬるりと撫でる。前来たときも五、六月だったし、アーチ状のゲートも前来たときに見た。以前と比べてとても寂れているとか、賑わっているとかいうわけではない。それなのに、記憶の中のバラ園の空気感とは微妙に違う。なんだか、落ち着かない。
「どうした?」
 早々と足を進めていたロシュが、つと止まって、こちらを振り返った。
「いや」
 俺は首を振った。「そう、」と、ロシュは入場券売り場の方へ歩き出した。俺もついていった。
 平日の昼間で、園内にひとはまばらだった。赤いバラ・白いバラ・黄色いバラ・紫っぽいバラ・マーブルのバラ・八重のバラ・など、何種ものバラがそこら中にところ狭しと植わっている。当たり前だが、バラばかりで、気の遠くなるほど、バラ一面だった。
 現代アートのようなモニュメントの前で、その一面のバラをバックに、小さな子供連れの家族が写真を撮っていた。バラ以外のものを久しぶりに見た俺は、思わず遠目に眺める。
「こういうのって、写真を撮っても、意味がないと思うんだよね」ロシュも子連れを眺めて言った。「他の人は、撮った写真からその経験を思い出せるかもしれないけど、俺はそうできないことの方が多いから」
 と言いながら、ゆったりとバラのアーチへ向かう。大きな独り言だったが、なんとなく、嫌な気はしなかった。俺も、このバラ園で、写真を撮ったことがあるからだ。さっき、なぜこんなに前来たときと違う感覚がするのか気になって、スマホのアルバムを見たのだ。数枚、写真があった。五月に来たらしかった。晴れの日だったらしかった。ピンクのバラを見たらしかった。しかし、それだけしか、わからなかった。俺は青空を仰いだ後、アーチをくぐった。
 くぐった先は、一面、白バラだった。五月に雪が降るように、風に己を溶かすみたいにして一面のバラがそよいでいる。ああ、と思った。これは、なんだか、心にすっと入る景色だった。
「あっ!」
 ロシュがでかい声を急に出したので、俺はびくっと肩を震わせた。折角、ひたれそうだったのになんだよ、と思わず眉間に皺を寄せながら振り返る。
「おもいだした……」
 ぽつ、とロシュが呟いた。
「俺、――」
 泣き出しそうなほど赤い瞳で、ロシュは一面のバラを見つめた。雪のような髪が、そっと、しかし確かな意思を持って、爽やかな薫風に揺られていた。
 と、携帯電話が、けたたましい音を立てた。眉を寄せ、ポケットから取り出そうとした刹那、ぶわっと内臓がひっくり返るような心地がした。『地震です、地震です』ウイイン、ウイイン、と電話が発する低いアラート音に合わせて、視界が小刻みに揺れる。足の裏がうまく地面と接しない。遠くで、植木鉢がひっくり返るような音がした。ああああ、逃げなくては。本能が言う。地震だ。に、逃げ、に、逃げなくては。一歩踏み出したが、バランスを崩して、コケる。うわああと思いながら、寝転がる。レンガ道に肩を汚してしまう。空を見上げると、青い。揺れで、雲の形が、はっきりと見えない。うあああ、と、ロシュが、無数の棘を持つバラの低木にしがみついていた。
 携帯電話はまだ、俺の太ももでけたたましい音を立てていた。なるほど、携帯電話は、役に立たない。俺は、ロシュの言葉を思い出した。そのかわり、肩がレンガに痛いことを、忘れた。薫風が未だ吹き続けていることも、忘れた。息を吸って吐くのを、忘れた。
 ロシュのしがみつくバラの木が、まるで菩提樹に見えた。

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