「あなた」


 僕の名前は呼びやすいと思う。たったの二音だし、子音が軽いから口先だけでも発音できる。
 それなのに、ヴァレちゃんは、僕のことをあまり名前で呼んではくれない。付き合う前こそは「リクさん」だったのに、付き合い始めてからは「リクさん」でも「リクくん」でも「リク」でもなく、「あなた」だった。
「あなた、」
 ほら、こうやって、僕のことを「あなた」って呼ぶんだ。僕はヴァレちゃんの肩を抱きしめる腕を少しだけきつくする。ジョギングしてる人もいて、まあまあ人目につく公園のベンチに座ってハグとか、ヴァレちゃんは嫌がるかと思っていたけれどそうでもなかった。彼女は僕の肩に寄り添うよう、頭をもたげてくれている。
「どうしたの」
「あれ、渡り鳥かしら」
 そっとヴァレちゃんは、寒空の向こうを指差した。たしかに、遠くの山のきわの方に小さな鳥の群れが見える。けど、僕は「どうだろうね、」と答えてすぐ、目線を彼女の横顔に戻した。
 ヴァレちゃんの瞳は空の鳥を捉えたまま動かなかった。僕とヴァレちゃんの頭と頭のわずかな隙間を冷たい風が通り抜けても、じっと空を見ている。僕はヴァレちゃんの髪を撫でた。赤茶色の長い髪は、触れてもあたたかくもつめたくもなく、『ヴァレちゃんの髪』という事実だけがそこに乗っかっている。その髪を撫でながら、僕は彼女の名前を呼ぶ。
「ヴァレちゃん」
「なに」
「ずっと、どこ見てるの」
「鳥よ」
「僕は鳥を見てるヴァレちゃんを見てる」
 やっと、ヴァレちゃんの瞳が揺れた。ゆっくりと彼女はこっちに首を回す。目が合う。僕はヴァレちゃんだけを見ている。でも、彼女の目の端には、未だ鳥の群れが映っている。彼女の髪を撫でていた手を彼女の頬に当てて、僕は『ヴァレちゃんのくちびる』に短い口付けをした。ふっくらとした感触はたしかにあったけど、あたたかくもなくつめたくもなく、ただ『ヴァレちゃんのくちびる』だった。
「ヴァレちゃん」
 じっとヴァレちゃんの瞳を覗きこんだ。ヴァレちゃんの円い瞳にはたしかに僕の顔が映っている。
「――あなた、」
 ヴァレちゃんはほんの少しだけ震えた声で僕を呼んだ。僕の名前じゃなくて、「あなた」って。でも本当に僕を呼んだのだろうか。ヴァレちゃんの瞳に映る僕は、なぜか、ぼんやりと掴めない。戸惑ったようにヴァレちゃんは目を伏せた。僕は彼女の肩に回していた腕を下ろした。
「そろそろ帰りましょう」
「そうだね、」
 ヴァレちゃんと僕はベンチから立った。ヴァレちゃんはちらっと空を見た。僕も見てみた。もう鳥の群れは空のどこにもいなかった。
 公園を出ると、ぽつりとヴァレちゃんが呟いた。
「頬にあったあなたの手、冷たかった」
「ごめん」
「ううん、違うの」
 違うの、と、ヴァレちゃんは『僕の手』を握った。『ヴァレちゃんの手』のわずかな血のあたたかみが僕に流れ込んできた。でも、ヴァレちゃんの手と僕の手がひとつになるにはまだ全然遠くて、肌寒い風ばかりが僕たちの手を撫でていた。

(あなた、って僕を呼ぶとききみの目に映ってるのはほんとうに僕?)


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