さびしい雨
秋雨の降る夜は、空という空、木という木、家灯り、それに照らされる水たまり、まちを漂う冷気、すべてがさびしい。つめたいんじゃなくて、さびしい。どこかよそよそしく塞ぎこんでいるものばかりが夜を埋めている。
そんなさびしい夜、僕とヴァレちゃんは小さい折り畳み傘を半分こしながら館への帰り道を歩いていた。さっきヴァレちゃんと行ったオーケストラのコンサートの音圧に、耳がまだく幾分かくらくらしていて、傘をたたく雨音がいつもよりはっきりと聞こえる。彼女がなるべく濡れないように、傘をヴァレちゃんの方へ傾けるほど、僕のステンカラーコートの左肩はやわらかく雨に濡れた。
彼女は普段、そんなに笑顔を見せることはない。いつもくちびるをすっと結んで、ひんやりとした瞳を横たえている。僕にはそれがどこかさびしそうに見えて、さびしさを溶かしてあげたいと思っていた。でも彼女は今日も、冷たそうな頬をあまり動かすことなく、目はここじゃないどこか遠くを見つめて、僕の隣を、秋雨の降る夜を歩いている。
館まであと百メートルほど、というところの信号機で僕たちは立ち止まった。歩行者用信号機の赤い男が、雨に濡れた路面に無機質に映っているのを、黒々としたセダンが轢いていった。と、ヴァレちゃんが静かに口を開いた。
「コンサートが終わってからずっと考えてたんだけれど」
その言葉で、ここまでずっと一言も喋らずに歩いていたことに気づく。こんなに隣にいるのに、僕は雨に濡れていて彼女は雨に濡れていないのに、何も喋らないで、夜に息を潜めて。
「やっぱり別れましょう」
目は向けられなかったけど、なんとなく、ヴァレちゃんがうつむいたのを感じる。やっぱり。別れ話が出てきたのは今この瞬間が初めてなのに、当たり前のようにヴァレちゃんは“やっぱり”別れましょうと言った。それがほんとうに当たり前みたいな気が僕もして、“やっぱり”ということばのさびしさをぎうと抱きしめていると、おとなみたいでいて、なおかつこどもみたいな声が出た。「なんで」
鼓膜がわんわんしそうだった。このまちにあるさびしいもの全てに余すことなく降る雨の音、ヴァレちゃんが吸い込む息の音、首の後ろでまだ鳴っているような気がする交響曲の余韻に胸がつまる。僕はヴァレちゃんの方を見た。やっぱり、さびしい瞳はどこか向こうを見たままだ。綺麗なくちびるが仄暗いまちの闇に薄く開かれる。
「わたしは、あなたのこと――」
そのとき、すとっ、と僕の手からずりおちた折り畳み傘が、重心がブレた勢いで横断歩道の方に転がった。僕もヴァレちゃんもはっと息をのんで、地面に横たわる傘を目を丸くして見つめながら、僕らふたり一緒に、つめたい秋雨にまるごとさらされる。ぱっと信号が青に変わって、ヴァレちゃんがあわてて傘を拾い上げたけれど、僕はなんだか身体が固まってしまって動けなかった。
「あなた」
と、ヴァレちゃんが傘を差し出してくれた。彼女の目を見た。彼女の目に僕が映っているのかは、夜で暗くてわからなかった。それがとてもさびしくて、抱きしめたいと思ったけれど、僕にはどうにもできなくて、ただ傘を受け取った。
そのままふたりで横断歩道を渡った。渡りきった後ろを車が通り過ぎて、地面に映る信号機の青い光を揺らした。僕の頭にはまだ交響曲が流れていて、余計にさびしくなった。