ラピスラズリ


 はしがき 現代短歌計六首によせて

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1.魔

 ずるいのはウェルさんです。
 ウェルさんはたまらなくずるい人です。なんであんなに指が長いんでしょう。嫉妬します。嫉妬など勝手にしろと月は言うでしょうか。あなたの方が勝手にしてください。地球の周りを堂々巡りしているだけの月よ。
 誰が言い出したのでしょうか、今月のピアノの練習の成果を二人で発表し合うのを夜にやろう、と。わたしが言い出したような気もするし、ウェルさんが言い出したような気もします。如何せん、夜にやるのは、失敗でした。
 只今時刻は午後九時。健康的な生活をしている館のお方の中にはもう寝ようとしている人もいらっしゃるかもしれませんが、安心してください、ここは防音室ですからピアノの音が睡眠を妨げることは御座いません。それより問題なのは、月光がやけに窓から入り込んでくることです。カーテンを閉めればいいと月は言うでしょうか。ですが生憎、天井の電灯が丁度切れてしまいまして、窓の月から採光をし、やんわりとした光のテーブルランプをつけ、やっとのことでこの部屋にいるのです。それより、あなたがラピスラズリの夜の中出しゃばっているのに、カーテンを閉めては姿を見てもらえないのですよ、月よ。
 月光が入り込むことの何が問題かと言いますと、ウェルさんの触れる鍵盤に、長い指に、月光がかかることです。月光は魔、なのでしょう。どこか落ち着かなくなります。わたしは肩にかかる髪をいらって、背中に退けました。
「では」
 ウェルさんが呼吸を正して、しっかりと両手を鍵盤に乗せました。いけない。わたしは聞き手かつ譜めくり人なのですから、月に苦言を零している場合ではないのです。ウェルさんの演奏に集中しなくては。
「どうぞ」
 わたしも背筋を伸ばしました。月光を跳ね除けるくらいに。
 ウェルさんが弾き出しましたのは、ソナチネアルバムの中の一曲です。ウェルさんがピアノを始めたのは割合遅めなのですが、もうソナチネを弾いていらっしゃるということは、たぶん、素質を十二分に持っていらっしゃるのでしょう。手が大きく、指が長いというのもポテンシャルのひとつだったのかも。
 ウェルさんの指は、鍵盤にかかる月光をなぞってゆきます。指が長いというのはとても羨ましい。手が大きく指が長ければ、幅の広い和音も弾きやすくなります。わたしは同世代の女の子と比べれば、少し手が大きいと思うのですが、やはり男性の手には敵わないのです。
 そうこうしているうちに、淀みなく演奏は進みました。譜めくりの頃合になりまして、わたしが腰を上げて楽譜をめくると、いやになるほどに五線譜に月の光がちらつきます。どうしたものでしょう。ウェルさんの朽葉色の髪にも月の粉がたっぷり降りかかるのです。やめてほしい。
「あ」
 先月の終わりから練習を重ねた練習の成果、上手に、ミスなく演奏を続けていたウェルさんですが、一個和音を掴み損ねて思わず声を漏らしました。わたしはそれに少し肩をびくりとさせたと同時に、自分がまだ、ウェルさんの座るピアノ椅子の隣の丸椅子からやや腰を浮かした状態であることに気づきます。ウェルさんの髪に見とれてしまって、座りきるのを忘れたようです。スカートのしわをそっと直しつつ、何事もなかったかのようにわたしは座り、ウェルさんは間違えたところの一小節前から弾きなおし始めました。それがなんだか嬉しいような、悲しいような、あたりまえのような、もどかしいような、気がしました。でも、なんでもなかったと思うことにします。わたしはスカートをぎゅっと掴みました。
 月の光を、ピアノの塗りが黒々と、鍵盤がつやめくように、ウェルさんの指と髪がささやくように受けています。やっぱり月は邪魔でした。優秀すぎるのです。魔として。
 月明かりと仄明るいランプの中、ウェルさんの演奏が終わりました。練習は嘘をつかず、ミスは一度きりでした。わたしは静かに拍手を送ります。月に拍手は似合いませんから、こうすれば、月を忘れられるでしょう。
「ミス、一度きりでしたね」
「だがミスをしたことには変わりない」
「大丈夫ですよ、厳かな発表会ではないんですから」
 わたしは微笑みました。ウェルさんにいつも見せるのと同じように、を心がけて。ウェルさんもちょっと、口の端を緩めました。さあっと、室内が急に薄暗くなります。月が雲に隠れたようです。よかった。わたしはまた、笑みを零します。
「でも、ミスのないようにという心がけはとても素晴らしいと思います(、好きです)。練習たくさんされたんだなあ、と思いました(、好きです)」
「リズムが好みだから、いつもより多く練習したかもしれない」
「そうなんですね(、好きです)。この曲は終わりにして、次回からソナチネは次に進みましょうか」
「譜読みをしておく」
「できる範囲で構いませんよ、だって、もう、明日もここで会うじゃないですか(、好きです)」
「ああ、そうだった、いつもの時間でいいか」
 ウェルさんがひとつ、苦笑を零しました。同時にゆらりと室内の明るさが戻りました。月が、出た。窓枠、床、ピアノの屋根、側面、鍵盤、ウェルさんの指、髪。月の埃。浴びる。息。呼吸。夜。だめだ。ウェルさんの質問に答えかけたわたしのくちびるがおかしくなる。月の埃を吸い込んでしまいました。わたしのくちびるが。不思議そうに、月の埃を受けた朽葉色の髪が、風もなく揺れました。だめだ。唇を抑えきれない。こんなもの迷惑なのに。だめだ!
「好きです」
 ずるいのは彼です。いえ、月です。いえ、彼です。魔が差したのは月のせいです。いえ、彼のせいです。ちがいます、空っぽなわたしが悪いのです。
 わたしは瞬時に俯きました。ウェルさんの方など見れません。
「ちがいます」
 ちがいますだなんて言えないでしょう。何がちがうのでしょう。でもたしかにちがうのです。ちがわないことがちがうのです。
「ごめんなさい」
 間違えました。ごめんなさい。間違えました。だめだ。えっと。言葉が出てきません。喉がつまる。
「ちがうって」
 いつもより強張ったようなウェルさんの声が、しました。
「言うつもりなかった、ので、ちがう、んです」
 わたしは意を決して、月の埃をたくさん吸い込んで、顔をあげました。ウェルさんは、やはり、眉根を下げて、困ったように目をやや細めていました。やはり、わたしの好意だなんて、ウェルさんにとっては迷惑なのでしょう。これは失恋と呼ぶべきだ。
「忘れてください」
 わたしも、困ったように笑いました。なんでだろう、涙が出てきそう。泣くまい。迷惑な気持ちを押し付けたウェルさんの前で泣くわけにはいかない。明日、会える気がしません。どうしよう。忘れる魔法をわたしは使えません。何か曲を口ずさめば使えなくもないでしょうが、失敗すればそれこそウェルさんに迷惑をかけます。どうしよう。だめだ。視界がぼやけてゆらいできました。月のせいです。
「忘れない」
 ぼやけた月の光の向こうで、そう声がしました。ぎうとスカートを握っていたわたしの手に、ほっそりとした、少し冷たいけれど優しくて大きい手が重ねられます。
「おれも、好きだ」
 わたしたち、月の埃に毒されて、手を握り合いました。わたしは月に、彼に、涙を流しました。
 ウェルさんのソナチネアルバムの五線譜には、ラピスラズリを抜け出した月の光が満ちていて、夜でした。

  ささやきのやさしい夜ふけ五線譜を月のひかりはとおりぬけたり /加藤治郎
  粉雪か月の埃かわからないけれどあなたの髪にふれたい /田丸まひる
  空っぽの私の中に入りこむ魔が射すときの魔のような月 /中畑智江


2.どうでもいい

 珍しく、ピアノ部屋に鍵がかかっていた。いつものレッスンならおれよりも先にロゼがいるはずである。もともと、おれのレッスンの前にはロゼが何か練習しているからだ。
 おかしい、と思いながらも、ポケットから部屋の鍵を取り出して開ける。
 やはり部屋には誰もいなかった。ピアノの蓋を開けて、楽譜も脇に並べてロゼを待つ。しかし、いつもレッスンが始まる時刻を過ぎてもロゼは現れない。
 おかしい。
 ロゼは約束をやぶるような人物ではない。真面目な人だ。急な出来事が起こって約束をやぶることになってしまっても、必ず何か一報入れる。そういう人だと思う。
 おかしい。
 五分、十分、十五分、二十分、時が経つ。ハノンを練習して待つが、しかしロゼはやはり、来ない。
 おかしい。これは、おかしい。
 今朝会ったときに何かおかしいことはあったか?なかった。いつもどおり会話をした。ちょっと疲れているのか?と思う節はあったが――例えば少し、生気がないというか。気のせいだったかもしれないが。彼女はもともと、ぼんやりするのが好きなタイプである。
 それにしても、おかしい。
 ロゼに何かが起きたと思った。彼女を探すべく、おれはピアノ部屋を出た。入れ違いになる可能性もあるかもしれないが、二十分ここにいても来なかったのだから、きっと予想外の何かがあったのだ。そう簡単に入れ違いにはならないだろう。
 廊下は灯りがついていて明るいが、窓の外は宵闇に薄暗い。随分日の落ちるのが早くなっている。ロゼはどこにいるのだろうか。外か?外ならば冷えるだろう。秋は深まっているし、なんと言ってもこの弱雨で――。
 忙しなく歩を進めつつ、窓にかかる小さな水滴を見ていると、その窓の向こうの庭のフットライトに、ロゼのものらしきくるくるとした長髪の影が見えた。あれはロゼだろう。たしかに、きっと。
 いいか、人間とは信じる生き物だ。未来のことなどわからないから、何かの可能性を信じてすがりつくしかない。未来のことなどわからないから、裏切りなんてない。考えられなかった可能性があったし、それが起こったというだけだ。
 おれは玄関ではなく、庭に面した裏口から外へ出る。裏口には共用のものなのか私物なのかわからない傘が置いてあったので、それを拝借した。ばっと傘を開き、雨降らす雲の下へ出る。思いの外、雨粒が傘の上でしっかりとした音を立てた。雨に濡れて月光がやんわりと映る庭の小道をゆく。廊下の窓からロゼらしき髪が見えた方へ。
 やはりそこにはロゼがいた。リンドウの植えられている花壇のそばで、屈んでいる。
「ロゼ」
 名前を呼ぶと、髪を揺らして彼女は顔を上げた。
「ウェルさん」
 灯りもそうない夜の庭だから顔がよく見えないが、彼女の目は何か、いつもとちがう気がした。今日は三日月なのに、やけにたっぷりと月光を含んでいるような。おかしい。声音もいつにもまして弱々しい。
「心配した、ピアノ部屋に来ないから」
 傘を差し出そうと思っていたが、彼女は傘はなくともレインコートを着ていた。薄い月光に、水滴のたくさん乗ったフードをがさりと被りこんで、小さく「ごめんなさい」と言う。
「逃げちゃったんです」
「何が」
 逃げちゃった、と言うから、ペットかと思った。ペットを飼っていたなどいう話は一度も聞いたことはないのだが。ロゼの部屋を訪れたときもそのような跡は全くなかったように思う。おかしい。そもそも館でペットが飼えるのだろうか。
「何が、っていうか、わたしが」
「ロゼが?」
「ウェルさんから、逃げちゃったっていうか、」
 ごめんなさい、許されない、ですよね。
 急に雨がやんわりと強まって、ロゼの呟きは雨の夜闇に、フードの陰に、消え入る。
「おれから」
 唾が全然出てこない。雨のせいか、夜のせいか、月のせいか、ぐらりと地盤が揺れて、立っていられるかわからないような感覚がする。
「なんか、しあわせが、こわくなっちゃったんです」
 はは、と、雨に似合わぬ乾いた笑みを零して、彼女はゆらりと立ち上がった。両手を顔で覆いながら。レインコートの腕の皺に、よく雨粒がたまりこんで、月が閉じ込められている。
「忘れてくださいわたしのこと」
 その言葉におれは、おれは怒った。怒ってないかもしれない。大木の根がおれの心にズンと絡まって芯をグッと掴んできている、ような。それとも肺が五ミリ前に圧迫されている、ような。心臓が期待に高鳴るのではなく、もっとどろどろとした憎しみに似ているものに突き動かされて、血が巡っているのを感じる。よくわからないけれど、とにかく、おれは、下唇を噛んだ。
 傘だけがしっかりと、微風に流されることなくおれの手の中に立っていた。彼女はふらりとどこかへ行こうと足を一歩踏み出していて、おれはゆらゆらする地面に立っているだけで精一杯だった。
 おれは傘を捨てた。凌いでいた雨が一斉に降りかかる。ぐっと地面に立つ。丁度おれの隣を通り過ぎようとしていた彼女の肩を掴んで抱き寄せた。
「ひどいだろう」
 後ろから彼女を抱きしめる。彼女は抵抗しなかった。フードを被った頭を垂れたまま。
「ねえ、濡れますよ」
 いいんだ、どうでもいいんだ、そんなこと。服に染みる雨が冷たいとか、レインコートががさがさしているとか、レッスンをすっぽかしたとか、おれから逃げたかっただとか、しあわせがこわいだとか、意味のない「忘れて」とか、三日月が沈みかけようとしているだとか。どうでもいいんだ。それをわかっているか知らないが、それすらも、どうでもいい。ただひとつ、どうでもよくないことのためにおれは生きている。
「おれだってしあわせはこわい」
 ほうった傘ががらんと微風に音を立てた。きつく抱きしめた、不規則に震える彼女の肩のレインコートの水滴の檻に、月が閉じ込められていた。

  やわはだをすべる三日月 君はただ後ろから抱かれていればいい /笹井宏之
  水滴のひとつひとつが月の檻レインコートの肩を抱けば /穂村弘


3.ラピスラズリ

 おれとロゼは夜の散歩をしていた。とくに当てもなく、ただ、歩く。かすかに虫の音がする。夜の向こうで、木々がさわさわと揺れる。けれどこの夜、空が穴あけパンチを忘れたか、夜のインクを溢したか、月がない。
「月がない」
「ラピスラズリが、食べちゃったのかもしれませんね」
 すぐ近くで、ふふふといたずらぽく彼女が笑う。首元のチョーカーが闇夜にやわらかく艶めく。
「どこかで微笑みながら?」
「ふふ、そうかも」
 くすくすとロゼは笑みを零した。最近はよく笑うと思う。なんというか、少しずつ、感情を表に出すようになってきた。ずっと被り続けていた月の埃が、はらはらと落ちていくようになった。
 分岐点に来た。舗装され、街灯もともっている道の脇、すっと畦道が田んぼの方へ伸びている。特に何か喋るわけでもなく、二人で畦道を選ぶ。じゃり、と轍の跡の残る地を二人して踏む。道の右側からは音がしないので稲穂がもう刈り取られたのだろうが、左側の稲穂はまだ刈り取られておらず、さらさらと風にそよぐ。
「もしかして」
「なんですか?」
「月を食べたのはロゼか(好きだ)」
「ちがいますよ」
「ちがうのか」
「そうですよ」
 じゃり。じゃり。くすくす。舗装されていない道と靴が音を立てる。田んぼのさらさらではなくて、川の流れのさらさらがだんだんと近づいてくる。
「月は食べませんから」
「イチゴは食べるのに」
「ストロベリームーンなら食べちゃうかも」
「やっぱり月を食べただろう(好きだ)」
「食べてないですよ」
 くすくす、ふふ、じゃり、さらさら、くす、じゃり、じゃりじゃり、さら、くす、さらさらさら。じゃり、さら、くすくすくす、さらさらさら、じゃり、ふふ、じゃり、じゃり。
 月のない夜だ。月のない夜なのに。
 田んぼの端まで来た。土手を上がる。川が流れている。水面に月の映っていない川がそこにある。二人して立ち止まる。背後には、じゃりじゃりとくすくすを置いて。しん、とラピスラズリが全部を飲み込んで張り詰めた夜に、水のさらさらだけがここにある。
「ロゼ」
「なんですか」
「好きだ」
「わたしも、です」
 夜にとけたかもしれない彼女の輪郭を確かめるように、ふふふとどこかで笑うラピスラズリに飲み込まれるように、さらさらと流れる川の前で、ふたりそっと、口付けをした。やっぱり彼女はラピスラズリだった。

  「月がない」「ラピスラズリが食べたんだ」「どこかでふふふと微笑みながら?」/島本純平


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