闇夜に柘榴


 これは、ルピナスの――いえ、あたくしの、夢かもしれないはなし。
 ルピナスという女の子がいたの。あたくしと歳はそう変わらない。幾らか彼女の方が下だったけどちっぽけすぎる差異よ。
 彼女はあたくしと仲良くしてくれた――と、思う。彼女がどう思っていたかなんて推測しかできないから、本当に仲良くしてくれたって言っていいのかあたくしにはわからないけれど、雨の降らない日の夜は館の屋上にふたり、ひっそりと毎度集まっていたという事実はあたくしの中に、はっきりとある。
 屋上の見晴らしはとてもいい。ただ、あたくしは夜の屋上にはよく出ていたけれど、日中に出たことはあまりないから、その展望はあまり覚えていない。かわりに覚えているのは、彼女のにおいと冷たい手。それから、ピンクがかった月のような、淡く甘い声音。
「エリーちゃんの血が飲みたいなあ」
 そう言って、いつも、あたくしの首筋に指を這わせる。ひどく冷えた指。あたくしは毎回それがこわくて、ルピナスがそうするときは固く目を閉じていた。だから、そう言うときの彼女の顔をあたくし、一度も見たことがなかった。もっとも、闇夜に彼女の表情なんて、目を開けていても見えなかったでしょうけれど。
「飲んでもいーい?」
 彼女が囁くと、柘榴のような香りを閉じ込めた吐息があたくしの前髪と耳にかかる。頭からばりばりとマジックテープの雑音のような痺れが爪先まで瞬時に伝わる。それを振り切るように決まって、二回、首を震えるように小さく頷いた。一回は彼女に、もう一回は自分に。
 風の向きが少し変わる。彼女のにおいとあたくしのにおいが、渦巻くように混ざる。頭のてっぺんがいつもより変に脳を打ってくる。ルピナスは少しあたくしの髪をどけて、右肩に冷たい手を置いた。彼女が触れたところから、柘榴の香りが染み込んでいくような気がしていた。巻き髪が風にうずく頃、彼女はあたくしの首筋に口を近づける。彼女のさらりとした黒髪があたくしの巻き髪と交じる。この瞼の裏だけを見ている世界で、彼女のにおいと柘榴の香りしかしなくなる。彼女の声と同じくらい、いやそれ以上、そっと甘く、首に歯が当たるのを感じる。痛くない、痛くない、痛くない。いつも痛かったことはない。でも、いつも、こわい。壊れて同じ言葉しか言えなくなったロボットみたいにあらゆる関節が竦む。手探りで、左手で彼女のゴシックロリータのフリルにしがみつく。歯が食い込んでくるのを感じる。目を閉じているのに泣いてしまいそうで、全部真っ暗なのに視界が滲みそう。
 もう限界だ、というところで、柘榴のにおいが少し薄まる。首から歯の感触が消えた。するりと右肩から冷たい手が落ちる。
「――ん、ご馳走様」
 ふう、とルピナスの明るい声に、やっとあたくしは目を開ける。彼女がにいっと口角を上げているのがうっすらとだけ見える。そっと、噛まれたところを撫でてみると、やっぱり、何も残っていない。かわりに、すっと涙が頬を伝って、首筋へ落ちる。
「やっぱりこわいの?泣かないでよー、大丈夫だから」
 彼女が血を飲んだ後、決まってあたくしは、泣いた。いつもルピナスはそっと背中を撫でてくれた。あたくし自身、なぜ泣いているかなんてわからなかった。こわかったから?たしかに、こわい。でも何が?血を飲まれるのが?でも、噛み痕なんていつも残っていなかった。本当に彼女はあたくしの血を飲んでいるの?仮に飲んでいないといとしたらなぜ毎晩ここで彼女はあたくしと会うの?
 わからない。何もルピナスのことを知らない。知っているのは彼女のにおいと、いつも漂う柘榴の香りと、冷たい手。
 でも、一回だけ質問をしたわ。
「ねえ、本当に貴女、あたくしの血を飲んでいるの?」
 去年、夜風の冷え切った十二月の初旬、彼女が血を飲んだ後、頑張って泣き止んで、震える声で聞いた。寒さで震えたのか、また別の理由で震えたのか、わからない。
 彼女はあははっと真夏の真昼に海水でも蹴って遊んでいるみたいに笑った。彼女は太陽に当たることはしないはずなのに、でも、そう思わせる笑い方。
「もちろんだよー!こんなに毎日会ってて、飲んでないってオチはないでしょ」
 ルピナスはあたくしの左肩をぽんぽん叩いて、顔を耳に寄せた。今夜二度目の強い柘榴の香りに、目がかちかちして、寒風が頬を撫でているのに少し熱を帯びる。
「エリーちゃんの血は、柘榴みたいな味して美味しいよ」
 囁き声。自分の細く吐いた吐息が震えた。闇夜だから、白い息は見えなかった。くすくすと彼女が笑う。脳の皺の全部がうごめいた。『柘榴みたいな味』、って。また身体が震えた。
 でも、その次の日も、またその次の日も、それからもずっと、あたくしとルピナスは夜の屋上で会った。柘榴の香りが鼻にこびりついて離れないくらい、毎日。
 そして、昨日――ええ、昨日。
 血を飲んでもいいか、という彼女の声に、あたくしは首を横に振った。二回。
「――……なんで?」
 あたくしは目を開ける。丁度昨日は満月だった。彼女の顔が、いつもよりよく見える日。ルピナスは笑っていた。ぎこちなく。
「どうしたの?」
 赤い目がきらきら、月光をよく吸い込む。あたくしを心配するように、ちょっと上目に、あたくしの顔を覗き込んだ。あたくしは、喉から絞り出すように、言葉を声に乗せた。
「こわいの」
「大丈夫だよ、毎日、今日まで、大丈夫だったんだから」
「あたくしのことじゃないの」
 俯いた。自分の巻き髪が肩から落ちる。いくら月の明るい夜でも、あたくしたちの足元にはおびただしいほど真っ黒な影が落ちていた。
「貴女のことが」
「こわいの?」
 彼女の声はいつもより甘くない。でも、優しい。それでいて、少し、緊張している。きっと彼女も喉が絞まっているんだ。こっくり、あたくしは頷く。
「柘榴の味、するんでしょう、あたくしの血、だからこわい」
「なんで」
「だって貴女、最近いつも、柘榴の香りばっかりする」
 彼女のにおいがわからないくらいに。覚えているにおいはいつかの、遠し日のものだ。もっと人間みたいなにおいがしていた。いつの日か獣だった人間の、人間元来のにおいがしていた。だけど今の彼女は、そんなの、しない。いつも柘榴の香りばっかりだ。
「――だから何」
 とても震えている。それでいて少し尖っている。あたくしは顔をあげた。怯えている赤い目を見つめる。膝が少し震える。
「貴女があたくしの血を毎日飲んでいるから、貴女が、貴女が」
 目を細めて、頬をあげて、彼女は笑う。優しい笑みなのに、眉が下がっている。
「よく、わかんないよ」
「貴女があたくしの、血を飲んじゃったから、貴女が、どんどんダメな方向に行ってるんじゃないかと思ってこわい、貴女から柘榴の香りがするのだって、あたくしの血が柘榴の味だからってことじゃ」
「それが」わからない、と彼女は口と眉を歪めた。「それが、どういうこと」
「だってあたくし、」膝の震えが止まらない。「ダメな子だから」
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、貴女に血を飲ませてごめんなさい、あたくしみたいなダメな子の血を飲ませてごめんなさい、ずっとこわかったのに断れなくてごめんなさい、あたくしの血で貴女を汚してごめんなさい、ごめんなさい――。
 泣いてしまった。頭が痛い。視界が全部真っ黒なのに滲んでぐじょぐじょ。「泣かないでよ、なんでごめんなさいって言うの」、って遠くで聞こえる。
「――だって!」
 泣きじゃくる顔をあげた。彼女があたくしの肩の方に手を差し伸べて、抱こうとしていた。黒髪が月に光る。横隔膜が変になって苦しい息がほんの一瞬、止まった。
 彼女の黒髪が、彼女の差し伸べた手が、彼女の陰が、全て真っ黒になる。闇夜と一体化して、毒を吐くように、毒を吸うように、化け物のように、ヒトの形を失うように、シミが広がるみたいに、むくむく、彼女が黒い塊になるように思えた。あたくしは自分の背を越したそれを見上げた。
 彼女は化け物になった。全部あたくしのせいだと直感した。あたくしは黒い塊にしがみ付いて、引っ掻いて、噛み付いて、彼女をこちらに引き止めようとした。
 あたくしは闇に泣いた。月光は無慈悲だった。

 ――それで、今日。気付いたら朝、自分のベッドで目が覚めて、ルピナスの姿は館のどこにもなかった。それどころか、館の皆、ルピナスなんて女の子は知らないっていうの。ねえ、貴方もルピナスって名前に、本当に聞き覚え、ないの?

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